ユ・タスの雨は歓迎されない。掘りあてた遺構を痛ませる上、土をぬかるませて発掘を困難にするためだ。
 珍しく降り続いた雨であったが、三日後には嘘のようにぱったりとやんだ。濡れた空気は砂埃を地に落とし、雲間からの光をつややかに乱反射している。ひび割れた大地には泥が染み込んで、地表にまだらの模様を描いていた。
 大気は涼やかだ。肺いっぱいに朝の空気をとりこんで、ルカは発掘場を見下ろす。
 穴の底にはくるぶしをひたしてしまうほどの泥水が溜まっている。垂直に進めていたはずの作業の跡も、雨水のおかげですり鉢状に削られてしまっていた。巨大な水たまりの中に裸足を投げ出すと、浮かんだ小石が足裏を打つ。
「はた迷惑……」
 いっそ休んでしまおうか、とも思う。実際、大雨の次の日には作業を休止にする作業場がほとんどだった。水を吸って重くなった土、あるいは泥は、遺跡掘りの士気を著しく下げるうえ、作業の効率も悪化させてしまう。
 しかし借金の山が目の前に横たわっている以上、一分一秒を無駄にすることさえ惜しいのが実情だった。作業用の長靴に履きかえて、飛沫を上げながら進む。泥濘に突き立てたスコップは泥水をかき分けて、やっとのことで小さな穴を掘り上げた。しかしスコップを引き抜いた途端、亀裂にはすぐに水が流れ込んでいく。
「はあ」
 幾分か重くなったスコップを杖にして、立つ。長靴は隙あらばずぶずぶと沈みこみ、不用意に持ち上げでもすれば転んでしまいそうなものだった。
「時間がないっていうのに。こんなことで足止めなんて」
 ルカは唇を噛む。すぐに大きく首を振り、スコップを握り直した。泥を掘り返し、払いのける。水が手元を狂わせても、腕が疲れを訴えても、すべて無視して切っ先を突き立てる。ルカにできるのは、土を掘ること以外にないのだった。
 ――探しているものがある。
 掘りあてたいもの、と言い換えてもよかった。
 ユ・タスの遺構にも、土に眠る古代文明にも、それを引き換えに手にする多額の報奨金にも興味はない。けれどもスコップを握らなければ手の届かない場所に、求めるものは埋もれてしまった。焦がれたルカが遺跡掘りを目指したのは当然のことだ。
 幸い、経験と知識は余るほどに持ち合わせていた。まだ三十一区発掘所がただの庭先であったころ、父親の友人たちはルカを可愛がって、面白半分に発掘ごっこをさせていたものだ。おかげで基準点となる杭の打ち方も、地層図の描き方も、十になるころには立派に心得ていた。
 背後に泥の山を積み上げて、ルカはこきりと腰を鳴らす。作業が進んだ実感は得られなかった。目の前にあるのは、深さを増した水たまりばかりだ。
 娘が遺跡掘りになったことを知ったら、父はどう思うだろう、と考えることがある。自身の叶えられなかった夢を叶えたルカを祝福するだろうか。
 反対するかもしれない、とルカは苦笑する。子煩悩だった父親のことだ。こんな危険な場所にひとりで入ってきてはいけないと言って、作業場から追い出そうとするだろう。ルカが土掘り遊びをしていられたのも、父親が発掘所を離れていたときに限られていたのだから。
「ばかだなあ……」
 ルカの腕が止まった。
 気付いてしまう。本当は知っていたのだ、――ただ、囚われていた。ルカが掘り進めているのは遺跡ではない。一人前に遺跡掘りを名乗りながら、行っているのは墓暴きも同然の行為だったのだ。
 ――探しているものがあった。
 会いたい人、と言い換えてもよかった。
 惰性で押し出したスコップに、手ごたえが返る。ルカの眉がぴくりと動いた。おそるおそるスコップを戻し、今度はゆっくりと、周囲の泥をかき分ける。
 どうにももどかしかった。濁った水が視界を覆うので、別の穴にやり場を作る。最後にはスコップを放り出して、両手を手袋ごと泥に埋め込んだ。血のような感触に顔をしかめながら、再びの手ごたえを取り戻す。手さぐりにその形を確かめ、「あ」と声を漏らした。
 手触りは大きな宝玉のようだ。ルカにとっては、同じ大きさのどんな宝石よりも価値のあるものであるに違いなかった。
 指先で泥を探る。脳裏に思い浮かべるものは、ぽっかりと空いた眼孔、割れた鼻先、固く閉ざされた歯列――欠損の少ないまま埋もれた、人間の頭蓋骨。ルカは泥の中についた両膝を震わせた。
「おとうさん、」
 一度手を引き抜いて、邪魔な泥をどかしていく。一掬いごとに気がはやり、ルカの掌を急きたてた。
 伝えたい言葉があった。たった一言を父に告げられたなら、スコップを棄てようと決めていたのだ。懸命に泥を掘るルカの頭に、しかし、細い杭が突き立てられる。

 ――お前に賭けることにしたんだ。

 ひくりとルカの喉が震えた。拒むように、弱々しく首を振る。
「関係、ないわ。そんなの」
 ずっとひとりで探してきた。横から現れた他人に、首を突っ込まれるいわれはない。父親を探し当てることができさえすれば、ルカが遺跡掘りでいる理由もなくなるのだから。
 お父さん、と呼ぶ。指先が泥をかいて、骨は今度こそ地表に姿を現した。
 ルカの体が揺れたのはそのときだった。過ぎた興奮に錯覚を起こしたか、と勘違いをしかけたが、すぐにさざめき立つ水が視界に入る。微細な振動が生んだ波は、ルカの肘をしとどに濡らしていった。
「地震……?」
 前触れじみた揺れだった。ほどなく大きな本揺れが訪れるだろう、と、ルカの頭は声高に警告をくり返している。けれどもルカが迷うように振り向いた先には、頭頂部のみをのぞかせた頭蓋骨があった。
 逃げることは容易だ。だが、もしもこのまま地震が起きたなら、緩みきった土は再び父の骨を覆い隠してしまう。そうなればすべてが水の泡だ。逡巡はルカの心を固めるには十分だった。
「待って……待っていて、お父さん、すぐに」
 力の限りに指先を鎮める。小石がルカの爪に入りこみ、切り裂くような痛みをもたらした。歯を食いしばって、骨の顎先に手をかける。
「すぐに、家に帰してあげるから……!」
 ぐらり、と地面が揺れる。まるで振り子のように引き倒されて、ルカの体は泥水に打ち付けられた。掌はふたたび骨を離れ、ルカは怯えのままに身を起こす。
 その首根が、後ろから掴まれた。
「馬鹿、何をしている!」
 ルカの体重は軽々と引き戻された。つんのめったところを支えたのはイシュドの体だ。なおも地面にはいつくばろうとするルカを、イシュドの腕が無理やりに抱え上げた。ルカの体を肩先におさえつけて、発掘場を駆けあがっていく。
 青年の腕が、存外に力強いことに気付かされる。――こんなところで、思い知りたくはなかったのに。
「いっ、嫌、放して……放せ、放してよ! まだお父さんが……嫌あっ、お父さん!!」
 イシュドが大地を踏んだとき、ついに地表がぱっくりと割れた。発掘所の壁は崩落を始め、作業場を泥水ごと土の懐に埋め込んでいく。高く跳ねた水は、まるで救いを求めた腕のようだった。
「お父さん……!」
 水飛沫が地に落ちる。ルカの意識は、それを境にぷつりと途切れた。