日照りの下を歩くのにも慣れが回ったらしい。少なくともセシルがいつか言ったように、不用意に街へ出て日にやられるような危なっかしさを、今のイシュドは欠片とて見せるようなことはしなかった。
一歩一歩を、どこか惜しむように、刻みつけるようにして歩くのには理由があるのだろうか、とルカは考える。影の落ちる背中もあいまって、まるで思い出を残そうとしているようにも見えた。
「ラジエンテ、という。ホルムスの三男に、娘を取らせようとした家の名だ。祖国では名を知らぬものがないほどの名家だな」
そう説明しながらも、イシュドは許嫁の名を決して口に出そうとしなかった。どこか遠い口調で続ける。
「聞けば、あちらも末妹だったそうだ。それもまだ十にも届かないという。一度顔を合わせたときもひどく泣いて、会話もままならなかった。そんなご令嬢を親元から引き離し娶るというのは、どうにも酷でな」そこで長く黙りこんで、イシュドは打ち消すように首を振る。「……いいや、違うな。あちらの責にはすまい。俺が嫌だったんだ」
薄雲が太陽を覆っていく。その切れ間から落ちる光の柱が、ユ・タスをまだらに染めていった。
「ホルムスが没落を前にしているのも、元はと言えば剣に拘泥した愚かさゆえだ。家の誇りは剣にあった。それを天秤に変えてしまうことは、血の重みが許さなかったというわけだ」
戦場はいつからか、そのありかを大地から市場へと変えていた。血は硬貨にすり替えられ、鋼の剣は意味を失くしていった。民草を養うものも、脅かすものも、今や金の天秤の傾きひとつに託されている。
荒れ放題であった大陸の大地を舗装したのは、そうした変化をいち早く嗅ぎ取った者たちだ。赤から金へ、鋼から銀へ、瞬く間に色を変えた世界は、歩みの遅れた兵たちを次々とふるい落としていった。
「馬鹿な真似が許されるのは、末弟ぐらいのものだったのでな」
イシュドは薄く笑い、歩みを緩める。
「勢い込んでユ・タスに書状を送り、ここに宿を取った。それでも……そう、確かに、楽観視していたところはあったのは否定できない。認めるのは癪だがな。斡旋所に入るまでは、気をもむ必要もないのだろうと思い込んでいた」
何度となく訪れた建物だ。イシュドの見たであろう光景を思い浮かべることは容易だった。
軋んだ扉を押し開き、砂にまみれた足をマットにこすりつける。途端耳に入りこむ、暴力じみた声の群れ。汗の臭いが染み付いた一室に、人々はぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
圧倒されないようにと階段を上り、酔いそうになるほどの人波を前に、しばし立ち尽くすときの気遅れを知っている。あちこちに響く怒声、負けじと声を張る受付嬢たちの姿も。
ルカはその目の前で、木製の机を殴りつけていたのだ。
「子供がいるな、と思った」
――どうにかお願いできませんか。
縋りついた机の冷やかさ、固さ、滑らかさが思い出される。斡旋所は成果を上げられない遺跡掘りに情けを与えるような慈善事業ではないのだ。
「それが三十一区発掘所の遺跡掘りだと聞いたのは、受付に辿りついたあとだった。驚かされたな」
「……まあ、女の子供が遺跡掘りなんて、そうそうないでしょうけど」
「自分を恥じた。あのままの心持ちでいれば、道楽とそしられても言い返せなかった。……どうした?」
ルカの足が止まったことに、イシュドは遅れて気付く。ぽかんとした顔で彼の顔を見上げて、それじゃあ、とルカは呟いた。
「豆、食べたのって。心境の変化って」
「豆?」
「だってセシルが……あ」
自覚と共にこみ上げたのは、やり場のない恥ずかしさだった。
認められることには慣れない。ふり返られることにも、ねぎらわれることにも。ルカの仕事はあくまでも自己満足の延長線上にあるものだったからだ。再び父に触れること以外に、執着することはないはずだった。だというのに。
ルカは下唇を噛んで、ついと目を逸らす。イシュドの瞳を見つめ返すだけの度胸は、すでにどこかへ消えていた。
「珍しい顔だな」
「だ、黙っててください。ちょっと疲れただけです」
そうあってほしいと願っていたのはルカ自身だ。心臓の飛び上がってしまいそうな浮遊感に、抗う術が見つからない。
あてられそうだ、と思った。あまりにも太陽が熱を放つから。ぶんぶんと首を振って、ルカは早足でイシュドを追い抜いた。
「そろそろ帰りましょう。セシルが待っていますし、食材も悪くなりますから」
「ああ、待て」
「まだなにか?」
口調がきつくなったことを、すぐに後悔する。しかし撤回をするだけの意気地もなかった。ルカはわざと荒い動作でふり返り、そこで息を詰める。――近い。サスペンダーの金具が掠れた光を照り返し、目の前に迫った胸からは、かすかに汗のにおいがくゆる。
無造作に伸びたイシュドの両手は、頭上の太陽を覆い隠していた。
まるで、ルカを抱きしめようとするかのように。
「……っ」
思わず目をつむった。ちゃり、と、金属のこすれ合うような音を聞いたのはその直後だ。首のうしろにひそかな熱の気配が増えて、ルカは身を震わせる。
「ああ、ないよりはずっとましだな」
降った声に導かれるように、ルカはおそるおそる目を開いた。くらんだ視界に、うっすらと煌めきが映る。
思い出したかのように輝きだした太陽を溶かしこみ、ささやかに咲いた小粒の輝石が、ルカの胸元に紫の影を落とす。それを形よくはめ込んだ土台もまた、劣らぬ黄金色をつやめかせていた。
紫水晶を据えた首飾りだ。価値を想像することも恐ろしい。呆然としたのも一瞬、ルカはひっと息を飲んだ。
「イシュドさん、これ」
「飾り紐や文様の装飾品よりは見栄えがするだろう。くれてやる。食うなよ」
「たっ、食べません! というより、受け取れませんよこんなもの! なんで……」
「こんなものとはご挨拶だな。服を贈ったところで着ないだろう」
「なにを買ったかって話じゃないです、どうして買ったのかって訊いてるんですよ!」
イシュドはうるさそうに耳を塞ぐ。払うように手を振ったきり、先に立って歩き出した。
ちょっと、と追いすがりこそするものの、ルカの声にも威勢はない。水晶がころりと揺れるたび、もし壊してしまったらと思うとぞっとするのだった。
「もらえないですったら……イシュドさんだって知っているでしょう、私、お金なんて持っていないんですよ」
「いらん。俺個人からお前個人に渡したものだ。お前の格好が目に余るものだからな」
私生活を散々にたしなめられたことを思い出し、ルカの眉尻は下がる一方だった。食費を用意するだけで精一杯だというのに、被服費に財布を回している余裕などないのだから。イシュドとて百も承知のことだろう。
だからこそ首飾りを贈られたのだ。ルカには手が届かないものをと。よくよく理解した上で、ルカはそれでも情けないと思わずにはいられない。
口をつぐんだ少女をちらと見やり、イシュドはため息をついた。
「迷惑なのか」
――その訊き方は、卑怯だ。ルカは奥歯をきつく噛みしめる。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。嬉しいに決まってます」
不安はいつだって、足音をひそめて忍び寄ってくる。もしもイシュドに報いるだけの遺物を掘りだすことができなかったら。多額の借金を背負ったまま、発掘所さえも捨てなければならなくなったとしたら。――そうしたら首飾りさえ、手放さなければならなくなるときがくる。父や母の残した家財を、身を切る思いで質に出してきたように。
「すごく嬉しいのに……いつかはって、怖くなるから、嫌で」
叶えてやりたい。そう思うだけの夢が目の前にあった。しかしリスクを無視して進むには、ルカの両脚は細すぎた。
培ってきた臆病心は、すでにルカの胸奥にわだかまってしまっている。これだから前を向くこともできないのだと、親指を握りこんだとき。
とん、と頭を叩かれた。
まるで、積もり積もったほこりを払い落すかのように。
「掘りあててくれよ、ルカ」
信じているから、と、伝えられた気がした。
ルカは顔を上げ、イシュドの表情を視界に入れてひとつまばたきをする。曇るところのない自信が、彼の瞳にくっきりと焼き付いていた。
帰るかと一度笑って、イシュドは先よりも足を速める。あっけらかんと晴れた青空がユ・タスを覆っていた。頭上を遮る薄雲も、ルカがそれと気づかぬ間に、風に吹かれて流れていったらしい。
あ、と思う間もなかった。ルカの足は転がるように前に出る。地を叩く足音は、いつからか軽く響くようになっていた。