迂闊だった、と、ルカは呆然と足元を見下ろす。
違和感は帰路の途中、鼻を捻じ曲げるようなにおいに端を発していた。そうして帰りついた発掘場に放り捨てられたものたちを、ルカは別の場所でも見たことがある。たとえばユ・タスの街の料理店の裏、山積みになった布袋の中に。羽虫と蛆がたかった生ごみの山は、帰るべき場所を間違えたかのように、ルカの発掘所に腰を下ろしていた。
「……これ」
頭はうまく働かなかった。こぼれたルカの声に反応して、大穴の中心で人影が動く。
「ルカ」
呼び声が耳に届くと同時、ルカは危うく卒倒しかけた。
不釣り合いにもほどがある光景だった。真新しい作業服に身を包んだイシュドが、生ごみの中、スコップを手にぽつねんと立っていたのだ。
ルカと視線を絡め、イシュドは一度、まるで叱られた子供のような表情を浮かべる。そのまますぐに口を開こうとしたものの、普段のような自信に満ちた言葉の一切れも、彼の喉からは発されないままに留まった。不安げに瞳を揺らし、きつく唇を噛みしめる。
「……先ほどまで、ずっと眠っていたんだ。窓を空けていたせいだろう、外から異様な臭いがした。様子を見に外へ出たら」
こうなっていた、と足元を差す。羽虫が一匹、イシュドの指に添うように飛び立っていった。
「誰がこれをしたのかも、何を目的にしていたのかも、俺には皆目見当がつかん。だが狼藉の主を見逃したのは事実だ。すまない」
「謝らないでください」
ルカがぴしゃりと言う。顔を歪めた青年を見下ろして、ゆっくりと首を振ってみせた。
「イシュドさんは眠っていたんです。なにもできなかったのは当たり前でしょう。……お願いですから、罪をかぶるような真似はしないでください」
被害者が不用心を責められるようなことが、あっていいはずがなかった。ルカは一度奥歯を噛んで、家へと走り込む。迷わず上着を放り捨て、作業着の袖をまくりあげて作業場に下りた。
両手にスコップを握り、逡巡の後にごみへと突き立てる。わっと飛び去った羽虫を視界に収めれば、ルカの胸は生理的な不快感を訴えた。
「セシル、あなたは下りてこないで。服が汚れでもしたら大変だから」
「でも、ルカさん」
「こうなってしまったものは仕方ないでしょう。誰がやったのかは知らないけど、発掘が進まないなら片付けるしかないわ。……ほら、イシュドさんも上がってください、臭いがつきます」
掌にはとうに汚水が飛んでいた。イシュドの腹を肘で小突いてから、ルカはスコップを握り直す。穴の上に膝をついたセシルが、わなわなと肩を震わせた。
「なに、言ってるんですか。こんなことをする人間なんて決まってるじゃないですか」
「セシル、」
「ダグラス・フェラー! あいつしかいなかった! 僕たちが留守にしているうちにごみを撒いたんだ、ルカさんが逆らったから、その腹いせに……!」
セシルはきつく親指を握りこみ、穴の底を睨みつけていた。そこに憎むべき相手がいるとでもいうかのように。ぶんぶんと首を振って、代わりにイシュドを見すえる。
「イシュドさま、お願いします。僕に任せてください。もうこんなことが起こらないようにします、根まで残さず潰してみせますから――」
だから、と言い縋ったセシルが、直後、イシュドの顔になにを見たのか。彼らの視線が交わされたのはほんの数秒で、ルカには伺い知ることもできなかった。しかし結果として、セシルは今にも泣きそうなほどに唇を引き結び、力なくうつむいていた。
深いため息がイシュドの口をつく。セシル、と名を呼んで、主は首を傾けた。
「街で袋を買って来い。ここを片付けるにも、スコップ二本ではどうにもならん」
「……でも」
「汚さないように戻って来い、いいな」
しばらくの沈黙のあと、セシルは小さくうなずく。とぼとぼと数歩を戻り、それから発掘所の淀んだ空気を振り切るようにして街へと走っていった。
残されたルカとイシュドは、長く互いも見ずに黙りこくっていた。立ちのぼる臭気、柱を作る羽虫たちに侵食されるようで、ルカはようやく口を開く。
「イシュドさん、さっきスコップが二本と言っていたように聞こえたのは、私の空耳ですか」
「お前の耳は正常だな。俺は確かにそう言った」
ルカは眉間を押さえつける。急に頭が痛くなった。腐敗した空気のせいにしたい気持ちにかられながら、呆れも露わにイシュドを見上げる。
「聞こえなかったようなのでもう一回言いますよ。はやく上がってください。ついさっきここで倒れたのは、どこの誰だと思っているんですか」
「倒れてはいない」
「だから……!」
「聞こえなかったようだからくり返すぞ、ルカ」語気を強くして、イシュドは言う。「俺はまだ倒れていない。ならば女子供をごみ山に残して惰眠をむさぼることなどできないに決まっている。ホルムスの名に泥を塗るも同然の行為だ」
口の中に指を差しいれられたかのようだった。ルカは唇を開いたきり、続きを発することもできずにわななく。イシュドがふんと息を吐き出した。
「なに、先より日差しは弱くなった。土の重みに比べれば、廃棄物など羽も同然だ。手早く片付けてしまえばいいだろう。それからの発掘は、今度こそお前に任せるからな」
言うが早いか、足元にスコップを突き立てる。汚水が跳ねて作業服を濡らし、羽虫がイシュドの腕を叩いた。ばら撒かれたごみが着々と集められていくのを眺めるうち、ルカもとうとう制止を訴える気が失せた。ひとつ息をついて、自分のスコップを握り直す。
腕に伝わる感触は、土のそれとは打って変わって柔らかい。ときおり伝わる反発も、腐った果実や生肉の粘着性によるものだった。無心になって手を動かし続けるうちに、吐き気を催すような臭気にも慣れが回る。そうすれば自然と物を考える余裕もできた。
作業の片手間を装って「イシュドさん」と呼びかける。なんだ、と返す声は荒かった。
「どうしてセシルは、あなたのお目付け役に選ばれたんですか」
息を詰めるだけの間がある。ルカの横顔に、探るような目が向けられた。
「というと?」
「大したことじゃありません。ただ、セシルが家事に慣れているわけでもないみたいだから、なんだか気になって。さっきイシュドさんのお部屋に入れてもらったとき、中がひどく散らかっていたので」
「……おい」
低い声をきっぱりと無視して、ルカは続ける。
「セシル自身も、料理が得意だとは言っていませんでした。食事も外で取っているみたいだし。イシュドさんの身の回りの世話をするためだったら、ほかにいくらでも適任がいたんじゃないかな、って」
それとなくイシュドを一瞥する。渋る様子があればすぐにでも身を引こうと考えての追及だったが、イシュドはあっさりとうなずいた。
「目付け役だというのは業腹だが、まあ、その通りだ。とはいえあいつはほとんど俺付きのようなものだったから、兄上からすれば忘れ物を届けたような心持ちであったのだろう」
「お兄さん……ロイドさんとジャムスさん、でしたよね」
「特に上の兄だな。あれは神経質だ。俺の行動にうるさい」
ならばイシュドに手紙を送っていた長兄だ。ルカはこっそりと筆跡を頭に思い浮かべる。いっそ苦しいほどに整った右上がりの文字列は、そのまま主の性格を表しているのだろう。
イシュドはスコップを土に突き、ルカをふり返る。
「ホルムスが剣の腕で名を上げた家であることは話したか」
「セシルから聞いたところです」
「なら話は早いな。そういうわけだ、家に生まれた男子はみな剣術を叩きこまれて育つ。その付き人が主より貧弱であっては、有事に備えられんだろう」
セシルと初めて顔を合わせた日のことが、寄せる波のように思い出される。イシュドのもとへ向かおうとするルカを、セシルはそれと悟らせぬように転ばせたのだ。自分もルカも傷つけることなく、さらに自身が襲われているかのように振る舞った上で。
無垢な少年の殻はあまりにも固かった。ルカの中の疑惑はまたたく間に薄れ、たった今イシュドの言葉を聞かなければ、そのまま消え去ろうとしていたのだ。
「じゃあ、さっき、潰すって言ったのは」
ルカの呟きに、イシュドが肩をすくめた。
「最初からそれが訊きたかったのだろう。まったく遠回りな尋ね方をする」
セシルの足音は遠くに消え去っており、向かう先を見きわめることも叶わない。イシュドは表情をそぎ落として、街の方角の空を見上げた。
「……あれならばできるのだろうさ。ダグラスという男、あるいはそれに雇われた人間を、ひとり残らず消してしまうことぐらいはな」