どうやらセシルという少年には、こと主に対しては思いのほかに薄情なところがあるらしい、というのがルカの見解だった。
 貧血で倒れたままのイシュドを一瞥すると、セシルは呆れたように首を振り、「またですか」と呟いた。彼の言うところによれば、ユ・タスで日に倒れたのも初めてのことではないらしい。セシルのくり返しの注意もどこ吹く風、性懲りもなく街に出かけては、息絶え絶えで帰ってくることが重なっていたという。
「自業自得ですよ。街角で倒れて財布を盗まれなかっただけ幸運なんですからね」
 寝台の主にきっぱりと言い放って、少年はふんと鼻を鳴らした。
 入れ違いに買い物に出ようとしたルカであったが、付き添いを申し出たのも当のセシルだった。少量の食事をイシュドの傍に残し、少年を伴って家を出たのがすこし前のことだ。
 定期市の許された地区では、様々な肌の色をした商人たちが客寄せにいそしんでいる。過ぎゆく人々の中にも地元民ではない影が見られ、麻布の上の品物を見比べては店主との交渉に励んでいた。
 遺跡の町ユ・タスも、本来は貧困にあえいでいた街だ。もの知らずの観光客を相手に日銭を稼ぐのは、なにも商人のみに限ったことではない。ふらついた足取りですり寄ろうとするスリの少年、妊婦を装った物乞いたちが、ぎらついた目つきで雑踏を見つめている。小ぎれいな服装でルカの隣に並んだセシルもまた、彼らにとって絶好の標的であるに違いなかった。
「きょろきょろすることは避けて。目をつけられるから」
「はい、気をつけます」
 聞きわけの良さにおいては、主とは正反対の少年だ。慣れた足取りで歩を進めるセシルを見ていれば、不安の種も早々に潰えた。いささか気が抜けて、ルカは放るように足を踏み出す。
「セシルはしっかりしているわ。小さいのによく働いているし、公用語もきれいだし」
「そうでしょうか?」言って、セシルが首をひねる。「中央の人間なら、誰でも同じように喋りますよ。働いているっていうなら、ルカさんだって遺跡掘りをしているじゃないですか」
「私はもう十七歳だもの。ユ・タスの人間なら働くのが当たり前よ。でもあなたは……」
「今年で十三になります。ちょっと曖昧ですけどね」
「曖昧?」
 ルカがぱちりとまばたきをする。セシルは足の先を見すえたままでうなずいた。
「私生児なんです。しばらくあちこちの家を点々としていたけど、どこにも貰い手が見つからなくて。結局行き着いたのが、ホルムスのお屋敷でした」
 天気の話をするかのように、セシルは淡々と言葉を紡ぐ。ルカの頭をよぎったのは、少年の手首に残った深い傷跡だった。
 鼠には鼠がわかる。そう呟いて浮かべた薄い笑みの意味が、形を取ってルカの前に蘇る。――失言だった。唇を噛んだルカに、しかしセシルは穏やかに言った。
「イシュドさまはああいう方ですから、たしかにくたびれはするけど、昔よりはずっとよくしていただいています。だから僕から見れば、ルカさんの方がしっかりしていると思いますよ」
 手を取って諭されたようだった。ルカは面映ゆくなって口をつぐむ。人ごみの騒音に、ふたりの無言は容易くかき消されていった。
 切れかけたパン、野菜の束、卵をいくつかに香辛料。出店を転々とするうちに麻袋は重みを増していった。一度足を止めて荷を抱え直したルカを、セシルは心配そうに見上げた。
「僕が持ちましょうか」
 ずいと小さな掌が伸ばされる。ルカは避けるようにして身を引いた。
「さすがに遠慮するわ。子供に荷物を持たせるなんて」
「平気ですよ。力仕事もお勤めのうちですし、筋肉はあるはずです」
「それでもだめ。私の気が済まないもの。私個人はあなたのご主人さまでも何でもないんだから」
 あくまでも首を振るルカに、強情だなあと言ってセシルは手を下ろした。
「そういうところ、イシュドさまにそっくりです」
「……強情なのは自覚しているけど。そう言われるのはちょっと癇に障るわね」
 セシルがくすくすと笑う。ルカは渋面をしながら、子供扱いされているのはどちらだろう、と考えずにはいられなかった。
 しかしその笑い声も、糸が切れたようにぷつりと途絶える。ルカが怪訝に思ってセシルの視線を辿れば、街路に座り込んだ子供に行きあたった。ちょうどセシルと同じ年ごろと見られる少年は、棒のような両足を抱えて、建物の門に体を預けている。
 浮浪児だ。あたりをつけて、ルカは首を振った。
「ユ・タスじゃそう少なくないわ。ここに人が来るようになる前から、ああいう子はそこらじゅうにいたもの」
 暗に、人口流入が原因ではない、と伝える。ユ・タスが枯れた土地であることは、遺跡が発掘されるようになる前から変わらない事実だった。
 セシルはそれでも表情を取り落としたままだ。子供に歩み寄るように道を行くうち、セシルの目が別の方向に向けられていることに、ルカは遅れて気付く。彼の睨んだ先、道の半ばほどで立ち止まっていたのは、カメラを構えた男だった。
「新聞記者は違うでしょう。あの腕章、故郷でも見たことがあります」
 かしゃり、とカメラがシャッターを切る。光を受けた子供は鬱陶しそうに身じろぎをした。
「明後日あたりの新聞の隅っこに、あの写真が載ることになるんでしょうね。広がる格差、夢を失った子供……そんな題の付けられた記事を、都市で紅茶を飲むような、無関係の人たちが笑い物にするんです。欲をかくからそうなるんだって」
 きっと僕たちのことも。
 鉛のおもりを海に沈めるように、セシルは低い声で言った。照りつける太陽はつむじを焦がしていく。汗も熱も忘れさせるような無言を、セシルは自身で振り払った。
「まだ人目が気になるみたいです。誰からどう思われてもかまわないって、そう言い切れたらいいんですけどね。それこそイシュドさまみたいに」
「……自信たっぷりだものね、あの人も」
「はい、びっくりするぐらいに」
 ふたりは目を合わせ、どちらからともなく唇をほころばせる。砂埃をはらんだ風はいつからか柔らかさを帯びていた。
 頭上の太陽を確かめて、セシルは目を細める。
「もうちょっとゆっくりしても平気そうですね。ルカさん、よければイシュドさまのお部屋に寄って行かれませんか。肝心の主が不在ですから、大したおもてなしもできませんけど」
 家を出てからそう時間は経っていない。動けるようになったイシュドが、ようやく食事に手をつけ始めるころだろう。のろのろとスプーンを動かす様子を思い浮かべていると、それを見計らったかのように、ルカの腹がぐうと鳴いた。
 気まずい沈黙が流れる。セシルは探るように首をかしげた。
「簡単なものでよければお出ししますよ」
「……ごめんなさい、お願いします」
「はい、お願いされました」
 輝くような笑顔でうなずかれてはかなわなかった。流されている自覚をひしひしと感じながら、ルカはセシルの背中に続く。
 その背が固まったのは、しばらく先導を任せたあとのことだ。じっとセシルの頭を見下ろしていたルカは、危ういところで踏みとどまった。セシル、と名前を呼ぼうとして、ようやく理由を知ることになる。
「奇遇だな、ルカ」
 粘つく声がルカの耳を叩く。互いの存在に気付いたのは、相手が先であったようだった。