寝室に送り届けられてからというもの、ルカは何度となく目を覚ましては、まるで赤子のように泣き叫んだ。ようやく深い寝息を立てられたのは、涙が底をついてからだった。
 ルカが再び目を覚ましたときには、もうすっかり夜が明けていた。腫れた目蓋はひりついて痛み、喉と鼻とに心地の悪さを覚える。ふらりと体を起こし、擦り硝子からこぼれ出す光の粒を、しばらくぼんやりと見つめていた。
「ルカさん、よかった。おはようございます」
 背中から声をかけたのはセシルだ。ルカはふり向こうとしたが、遅れて目元が赤らんでいる可能性に思い至る。
「ごめんなさい。顔が酷いから、見せられない」
 消え入りそうな声で告げる。今になって言いだす内容でないことは自覚していた。セシルはルカを笑うことも引き返すこともせず、「だと思って」という言葉と共に、ルカの背後に歩み寄る。落とされたタオルが、少女の膝上で熱を放った。
「タオルをお湯につけておいたんです。目がずっと楽になりますよ」
 ルカは言われるまま、タオルを目蓋に押し当てる。こわばっていた筋肉がほどける感覚に、唇からは吐息が漏れていった。
 盆と食器の擦れる音は、セシルの手元から聞こえてくる。ふり返ったルカを、セシルは湯気の立つスープと共に出迎えた。
「朝ごはんも作っておきました。こっちの料理に馴染みがないので、僕たちの地元のものになってしまったけど。それでもよければ……ああ、食費のことは気になさらないでくださいね、これは借金とは無関係だってイシュドさまもおっしゃっていましたから」
「どうして……」
「さあ。お金のことをお決めになるのはイシュドさまなので、僕にはちょっと」
「違うわ、そうじゃなくて」
 ルカはもどかしい思いでセシルを見つめる。セシルは目をしばたかせたあと、ううん、と小さなうなり声を上げた。盆を寝台脇の椅子の上に乗せ、ひょいとしゃがみこむ。覗きこむようにしてルカを見上げた。
「たとえばね、ルカさん。これはたとえばの話なんですけど」
 言い、セシルはルカの掌を取り上げて、血管の浮き出た手首を叩いた。
「誰かが自分の意思で手首を切ったとしても、あの方、イシュドさまは、大真面目に止血をするんですよ。薬を飲んだら吐き出させようとするし、海に飛び込もうとした人だって、きっと手を掴んで絶対に放してくれない。ルカさんのこともしゃにむに引っぱり上げたでしょう」
 まるで昔を懐かしむように、セシルは瞳を和らげる。雲に出入りする太陽が、部屋に明滅する光を落としていた。
「ひどく欲張りな方です。目についたものを端から手に入れないではいられない。――だから」
 セシルは区切りを置いて、唇の端を引き上げる。
「だめですよ。投げ出してしまいたいと思っても、あの方の前でだけは、だめです。イシュドさまはぜったいに許してくれないから。ちゃんと隠れてやらないと」
「……死にたかったわけじゃないの」
「うん、でも、死んでもいいって思っていたでしょう」
 ルカとセシルの視線が絡む。少年の透明な瞳は、底の知れない虚ろさをたたえていた。
 耐えきれずにうつむいたのはルカの方だ。自分の手元を見下ろして、ふとセシルの手首に目を向ける。うっすらと残された傷跡を認め、呼吸が止まった。
 ルカの頭上で、ふ、と笑う気配がある。セシルは音もなく袖口を引き下ろした。
「鼠には鼠が分かりますから」
 そう暗く、囁くように言って、セシルは一転、にっこりと笑って見せた。
「まずはご飯を召しあがってください、昨日から何も口にしていないんです、お腹もすいているでしょうし」
 スープの乗った盆が押し付けられる。ルカがそれを口に運ぶのを待って、セシルは目を細めた。
「先日は、傘をありがとうございました。昨日はそれを返しに来たんですよ」
「今朝も早くから?」
 スープに入った野菜はよく煮溶かされていた。パンに触れれば、一度温め直されているのが伺える。ルカがおずおずと問うと、セシルは首を振った。
「ここに一晩お邪魔していました。ルカさんを放っておくのも気がひけたので」
 そういえば、とルカは昨晩の記憶を掘り返す。暗がりの中で声を上げて泣き叫ぶたびに、誰かになだめられていたのを憶えていた。ひりひりと痛みだした喉に触れれば、とんでもない痴態を晒していたことに思い当たる。恥ずかしくなって指先を組み合わせた。
「ごめんなさい。ひどくひっかいたと思うの」
「ひっかいた?」
「昨晩は何度も部屋に来てくれたでしょう? あまり相手が見えていなかったって言えば言い訳になるけど……あなたみたいな子供を相手に暴れるなんて。ごめんなさい、痛かったわよね」
 ルカは眉先を下げたものの、セシルはきょとんと目を丸くしている。互いの意図を探り合うような沈黙のあとで、ああ、と声を上げたのは少年だった。
「それ、僕じゃありません。僕は今朝までずっと居間の方にいたので」
「じゃああれは……」
「イシュドさまですね。そういえばいくつも傷を作っていらっしゃいました」
 くらみかける視界を、ルカは眉を寄せて引き止める。セシルはくすくすと声を上げて笑った。
「夜中に女の人の部屋に入ったことに関しては、たぶん、あの方も反省していらっしゃるので。許してさしあげてくださいね」
「……それは、いいけど……」
 それ以上なにを言い返すこともできずに、スプーンを器に沈める。
 スープはルカが口にしたことのない味をしていた。野菜の味のなかに、ほんの心ばかりの塩気の香った一品だ。
 肉や魚を痛ませないよう、ユ・タスでは香辛料を強く効かせた料理ばかりが食されている。淡い味付けにも、普段であれば物足りなさを覚えていただろう。しかし憔悴しきった体にはそのスープの優しさがありがたかった。
 ひととおりの食事がルカの腹に収まるのを待って、セシルが盆を取り上げる。
「じゃあ、イシュドさまをお呼びしますね。詰まる話はそのあとに」
「ま、待って」
 そそくさと退出しようとしていたセシルが足を止める。ルカは頬に赤を差し、ついと余所を見た。
「イシュドさんに、ごめんなさいって伝えておいてほしいの。面と向かっては言いにくいから……その、それとなく。言伝だって」
「言いたいことがあるなら俺に直接言え」
「それができないから、――っ!」
 戸口から顔をのぞかせたイシュドは、不機嫌を顔に張りつかせている。しかし目元には確かに面白がるような色が移りこんでいるのだった。ぱくぱくと口を開閉させたルカであるが、青年の頬や耳に走ったかさぶたを見るや否や、反論の勢いも急激にしぼんでいく。
 イシュドはセシルと入れ替わりに部屋に入りこんだ。介護用にと運ばれていた椅子にどっかりと腰を下ろし、横柄に足を組む。「それで?」と首を傾けられるので、ルカは思わず肩を揺らした。
「どうやらこの俺に、なにかを伝えたかったようだが」
 セシルが苦笑して背中を向けている。嵌められたのだ、とルカは唇をひきつらせた。イシュドは最初から部屋の外に立っていて、二人の会話に聞き耳を立てていたのだろう。
 お手上げだ。耳の先の熱を意識の外に置くべく、ルカは深呼吸をした。
 膝を揃えて、深く頭を下げる。
「すみませんでした。勝手なことをして、イシュドさんも危険な目にあわせてしまって。……昨日の夜も、散々にひっかいて」
「最後はいい。傷がついて損なわれる顔ではないからな」
「……そういうこと、自分で言うんですね」
 決死の謝罪も形無しだった。口をもごもごとさせるルカに、イシュドは肩をすくめてみせる。
「謝られても困るというだけだ。頭を下げるより先に、言い訳をしてみろ」
 ルカは膝に置いた手を握る。吸い込んだ空気は、静けさで濁っていた。
 伺うようにイシュドの瞳を一瞥して、からかう気配がないことにほっと息をつく。ひとたび大恥を通り越してしまえば、もう唇は軽くなっていた。
「八年前に、父が死にました。……発掘中の事故でした」
 墓はどこにもない。
 行き場をなくしていたのは、ルカの方であったのかもしれなかった。