檻の虎

 庭の椿の花がこぼれた。
 それを老師せんせいであるところの苑に伝えたところ、彼は長いひげを撫でながら一考したあとに、手元に硯と筆を引きよせた。この老師には古風なところがあって、華では一般的となったペンより筆を用いることを好むのであった。
 此度、苑は絵を描いた。簡素ながらも端正な梅の花だ。
「散らぬ花はございません」
 それは彼の教えの根源であり、姿勢そのものだった。正座で臨む彩香に微笑みかけ、描いたばかりのその花を黒々と塗りつぶしていく。
「種を蒔けばやがて芽吹き、その丈をを伸ばして、いつかは花を咲かせるでしょう。ですが花は永遠のものではありませぬ。実を残し、いづれ枯れゆく定めにあります」
「……はい、老師」
「世に終わらぬものはなく、それゆえ受け継がれる。生の連鎖は死の連鎖。私があなたに学びをお教えするのも、また同じことなのですよ」
 何度も、彩香の身の隅々にまで刻み込むように、苑はそう言った。手を変え品を変え学びを伝える彼の背後にはいつもその教えがあった。
 黒に染まった紙を畳み、硯と筆を拭って、苑は和やかに笑った。初老の男らしい柔らかで清々しい笑みであった。この世に神仙が住まうのならば彼のような姿をしているのではないか、と彩香は二十になった今でも考えている節がある。
「本日はこれでお終いに致しましょう」
「はい。ありがとうございました、苑老師」
 畳に両手をついて腰を折る。その畳も礼法も彩香の属する梅の紋の流儀だ。苑は別の紋の出自であるため、本来ならばそのしきたりに従うべきなのだろうが、彼はいつか首を振って否定したのだった。曰く、示す手段は問わぬ、そこに礼さえあればよい、と。
「あなたのような教え子を持てて私は幸せです。何を伝えても翌日には飲みこんで下さる。理解できぬところを隠さない。十年師を続けて出会えるか否かという相手でしょうな」
 かいかぶりすぎです、と彩香は首を振る。背中のあたりまで伸びた髪が揺れた。
「私がそうしていられるのも、他に身のやり場がないがゆえですし」
 そう添えた顔は曇った。
 苑は片付けの手を止めて、彩香の表情をうかがう。ふうむ、と息をついた。
「お父上ですかな」
 彩香は唇を噛んでうなずいた。
 察しがいいというのもおかしな言いようだ。ここ数年というもの、苑に対し、彩香は何度も身の上話を重ねているのだから。苑は彩香の父親に雇われた家庭教師であるため、彼に対しては大きな権限を持たない。また軽率に諫言を口にすることもないため、彩香が溜めこんだ鬱憤を吐き出す場は自然とこの老師のもとになるのであった。
「私の婚約を考えておいでのようです。相手は梅の紋の豪族のご子息で、その方も片親……父君を喪っていらっしゃると伺いました」
 彩香もまた、幼いころに母を亡くしていた。その衝撃は年端もいかない子供には大きなものであったようで、今の彩香からそれ以前の記憶がすっぽり抜け落ちているほどだった。
「その方の母君というのが……私のお母様に、よく似ていらっしゃると」
 女性がひとり、供をつれて屋敷から出ていくのを見送ったことがある。父からは何の説明も受けなかったが、あれが例の女性なのだろうと彩香は心得ていた。その横顔は屋敷に飾られた母親の肖像画にそっくりで、彩香にある疑念を抱かせるには十分であった。
「父はきっと、まだ母のことを忘れずにはいられないのです。世界中から珍品珍獣の類を寄せ集めるのも、胸のすき間を埋めるため」
「……難儀なことですな」
 彩香の父親には蒐集癖があった。以前はそんなことをしなかったと古株の使用人に聞いたことがあるため、それも妻を喪った反動なのだろう。
 しかし日々増えゆく怪しげな調度やすさまじい鳴き声の獣を見るたびに、果たしてそんなものが代わりになるだろうかと思わずにはいられないのだ。もちろんそれでは満たされないからこそ、次々と使者を送っては、また屋敷に珍品を運び入れているのだろう。最近増えた蔵のことを思って彩香は深いため息をついた。
 その様子を眺めやりながら、苑はふと首をかしげる。
「彩香殿は、ご自身の婚約のことはどう考えておいでなのですかな?」
「婚約は……」言葉に詰まり、手持ちぶさたになった指先を突き合わせる。「まだよく考えてはいません。けれどその時が来たら、仕方ないのだろう、とは」
 梅の紋に産まれた者の務めですから、と苦笑した。
 独自の文化を持つ領土を治める、花をそれぞれの名に記した八つの紋。その集まりが八華連邦だ。連邦の中に属する者は華人、華の者と呼ばれ、外に住まう者とは厳格に区別される。華学、華服、と名をつけられたものの全てが、外界の民族たちに対する差別意識の表れだった。
 そして現在の八華のうちの一、梅の紋を治めるのが、彩香の父親である朝妻知治あづまともはるだ。治領の手腕には優れているが、その蒐集癖は梅の者たちにも快くは思われていないようだった。
 苑は彩香の答えに二度、三度とうなずき、目を細める。
「あなたはまだお若い。太陽の方向も知らぬ蕾、もしくはやみくもに枝を伸ばすばかりの若木です」
 老師? と彩香は首をひねる。
 ちょうどそのとき、外側から扉が叩かれた。学びの時間が終わりであることを告げる迎えだ。慌てて身支度をして、彩香は今一度苑に深く頭を下げた。落ち着いた色合いの着物がたおやかに揺れるのを見上げた苑は呟く。
「恋をなさい、彩香殿。実らずとも、やがて花開くための力となる恋を」
 老いた師の言葉にしては色のありすぎるふうがあった。目を丸くした彩香を、扉の外から年若い青年の声が呼ばう。今行くわと返事をして、彩香は畳を踏んだ。
 扉の向こうに立つ青年が、彩香を目に止めてうなずく。
「桐、ごめんなさい」
「いえ。参りましょう、お嬢様」
 二十に届くか届かないかというほどの歳の青年だ。若々しくさっぱりとした風貌をしており、その実直な性格もあってか、梅の紋に仕える女性の使用人からはひどく可愛がられているようだった。幼い頃には彼女たちからの贈り物を抱えながら青い顔をしていたのを、彩香は昨日のことのようによく憶えている。
 馬車は書院の外に止められていた。御者が帽子を取って頭を下げるのに、彩香は目礼を返す。
 苑を呼び寄せた書院は広大な敷地を持つ梅の屋敷の隅にぽつんと建てられている。それも周囲を切り立った崖に囲まれた高所に位置し、そこと他の屋敷を繋ぐのは傾斜のなだらかな山道と一本の橋だけだった。梅の紋のもとにある町に下っていくならば山道を進めばいいが、彩香たちが居を置くのは橋の先である。万が一のことが無いように、そこを渡る馬車は細心の注意を払うようにと伝えられていた。
「お嬢様、お乗りになりましたね。それじゃあ出発しますよ」
「ええ、お願いします」
 車輪ががたんと小石を踏み、それからようようと速度を上げていく。二人が対面して座るようにつくられた四人用の馬車の中で、彩香は桐とはす向かいに座っていた。扉のすき間から流れこんだ甘い香りに導かれ、窓の外に目を向ける。
「花の香りがするわ。もう梅が咲いているのかしら」
 桐は同じように外を見やって首をかしげる。
「まだ蕾をつけているころだと思いますが……庭師のほうに伺っておきましょうか。後ほど部屋にお届けいたします」
「ううん、そこまではいいわ。せっかく花をつけたのに枝を折ってしまうのは可哀想だし」
「かしこまりました。……ああ、それと、お嬢様」
 思い出したように声を上げる。彩香が顔を向けると、桐は口を開いた。
「旦那様からお呼び出しです。戻り次第顔を見せるように、と」
「お父様が? なにかしら」言いながら眉を寄せた。「また壺の自慢でなければいいのだけど」
 壺ならばまだいい。三月ほど前に虹色のうろこを持った蛇を見せられた時は卒倒しかけたのだ。ぎらぎらと光る目玉と細い舌先とを思い出して、彩香は鳥肌の立った腕をさすった。
 ちょうどそのとき、馬車が速度を落とす。その車輪は長い橋にさしかかろうとしていた。あれまあ、と御者が声を上げるので、桐は「どうしました」と声をかける。
「ちょっとばかしぬかるんでまして。昨日の雨のせいでしょうなあ」
「危険になるようなら遠回りを……」
「いんや、このぐらいなら平気でしょう。お嬢様もお急ぎのようですし」
 中の会話を御者も聞いていたのだろう。馬に鞭を入れ、再び速度が上げられた。
 橋の上で馬車の揺れが大きくなるのは毎度のことだが、やはり心配になる。落ちれば下にあるのは切り立った崖と、その奥に流れる冷たい川だけだ。彩香は体を動かし、足元の橋の様子を見ようと窓から顔をのぞかせた。
 途端、ぐらり、と馬車がよろめく。横合いから突風を受けたのだ。慌てて御者が馬を止めるが、その反動が車に伝わった。体が叩きつけられた衝撃で扉が開き、彩香の足が宙に浮く。
「お嬢様――!?」
 え、と思った時には、投げ出されていた。
 顔が真っ青になるような浮遊感。がむしゃらに振り回した右手は橋の支柱をつかんだ。ぶらりと吊り下がる形になり、揺らめく彩香に風が吹きつける。風の為すがままの体が恐ろしくはあるが、彩香に下を見るほどの肝の太さはなかった。
 遥か上のほうから声が降ってくる。右往左往するばかりの御者と、必死の形相をして彩香に手を伸ばす桐の姿が目に映った。その手が届かないことは彩香にも理解できる。体力を消耗して落ちるのが速まるだけだ。
 ――落ちる。理解した途端にぞくりと背筋が泡立つのを感じた。その瞬間、考えないようにしていた冷たさが這い寄ってくる。
 手を諦め、くそ、と吐き捨てた桐が体を起こした。
「お嬢様、今すぐ縄の代わりになるものを探します! どうかお気を確かに!」
 彩香はこくこくとうなずいた。桐が走り去っていくのを目で追いかける。
 支柱をつかむ手の先はすでに白くなっており、いつまで保つかも不安な状態だ。少しずつ感覚を失っていくそれに、意志の力で歯止めをかける。あと数分、数分待つだけでいいのだ。きつく目を結んで耐える。すぐに桐が助けてくれると信じるしかなかった。
 苑に会うために着つけた着物が重い。決して華奢ではない体を恨めしく思う。身を揺らす風も、春先の冷たさも、その全てが自分を苛むように感ぜられた。
 ふ、と風がやむ。凪いだのだろうかと目を開いて、足元を見てしまった。
 人ひとり歩けるかという岩壁。しかしそれは、頭上からまともに叩きつけられれば凶器以外の何物でもない。何十、何百と往復し、見慣れていたはずのその景色は、実際には完全に意識の外にあったのだ。いざ直面すれば体の震えが止まらなくなる。
 目がくらんだ。突如、山風が勢い良く吹きつける。するりと手が解けた。
 やがて来るであろう痛みを想像して、彩香は反射で目を閉じた。頭を守るように回した腕に意味のないことは理解していた。赤子のようになって山肌に落下していく彩香から、橋の上の御者は叫んで目をそらした。
 叩きつけられる、衝撃。けれどそれは思ったほどのものではない。むしろ勢いを殺されたように、硬直した全身から重みが流れ出していく感覚があった。おっと、と耳元で誰かの軽い声。一度、二度、と体が浮かんで、着地した。
 足が半分だけ地に着いている。不安定な体は背に回された腕で支えられていた。そのことに驚いて、彩香はゆるゆると目蓋を上げる。
 ――虎のようだと思ったのは、かつて聞いた昔話のせいだ。
 神仙を食らい、人智を超える知識を身に付けた虎の噺。やがて天虎と呼ばれるその虎の目は爛々と輝く金の色をしていたという。それと同じ色の瞳が、彩香の目の前にあった。
 宝石や作りもののようなそれが瞬く。そのときになって、彩香は岸壁に張り付いたまま青年に支えられていたことを意識した。岩肌に乗った足に、踏ん張るように力を込める。その努力に気付いた青年が小さく首をかしげた。
「できることなら、首にでもしがみついていてくれないか。両手がふさがっていると降りられない」
「あ、あの」
「娘の体に触れたことへのお咎めなら、あとでいくらでも。今はあなたの命が先だ」
 さらりと赤面してしまうような台詞を吐く。彩香がためらいがちに腕を回すと、なだめるように背を叩かれた。それにどうしようもなく安心して、噛みしめていた歯から力が抜ける。岩肌を掴んでいた彼の手が離れ、浮遊感と着地の衝撃とがくり返し体を揺らがせた。
 触れた部分に温かさを感じる。何度も続いた体の揺れが収まったとき、彩香は最後の意識を手放した。