「――じょうさま、お嬢様、お気づきですか」
 桐の呼び声で目を覚ます。ぼやけた視界が徐々に焦点を結んだ先には普段見つめている天井があった。明かりを落としたランプの下で、彩香は呆然と瞬きをくり返す。
「……きり?」
 名を口に出すと、彼はほっと息をついた。
 窓からこぼれる陽光が、部屋の中に筋を作っている。日はまだ高く昇っているらしい。
「私、どれぐらい」
「まだ一時間も経っていません。ご無事で安心しました」
 言いながら、桐は安堵の表情をそぎ落とし、しかつめらしい顔を作る。そうして彩香の眠る寝台から身を離した。
「お目覚めになりましたら、旦那様のもとへ参りましょう。心配なさっておいでです」
 果たしてそうだろうか。思わず真顔になった彩香に気付いてか、桐は眉根を下げた。
 そうして彩香が見つめてしまうのは、枕元に設えられた棚の抽斗だ。その中には今も、手の中に握りこんでしまえるほどの大きさの薬入れがしまわれている。
 梅の紋が描かれたそれは、当主が産まれたばかりの赤子に渡す後継者の証だった。薬入れを尊ぶ理由は、梅の紋の祖が万薬を操る薬師であったことにあるとされる。今はその薬入れも彩香の手元にあるが、彼女が婚儀を終えれば、次期当主となる彼女の婿の手に渡されることになるだろう。その時が来ることを彩香は恐れていた。
 彩香が浮かべた憂慮の意味を取り違えたのか、次第に桐の表情が曇っていく。
「お嬢様……」
「大丈夫よ、なんでもないわ。行きましょう」
 ふり払って寝台から降りた。橋から落ちたときのままの格好で寝かされていたのだろう、着物にはしわが寄っている。軽く整えてから桐を伴って部屋を出た。二階建ての屋敷の大広間は吹き抜けになっており、一階の奥の壁には梅の紋が刺繍されたタペストリーが掛けられている。
 八華連邦が結成された日、連邦議会を構成した八つの名家がそのまま八つの紋を預かった。それももう五百年以上昔のことだ。継続が困難になれば、力ある豪族のうち議会の承認を受けた者が新たに紋を受け、領土を治める仕組みになっていた。
 彩香はその前を横切り、階段を上ると、父の自室の扉を叩いた。「彩香です」と断りを入れると、すぐに入るように声がした。
「失礼致します」
 扉を開けた途端に漏れ出るような臭気が無いことを確認してほっとする。失礼のないようにと足早に部屋に入るも、部屋の中央に置かれた檻を見て顔をひきつらせた。全体に覆いが掛かっているが、虎や狼が入っていてもおかしくはない大きさだ。
 折からはなるべく距離を取るようにして父の前へ歩み出た。流れるように腰を折って一礼する。
「こんにちは、お父様」
 執務机に向かっていた彩香の父、朝妻知治は、彩香を上から下まで眺めて口を開いた。
「橋から落ちたと聞いたぞ、彩香。怪我はないか?」
「ええ、どなたかが助けてくださったみたいで……」
 かすり傷一つ負っていないのは、あの金の瞳の青年のおかげだ。桐は彼のことを口に出す様子も見せなかったけれど、あとで探して礼を言わねばと思っていた。
 彩香の言葉に、そうか、と知治は眉を寄せる。
「体には気をつけなさい。おまえは婚前の娘なのだから」
「……はい。ごめんなさい、お父様」
 彼が心配するのは娘ではない。家の後継ぎであり、来る後継者の嫁だ。胸がちくりと痛んだ気がして彩香は眉を伏せた。
 知治はそんな娘の様子を気にするふうもなく、おもむろに椅子から体を離す。彼が足を止めたのは、それまで彩香が触れないようにしてきた大きな檻の前だ。
 鳥籠のような形状をしたそれからは獣らしい匂いがしない。中にいるのは怪鳥の類だろうか、もしかしたらまた大蛇かもしれない。世話をするのが自分ではないとしても、誇らしげな父が紗幕を外すこの一瞬が、彩香にはいつも恐ろしくてたまらないのだった。
「なんだと思う?」
 口元が嬉しそうに上を向いている。彩香は首を振った。知治はしかしすぐに覆いを外すわけでもなく、もったいぶるようにその端をつかんだままでにやついている。
「彩香、天虎の話は知っているか」
「天虎……虎風山の、金の瞳の?」
 答えると、父は満足そうにほほ笑んだ。それでますます困惑する。
 知っているもなにも、つい先ほど思い出したばかりだった。華人として生を受けた者ならば誰もが耳にしたことのある物語。とはいえ彩香ほどの歳になれば信じる者は誰もいない。そもそも虎が喰らったという神仙の存在自体が眉唾ものなのだ。
「確かに天虎は金の瞳の虎を指すが、それだけではない。虎風山のふもとには、同じ名前の民族が住んでいる。もちろん華人ではない、教養のない蛮族どもだ」
 だが、と言葉を継いで、知治は一息に覆いを払いのける。
 突如入り込んだ光に、檻の中の獣が体を震わせた。ややあって、彼はしばたいた瞳をゆっくりと開いていく。その目はゆらゆらと部屋の中をさまよい、彩香を視界に入れた瞬間、大きく見開かれた。
 瞳の色は金、髪は黒。二本の腕と足を持つ、人の形をした獣。
 ――その姿は、彩香を救った青年そのものだ。
「……お父様」
 目がくらむような心地がして、彩香はふらりと後ずさる。得意げな顔をした父が檻を叩いた。
「美しい色の瞳をしているだろう? 世界にまたとない珍種だ、金を払って手に入るものではないぞ」
「何を、言っているの……? お父様、彼は」
 人間でしょう。
 自分の呟きが声を伴っていたかも定かではなかった。
 檻にかかる振動が耳ざわりだったのか、金目の青年はちらりと頭上にある知治の手を見やる。そしてすぐに興味を無くしたのか彩香の方へ顔を戻した。
 一向に知治たちを苛む様子のない彼の態度は、ともすれば檻の中を気に入っているかのようだ。一方で彩香は動揺を隠せないまま口元に手を寄せる。そのまま大きく首を振って、弾かれたように顔を上げた。
「か、彼は、橋から落ちた私を助けてくださった方だわ! こんな、檻などに入れていい人じゃ――」
「天虎は虎、そして蛮族だ。獣となにも変わらん。離せば逃げるかもしれない。それに天虎族は、人を凌駕する身体能力を持つらしいからな」
 見れば彼の両手には手枷が、両足には足枷がはめられている。鍵がなければ容易には外れない合金製のそれを目にして、彩香は今度こそ言葉を失った。それを感動ゆえのものと勘違いしたのか、知治は大きくうなずく。
「そんなに気に入ったのなら、彩香、これはお前にやろう。そういえば誕生日を過ぎたばかりだったな」
「お父様!?」
「世話のほうは、お前がするなり使用人に言いつけるなり好きにしなさい」
 言うなり呼び鈴を鳴らす。すぐに四人の男が駆けつけ、知治の指示のもとで青年の入った檻を抱え上げた。おっと、と危ういところで体の均衡を保った青年が、どこか気の抜けた表情で部屋の外へ消えていく。声を荒げることもしないままに運ばれていった彼を、彩香は呆然と見つめていた。
 彼に怒りというものはないのだろうか。桐によって閉じられた扉は、彩香の困惑に答えを返さない。
 知治はふたたび椅子に腰を下ろすと、彩香に声をかけた。
「それと、彩香。近々お前に会わせたい相手がいる。日頃の身なりにはよく気をつけておくように」
 ぽかんと口を開いたままの彩香には、その言葉にも即座には声を発することができなかった。返事は、という催促に「……分かりました」と返すのがやっとというありさまだ。それが知治の不興を買ったのか、退出を促す声は心なしか低いものに変わっていた。
 桐に誘われるまま父の部屋を後にする。数歩を歩いたところで立ち止まると、彩香は絨毯の花模様を睨みつけた。
「お父様は、何を考えていらっしゃるのかしら」
 あとに続いた桐が言葉に迷う様子が窺えた。彩香と知治、両方の立場を慮っているのだろう。答えられないようなら彩香もひとりごとの体にして諦めるつもりでいたが、彼はゆっくりと、ためらいがちに言った。
「……旦那様は、拾い物には寛容な方です。それが、ご自分に、牙を剥かない限りは」
 彩香がはっとしてふり返ると、桐は無言で目を落とすところだった。
 酷なことを聞いた、と唇を噛む。
 桐の言葉はそのまま彼自身を指していた。孤児であった彼はかつて桜の紋に属する町の路端に暮らしていたという。行く先のない子供を拾ってきたのは、当時そこへ連邦議会の会合に訪れていた知治だ。
 以来桐は朝妻家に仕えている。一人娘である彩香の傍仕えに就任したのも、彼自身の邁進とそれに対する知治の信頼があってこそのことだった。彼は誰よりも朝妻家に、そしてその当主たる知治に忠実だ。生まじめな性格はもとからのものだろうが、それに忠誠が加われば彼は人並みならない努力の才を発揮するのだった。
「ただ、あれは華の外の者です。人の姿をしているとはいえ、扱いには気を付けられた方がよろしいかと思います」
「……そうね」
 華の町の外は恐れられ、同時に蔑みの対象にされる。読み書きも単純な計算もできない野蛮人であると学校では教えられるという。しかし苑は、その類のことを一言も口にしてこなかった。曖昧だった『外の人間』の定義を知治同様に獣のようなものと捉えていた彩香だが、初めて見たその姿には驚きを隠せなかった。
 なぜなら彼は人らしい姿をしていた。
 華人の誰もが恐れる野蛮人の姿は、そこにはなかったのだ。