ユ・タスの街外れ、三十一区発掘所と呼ばれる穴を大きく迂回した先。発掘現場に寄り添うように立つ一軒家がルカの家だ。二重の鍵を開くと、すぐに錆びた鉄の臭いが鼻を刺した。
「ただいま」
 呼びかけたところで、返る声はない。もう慣れたものだ。
 ルカは玄関に乱雑に放られたままの作業用具――大小様々のスコップや計測器具、ヘルメットに懐中電灯を踏み越えて、ようやく居間に辿りつく。目につく家具といえば、背の揃わない棚の群れに、木製のテーブルと椅子がひとつずつ。少女が一人住むだけならば、ほかにものをため込む必要も余裕もないのだった。
 食べかすを払っただけの皿にパンと干し肉を乗せ、沸かした湯をコップに注ぐ。椅子に腰を下ろしたところで、はあ、と息が漏れた。
 殺風景なのは屋内も屋外も変わりない。曇った窓には発掘現場の全景が映っている。盗掘を危惧しての設計も、ルカにとっては底なしの憂鬱をもたらすものでしかなかった。
「……見張られてるのはどっちだか」
 ひとりごちて、味気ないパンに噛みついた。
 遺跡掘りは日の大半を地面とにらみ合って過ごすことになる。ルカが土の色を視界から追い出すことができるのは、夜早くにベッドにもぐり、翌朝を迎えるまで――正確には自身の夢の中に発掘現場を見るまでのひとときだけだった。
 もしも、と思うことがないわけではない。もしも、ほんの少しでもいい、そこに別のものを見出すことができたなら――。
 ルカは目蓋を下ろしかけて、すぐに首を振った。
「仕事仕事! なに考えてるんだか、もう」
 土地を取り上げられるとはいえ、望みを捨てるわけにはいかないのだ。ルカは空の皿を流しに投げ込んで、代わりにスコップを握りこむ。指先に馴染んだ鉄の重みは、ルカの両足を地面に繋ぎ止めた。
 けれども勢いよく外へ飛び出したところで、耳は一転、馴染みのない物音を捉えた。
「……誰かいる?」
 口に出した先から、まさか、と頭が否定する。
 窓から見た作業現場には、人影のひとつも見つからなかった。穴の底こそ死角になってはいるものの、そこも子供ひとりがぎりぎり入り込める程度のものでしかなかったはずだ。そもそも、遺物の欠片も掘り上げられていないような土地にわざわざ飛び込むようなもの好きがいるわけがない。
 しかしルカが発掘現場の大穴に近づいていくたびに、自分のものではない足音は、よりはっきりと聞こえるようになるのだった。それに重なるように、ぶつぶつと呟き声。思いのほかに高い声色が、ルカの頭を混乱させる。
「誰なの」
 問いかける、と同時に穴の底をのぞく。今まさしく歩みを止めた少年が、ルカを仰いで目をしばたかせた。
「ルカ・アマレットさんですか」
「それは私の名前。……あなた、どこの子。何をしているの」
 抜けるような白い肌に、どこかやぼったい灰色の髪。体つきこそ子供のものではあるが、彼が身に着けているのは細身の黒いズボンにシャツ、汚れのないベストと、使用人の着るような仕着せだった。
 穴の中とは不釣り合いにもほどがある服装だ。ルカはにわかに痛み始めた頭を押さえる。
「発掘現場に勝手に入ったら怪我をするわよ。いつ地震が来てもおかしくないんだから」
「す、すみません。あなたを探していたもので」
 危うげな足取りで足場を渡り、少年は日のもとに姿を現す。ルカの前に並んだところで、彼の頭は少女の胸元ほどにしか届いていなかった。
「自己紹介が遅れました。僕はイシュドさまの使いで参りました、セシル・ヴィックと申します」
「使い? 誰のですって?」
「イシュド・ホルムスさまです。こちらにもすぐにご到着になるかと思いますので、ご紹介はそのときに。僕は先んじて、あなたにご挨拶に伺うように承って参りました」
 ルカに用事があるのは、どうやらセシル少年の主の側であるらしい。ルカはまじまじとセシルの顔を眺めて首をひねる。
「それで、そのイシュドさんが私に何のご用なの。心当たりも何もないけど」
「本日が初対面ですから当然ですよ。用件についてはイシュドさまがご説明なさるかと思いますが、完結に申し上げるなら、この土地の権利譲渡についてのお話です」
「土地の権利譲渡、って……」
 少年の声には見合わない単語だ。ルカの唇はおうむ返しにそう呟くほかにない。セシルは小気味のいい返事をして、今しがた上ってきたばかりの穴を指差した。
「この土地の所有権、正しくは三十一区発掘所の発掘権をイシュド様にお譲りいただきたいんです。……というより、一週間前にはすでにお話は斡旋所に通っていたはずなので、今回はご挨拶に伺っただけなんですけどね。もちろん相応の対価はお支払いします」
「ちょっと待って、今なんて」
「ですから、こちらの発掘現場を」
「そうじゃないわ。いったい誰の権限で、そんなこと勝手に決めて――!」
 文句をつけようとしたところで、はっと頭にひらめくものがある。それはちょうど一週間前の記憶だ。斡旋所から届いた通達には、三十一区発掘所からの退去を命じる内容が記されていたのだった。
 納付金の未納を理由にしていたものの、ルカの滞納は今に始まったことではない。なぜ今になって、と疑問に思ったのも事実だった。
「……まさか、私をここから追い出しておくために」
 謀られた、とルカは奥歯を噛む。腹の内を叩いた感情を押しとどめて、やっとのことで呼吸をした。
 斡旋所からの退去命令に、イシュドという人間の思惑があったかどうかは定かではない。どこまでがその判断によるもので、どこからが斡旋所の独断によるものであるのかも。しかしルカにとって彼の干渉の有無や深浅は取るに足らないことだった。
 確かなのは、彼がこの土地を欲しているということ。
 そして自分が、この土地を追い出されようとしていること、だ。
「ふざけないで」
 地を這う声に、セシルは驚きを覚えたようだった。見開かれた瞳の中には気だるげな太陽が鎮座している。ルカはずいと身を乗り出した。
「すぐに本人を出してちょうだい。ご挨拶だなんて冗談にもならないわ。当事者を抜きにして決められた話に、はいそうですかって従えるわけがないでしょう」
「もう少しだけお待ちください、イシュドさまはじきにこちらへご到着なさいます。いまは斡旋所の方で手続きをされていらっしゃいますので」
「手続きなんかさせられるわけないでしょう!? そっちが来ないっていうなら私から行くわ、早くそこをどいて」
「こ、困りますってばあ!」
 ルカの服の裾にセシルの手がかかる。相手はあくまでも未成熟な少年のてのひらだ、鼠捕りほどの力もない。退けてなおも踏み出そうとしたルカの足は、しかし寸前でなにかに蹴躓く。
 浮いた、と感じたのが一瞬であるなら、次の瞬間には痛みもないままに転んでいた。
 足元に段差はないはずだった。同じ道を何十何百と歩いてきたルカが、今の今まで夢を見ていたのでない限り。呆然と地面を見るルカの下で、セシルはわんわんと騒ぎたてている。
「だめですってば、だめ! 決定事項なんです! イシュドさまに言いつけますよ!」
 彼の手の中の裾には、一度として手放された痕跡はない。つまり自分が転んだのは――転ばされたのは。必死に考えるルカの視界に、ふいに長い影が差した。
 ざり、と足音が響く。
 導かれるように顔を上げて、ルカは逆光に目を細めた。
「子供をいたぶるのが趣味か。うしろ暗い性癖なら、隠すのが嗜みだが」
 ダークブラウンに光が透ける。曇り空であるとも熱のこもった空気の中、一部の隙もなく礼服を着こなした青年が、訝しげにルカを見下ろしていた。
「……あなた、さっきの」
「先ほどは助かった。お前の案内のおかげで、無事受付と話をすることができた。礼を言おう」
 傲然と言い放ち、青年は唇の端をつり上げる。ルカの下から這い出したセシルは、泣きつくように彼のもとへ走り寄った。
「イシュドさま!」
「ああ、ご苦労。先方のご機嫌はどうだ」
「悪いみたいです。やっぱり取りかかりが急だったんですよ、お金でどうにかなさろうとなんかするから」
「イシュド?」
 セシルの声を遮って、ルカはくり返す。「イシュド・ホルムス? あなたが?」
「ああ、イシュドは俺のことで間違いない」
 斡旋所で衝突したばかりの青年は、深い色の瞳でルカを探った。
「名はイシュド、姓はホルムス。この土地の所有者になる人間だ」