足音を殺すなら、針の落ちる音さえしないよう。息遣いを殺すなら、一分の砂埃も揺らさないように。
 セシルはユ・タスの街角を行く。もともと他人の目に留まるような歩きかたなどしないのだから、ルカに指摘されるまでもないことなのだった。現地人と移住者の第一世代、さらに第二世代のごったがえす街路に溶け込んで、滞りなく視線を流す。
 そうしていると、自分が魚になったかのような錯覚に陥った。人波をかき分けながら、深く、底の底へと。とすれば目指しているものは、岩陰に潜んだうつぼたちだ。
「あんまりだ」
 セシルは呟く。自分の過去にも、いまこのときにも向けた愚痴だった。
 ホルムスの屋敷から三男の姿が消えてすぐ。ほんのわずかでもイシュドとのかかわりを持っていた使用人たちはひとり残らず呼び出され、端から彼の行く先に心当たりがないかと詰問されることとなった。そうしてようやく突き止められた目的地に、セシルは夜も明けないうちから送り出されたのだ。
 家出息子の目付け役として、セシルの他に適任はいなかった。腕が立ち、他人の油断を引き出すことができ、さらにイシュドとの付き合いも長い。セシルが遣わされたのは、すなわちイシュドの護衛を任されたためだ。腰の剣が抜かれることのないよう、代わりに露払いを行う役目を任されたのだと思っていた。
「ただの使い走りなら、僕でなくてもよかったのに」
 ここにはいない主に向けて、ぽそりとこぼす。不満は雑踏に踏みつけにされていくようだった。
 セシルは頬を膨らませたまま、ずんずんと足を進ませる。ダグラスという男の棲み家はすでに突き止めていた。ルカが難癖を付けられた一件以降、イシュドは念のためにとセシルにダグラスの調査を命じていたのだ。
 うしろ暗い部分のある男であることは、とうに明らかになっている。裏を返せば、セシルが知りえたのはそこまでだった。ダグラスに関する情報は巧妙に覆い隠され、確固とした証拠をセシルにもたらすことはなかったのだ。
 ――捕まえてから訊き出せばいい。セシルは自らに言い聞かせ、ダグラスの家の壁面にみを張りつける。窓から視線だけを投げ込めば、折しも家の主は来客を相手にしているところだった。
「……それで、首尾はどうだ」
 ダグラスの前に座っているのは二人の男だ。着古された砂埃だらけの服は、彼らが貧困層の人間であることを声高に物語る。
 ダグラスの問いかけに、男の片方が肩をすくめてみせた。
「あんたが言った通りにしたよ。ゴミあさりは得意なもんでな」
「抜かりはないだろうな?」
「一面にばらまいてやったさ。くせえのなんのって、ありゃ女のがきじゃ近付くのも無理だな」
 けけ、と笑い、男は足を組む。ダグラスが鼻を鳴らした。
「根性だけは一級品だ。今ごろスコップで片付けを始めているころだろうさ。明日には発掘を始めているかもしれねえ」
「まさか」
「念のためだ、もう一度様子を見に行って来い。足りないようならおかわりさせてやんな」
 了承を示すように男は手を振った。ダグラスが放った袋の中身を確かめて、二人組は立ち上がる。じゃらり、と硬貨のこすれ合う音が立つのを、セシルは確かに聞いていた。
 すぐに家の扉が開いて、二人連れの男が歩き去っていく。セシルは逡巡したあと、まずは、と早足で彼らを追った。
 命を狙われた経験などないのだろう、無防備に裏路地へ突き進んでいく男たちを、気取られないように尾けていく。セシルが通ってきた道と順路こそ違えど、彼らが向かっているのはルカの自宅に違いなかった。
 細い四肢の少年、足をむき出しにした少女たちの前を横切りながら、砂粒を散りばめたかのようにざらついた彼らの瞳を一瞥する。無意識のうちに、セシルは唇の端をつり上げていた。――まるで同じだ、と音もなく呟く。親類の家を転々としていたころのセシルもまた、けぶった目で虚空を見つめていたものだった。
 窒息しそうな空気の中、逃げ道は死の向こうにあるのだと考えていた。そのくせナイフを握るたび掌は震え、何度も失敗しては、傷跡ばかりが増えていった。
 初めてナイフを叩き落とされたのは、腕を走る横筋が十を数えたころだ。目盛りのようなそれらはすべて負債へと姿を変え、掌の中は空っぽになった。代わりに呼吸は軽くなっていて、視界の広さにも気がついた。
「逃げ、か」
 セシルの足が止まる。乾いた風が、狭い路地を通り抜けていった。
 懐のナイフは、飾り鞘を被せられたまま、静かに眠りについている。剣を抜かない主の代わりに汚れを引き受けるのが、自分の役割だと思っていた。――そう信じていた、だが。
「あの方は、許してくれないな……」
 彼は従者の罪ひとつ、自身で負わせようとはしないのだろう。ちょうど今朝方、労働者の重荷を軽々と取り上げていってしまったように。
 なにができるだろう。両手を握りしめて、セシルは自問する。
 誇り以外を知り得ない主人と、光を見すえた少女のため。
 晴れた瞳で、自分は一体、なにを見ることができるだろう。

 追いかけなくていいんですか、と訴えるルカの声は、当人が思う以上に大きな響きとなって砂塵を震わせた。
 晴れすぎた空の下、詰りを受けるイシュドはしかし、けろりとした表情をしている。水分の重要性は午前のうちに嫌というほど身にしみたようで、頻繁に水を飲んではスコップを動かしていた。
「その必要はないだろう。あれも分別のない子供ではない、放っておけ」
「でも、あの顔。今にもダグラスさんのところに走って行きそうでした。ひとりにしておいたらどうなるか……」
「セシルに関しては俺の方が長い付き合いなんだ。構わんと言ったら構わん」
 ルカはぐっと言葉を飲みこまされる。イシュドは平然としたもので、発掘場の片付けに精を出しているのだった。
「なに、すぐに帰ってくる。こちらの仕事が先決だ」
 散らばった生ごみを集める作業も、ようやく一段落を迎えようとしていた。イシュドの手が大きな助力となったことは確かだ。ルカは頬を膨らませたものの、結局吐息が言葉に変わることはなかった。諦めて首を振る。
「……片付けが終わったら、服からなにから洗わないといけませんね。ひどい臭い。街なんか歩けっこないです」
「臭いがなくとも、お前はその格好で街をうろつくのをやめるべきだと思うがな」
「どういう意味ですか」
 むっとしたルカが言い返すと、イシュドは眉を寄せた。
「娘としての自覚を持てと言っているんだ。毎日毎日仕事着で暮らす、外行きの服もなければ寝癖を整えもしない。挙句の果てには、下着を干した部屋に男を寝かす」
「え、嘘っ!?」
 思わず家をふり返る。嘘じゃない、とイシュドはかぶりを振った。
「金はなくても構わんが、恥じらいがないのはもってのほかだぞ」
「……じ、自分だって、部屋を片付けもしないじゃないですか」
「見せるための部屋じゃない」
「私だって見せるために干しているわけじゃないです!」
「――また喧嘩なんかしているんですか。飽きないなあ」
 少年の声と共に、とさり、と地面に布袋が降ってきた。ルカとイシュドは揃って言葉を収め、頭上を仰ぐ。太陽を背中において、セシルは困ったように頬を掻いていた。
「袋。買ってきましたよ。ちゃんと綺麗なままでしょう」
 セシルはひょいと大穴に飛び降り、衝撃を地面に逃がす。よろけもせずに体を起こし、イシュドとルカを交互に見つめる。
「お待たせしました、イシュドさま、ルカさん。……ただいま帰りました」
 真白い掌をゆっくりと広げ、セシルははにかんで言った。

 後日、ユ・タス発行の新聞の端には、小さな記事が掲載されることになる。
 異国の子供に手を上げた二人連れの男が、警察に捕縛された――昨今のユ・タスでは珍しくもなくなった暴力事件だった。住民にとっては、その日の昼食の献立よりも価値のない内容だ。
 貧困が、不衛生が、暴力が、見向きもされずに行き過ぎる。
 それがユ・タス、遺跡の在り処。財宝を廃棄物で覆った街だった。