ユ・タスの目抜き通りを東に逸れた先にある区域は、昨今になって開発の進められた住居区だった。煉瓦造りのアパート、セピア色の街灯の中央を、白石に舗装された通りが走っていく。異国風の町並みは乾いた風にはそぐわず、一帯にはよそよそしい雰囲気が漂っていた。
 行き交う人々はほとんどが白い肌をしており、しゃなりとした足取りで石畳を蹴って進む。ルカは自分の場違いさを感じさせられながら、セシルのあとに続いていた。
「ここです」
 そう言ってセシルが足を止めたのは、住居区の一角に佇む小洒落たアパートの前だ。黒塗りの鉄の門は繊細な曲線を描き、むらなくペンキで彩られた壁面は陽光を受けてつやつやと輝いている。築五年も経ていないのであろう、真新しさの伺える建物だった。
 門を抜け、廊下を行きながら、セシルは思い出したようにルカを振り向いた。
「あの、イシュドさまも僕も、あまり片付けが得意ではなくて。そこだけは了承しておいてほしいんですけど」
「気にしないわ、私もそう几帳面じゃないもの。足の踏み場さえあれば十分」
「ううん、それぐらいなら、たぶん……」
 答えるセシルの顔色は優れない。これは相当な無精ね、と失笑したルカの直感は、すぐに現実のものとなった。
 鍵を開いて通された部屋で、ルカはあ然と口を開いていた。書類をはじめとした荷物は、机や床の別もないまま一面に散乱していたのだ。流し台の中には汚れ交じりの皿が山を作り、壁際の本棚には本が段積みにされている。
 立ちつくすルカの目前で、セシルはひょいひょいと物を避けながら部屋を横切っていった。ステップを踏むように反転してから頭をかく。
「あ、足の踏み場はあります。一応」
「……踏み場はね」
 せめて紙束を集めるぐらいはするべきだろう、とルカは書類を拾い上げる。
 大陸の共通語で綴られた文章のうちには、ときおり別言語のものとみられる文字列が並んでいた。主が教養のある人間であることこそ伺えたものの、ずぼらではどうにもしまらない。痛む頭を振って、ルカはてきぱきと手を動かした。
 一通りの紙きれを揃え終え、本の塔を積み上げたところで、ようやくソファが空になる。セシルに促されるまま、ルカはそこに浅く腰を下ろした。
「お茶を淹れますね。お見苦しい部屋ですけど、ゆっくりなさってください」
「……淹れられるの? そのキッチンで?」
 ルカは半眼になる。キッチンには汚れたままの調理器具が積まれているのだ。セシルは苦笑して、茶葉の詰まった缶を振った。
「淹れますよ。少しだけ時間をいただければ」
 少し、で足りないことは明らかだった。ルカは部屋に目を戻す。セシルが水音を響かせるのを耳に捉えながら、生活力に乏しい主従のことを考えていた。
 イシュドが身の周りに気を配らない人間であろうことは容易に想像ができた。目付け役に派遣されたという少年も、どうやら家事に従事していたわけではないらしい。ルカが作った料理を嬉しそうに口にしていたことが思い出されて、唇はもごもごと歪んでいった。紛らわすように視線を下げると、机の足元にも一枚の紙切れが落ちている。
「まったく、本当に散らかし魔なんだから……。あれ」
 どうやら書類というわけではないらしい。文字は肉筆で綴られ、書き手の几帳面さが伺える筆跡を残していた。
 部外者が覗き見るべきではないものだ。そっと机の端に下ろしたものの、ルカは偶然目に入った文面に息を詰めた。
 ――遊びの期限は一月だ。
「……一月、って」
 差出人の名はロイド・ホルムス。しばらく考えて、それがイシュドの長兄の名であることに思い当たる。
 兄には居場所が知られている、とイシュドは言っていた。ならば家出まがいの行動を起こした弟を、一家の次期当主である兄が許しているはずもないのだ。
「……もし、その期限を過ぎたら……?」
「――ルカさん? どうかしましたか」
「えっ」
 二組のカップとソーサー、それからクッキーの数枚乗った皿を運んで、セシルが首をかしげる。ルカはびくりと肩を震わせた。それとなく手紙を遠くにやりながら、机に空間を用意する。
「な、なんでもないわ。私物まで放り出しておくのはよくないなって考えていただけ」
「お恥ずかしいです。ここにはイシュドさまと僕しか住んでいないので、睡眠さえ取れればそれでこと足りてしまって」
「ご飯はちゃんと食べてるの?」
「一応は。と言っても、僕じゃ簡単なものしか作れませんし、イシュドさまも舌が肥えていらっしゃるので、ここで食べることは稀ですね」
「舌が肥えている?」クッキーをかじったところで、ルカは手を止める。「うちであれだけ食べておいて、まさか」
「いくらなんでも、人の作ったものにけちをつけるような方じゃありませんよ。ルカさんのお料理もおいしかったですし。……でも、そうですね。確かに、豆を召しあがったことにはちょっと驚きました」
 そう添えて、セシルはカップを下ろす。琥珀色の紅茶にさざ波が立ち、映り込んだ少年の顔を揺らめかせた。
「あの方なりの決意の表れだったんじゃないかって思います。屋敷にいたころとは違うんだって感じられたのかも。あの短い期間で、なにがあったのかまでは分からないんですけどね」
 ふうん、と相槌を打って、ルカはカップに口をつける。
 紅茶の茶葉は主にイシュドらの祖国から輸入されるものだ。高価な嗜好品であることが壁となり、ユ・タスの人間は好んで飲むことをしない。ルカはカップに向かうふりをしながら、セシルの横顔を盗み見ていた。
 ふたりのことを理解しているわけではない。あまりに開けっ放しであるせいで、数日前まで赤の他人であったことを忘れそうになるだけだ――そんなことだから、セシルがふいに見せた陰りにも怯えてしまうというのに。
 紅茶を飲み干し、ルカはカップを置く。喉奥には痺れるような苦みがにじんでいた。
「さっき、一月だって言ったわね。それがイシュドさんにとっての期限だって」
 セシルがうなずく。透明な瞳は、まるでルカの胸のうちまで透かし見ているかのようだった。ルカは唇を一度結んで、問いを舌先に乗せる。
「私に突きつけた条件もそれに関係しているのだとしたら、イシュドさんには、それまでに遺物を見つけなきゃならない理由があるってことでしょう。一月を過ぎたら帰ってくるように言われているの? それとも」
「……ご結婚です」
 低い声で、セシルが遮った。
 問い返そうとしても、ルカの言葉は声にならない。瞬きをしたルカに、セシルは目を細めてみせた。少しだけ話をさせてください、と指を組む。
「ホルムスは長く続いた武臣のお家です。数代前のご主人さまは、自ら先陣を切って戦場を駆けていらっしゃったと伺いました。国の主の信頼を受け、ホルムスは広く名声をとどろかせていた、と。でも、それもずっと昔のことなんです」
 イシュドが佩びたひと振りの剣は、輝くばかりの無用の長物として腰を飾っていた。寂れたユ・タスにあってさえ時代遅れとされた剣が、彼の祖国で用を為すはずもない。
「武勲を上げることが求められた時代は終わりました。自ら資本を立てなければ、家は潰れてしまう。ホルムスも例外ではありません」
「じゃあイシュドさんが企業を興すって言ったのも、そのために」
 セシルはうなずきかけたが、直後に首を振る。
「ロイドさま――ホルムスのご長男が、王家筋の女性と婚約なさっていることはお話ししましたよね。同程度の縁談がイシュドさまにも寄越されていたんです。でもあの方は、家を存続させるための結婚に反発されて」
「代わりにお金を用意する必要があった……」
 それも、没落しかけた家を建て直すだけの大金を。発掘だけを目的にしなかったのは、一時的な資産の足の短さを知っていたからだ。
 託された一月の重みを知る。ルカの吐息はかすかに震えた。より腕のいい遺跡掘りに乗り換えることさえ、イシュドは自ら切って捨てたのだ。
「夢、ですよ」
 念を押すように、セシルは呟く。
「そう呼ぶほどの希望しか、イシュドさまには残されていない。あの方もよくご存知です」
 それでもお前に賭けたのだと、彼ならば言うのだろう。
「……ひどい人」
 そうひとりごちたルカに、セシルは困ったように笑ってみせた。
「あなたが負うべき責任はどこにもありません。こうしてお話をしたのも、僕の自己満足です。ルカさんのすることは今までと同じ、遺跡掘りであることだけ。でも」
 セシルはカップを盆に戻して立ち上がった。ソーサーの鳴らした音が、縋るようにルカの鼓膜を打っていく。
「あの方も、僕も、あなたを信じています。それだけは忘れないで」
 口をつぐんだルカを、セシルはまぶしいものを見つめるように見下ろしていた。