動かなかった指を、今でもまだ憎んでいる。

「……機密任務?」
「そう、お偉方がえらくお前にご執心でな。ぜひ連れて行きたいそうだ」
 言いながら、レックス・アスターは茶のくせ毛を指先でもてあそぶ。
 レナードが初めて彼と出会ったのは、士官学校に通っていたころだった。もう六年近くの年月を共に過ごしたことになるが、初対面時から、軽口の多い男という印象はぬぐえない。どこまでが本当やら、とレナードは肩をすくめる。
「どうせ面白がってるだけでしょう。一度痛い目を見せて、俺の鼻っ柱を折りたいんだ」
「またお前は……同行できて光栄です、ぐらい言えないのか。可愛くない奴だな」
「こっちは親に押し込められて入軍しているんですよ。……まあ、そりゃあ、任務に興味がないわけじゃありませんけど」
 目をそらしてもごもごと呟いていると、突然頭をかき回される。手で振り払えば笑声が降った。
「そういうときはな、詳細を教えてくださいって言うんだ。素直でいたほうが生きやすいぞ」
「余計なお世話ですよ。……それで? 詳細は」
 そうして聞き出した内容に、肩透かしを食ったことは否めなかった。反乱因子になり得る継力研究の差し押さえと化学班の捕獲、そして研究室の完全封鎖。丸ごと警察に任せたところで問題は起こらないであろう内容だ。とはいえそこに動員されたのはレックスらを始めとした高官ばかりである。同行を許されることへの高揚を、レナードは口にしないながらも抱えていた。
 班の人員は七人。軽装で赴いたのは、警察署から続く地下室だった。軍本部から隔離されたその研究室では、相応の後ろ暗い実験が行われていると聞いている。
「いいか、何かあったら迷わずに撃て。ためらうなよ」
「銃ですか? 使わないって言ったのは教官でしょう。どうせ俺が仕事することなんてないでしょうし」
 この面子じゃあ。そう視線で訴えた。レックスはまあなと言いながら首を傾ける。
「まあ、念のため、だ。……鼻っ柱、折られないようにな」
「折られる要素がどこにあるっていうんですか」
 軍の備品、使い古しの継力銃はレナードの胸元に収められている。その銃身を指で撫ぜても、冷たく硬質な肌触りが返ってくるのみだ。今回の任務で使うようなことは万に一つもあり得ないだろう、というレックスの言葉に、レナードは密かに落胆を覚えていた。
 細い階段を下り終え、ノックの後に扉を開け放つ。告げられた軍の名に、科学者たちはひととき動揺を走らせこそすれ、いくらか納得した様子を見せていた。
「私たちは、捨てられたということですか。もう用済みだと?」
「倫理に反する研究を勝手に進めていたのは、あなた達だと聞いている」
「命じたのはそちらでしょうに、……無責任なことをおっしゃる」
 諦念を露わにしながら、ひとりまたひとりと科学者の手は手錠につながれていった。その大半が中年の男性、残りは数名の若者で構成されている。“反逆未遂者”の行列が仕立て上げられていくのを、レナードは上官の後ろで手持無沙汰に眺めていた。
 そうしてふと、レナードが顔を上げた先。そこには同様に不機嫌そうな表情で佇む、一人の科学者の姿があった。年頃は同じだろう、顔立ちにはまだ幼さを残している。共に軍属でありながら、片や人生を取り上げられ、片や彼らの拘束を担っているのだ。哀れだと思いつつも同情はしなかった。
 ひとりぐらい捕らえたところで、文句は言われないだろう――壁際を離れたのは退屈に後押しされたためだった。機械じみた動きで彼のもとへと歩み寄れば、その口が呟きを漏らすのを聞くことになる。
「ユークシアは腐った国だ。軍は国の膿だ」
「……?」
「白亜の国は屍も同じ。ならば改革を。改革をもたらさなければ」
 うわごとか、と理解した。レナードは溜息でそれを振り払うと、彼の腕を取り上げる。細い手首に手錠をかけようとして、

「――粛清だ」
 その手に継力銃を見たとき、意識が凍るのを感じた。

「レナードッ!」
 鼓膜を打った声に引き倒される。咄嗟に取った受け身は不完全だった。頭をしたたかに打ち付け、目の前に星が浮かぶ。直後、押し殺されたうめき声を聞いた。
「……教、官?」
 頬を伝った、生温い血。苦悶の表情でこと切れた男。床を染めた血だまりを踏む足音。それを耳にした瞬間、レナードは継力銃を引き抜いた。
 手は空いていた。行動を取れたのは一人だけだった。条件反射で動いた指先は軽々と安全装置を解除する。呼吸を忘れた体に、心臓の鼓動はうるさいほどに鳴り響いていた。そうして銃を向けられながら、青年が狂ったように哄笑する。
「私は復讐する! 国に、世界に、貴様らに! その傲慢を、決して許しはしない!」
「……っ」
「レナード!」
 続いた言葉は制止か、それとも。頭に血の上ったレナードには聞こえていなかった。
 引き金にかけられた指が震える。殺せとがなり立てる憤怒に押されながら、それでも体は動かない。身を凍らせたのが自分の理性であったのか、ただの臆病であったのかを判じることはできなかった。目を見開いたレナードの前で、足音は嘲笑うように階段を昇っていく。
 残された靴跡は血の色。自らを責め立てる耳鳴りに襲われ、レナードはふらりと膝をついた。

 数週間後、ウォルターの捜索はあっけないほど簡単に打ち切られた。再三、再四にわたる継続の訴えも、その声を発するのが士官学校上がりの新人となれば、聞く耳を持つ者がいるはずもない。
 あまりにも早急に過ぎる捜索打ち切り――それが事件の表面化を避ける軍の思惑によるものだと気付いたのは、閉鎖された地下室での研究資料を盗み見たときだった。


     *


 よぎった記憶を振り払い、レナードは継力銃を握りこむ。
 銃の形状、込められる弾丸が変わっても、そのグリップに触れるたびに、まだ指は小刻みに震えそうになる。宥めるように触れるのは習慣になった。
 鳴り渡る轟音のせいで、聴覚はほぼ使い物にならない。通信機の呼び出しに気づくことができたのは、その振動のためだった。
「はいはい、こちらレナード・ヘルツ」
 状況を考えろと叱りつけたいのはやまやまだが、報告を聞き逃すわけにもいかない。顔をしかめて耳元に集中する。妙に興奮した口調で語りかけるのは、署に残してきたニールの声だった。
『こちらニール・フラットレイ。報告します』
 続く言葉の内容に呼吸が止まる。しかし詳しい説明を求めている暇はない。
 襲撃者の一団は、統率の取れた動きで王都内を駆け巡っているという。北上する国王を軍に任せ、レナードら特務課の精鋭たちは足止めとして中央広場で待機するように命ぜられていた。そこが戦場に代わるのも時間の問題だろう。
「悪いが俺は動けない。報告は直接課長に……」
『ええ、ですから、今すぐそっちに向かいます』
「……ニール? おい、ニール!」
 そこで通信が途切れる。レナードはひとつ舌打ちをした。苛立ちが伝わったのか、隣に待機していたナタリーがふり返る。
「どうしたんです」
「俺が訊きたい」
 ただひとつ、通信の内容から察せられたのは、ニールの言動の裏には何者かの働きかけがあるということだけだ。思い当たる人物の名はいくらでも上げられる。捨て鉢なことをしなきゃいいがと呟いて、その想像を頭から追いやった。
 目を向ければ、銃を抱えた人々の影が我先にと通路を抜けてくる。もう考えごとをしている余裕はないのだ。照準を定め、銃を構える。互いに引き金を引こうとしたその瞬間、――視界に影が落ちた。
「な」
 かき乱された大気に髪を煽られた。広場に集う全員が全員、揃ってぽかんと顔を上げる。
 合金製の翼、猛るエンジン。均整の取れた形状。太陽を覆い隠したのは小型の輸送機だ。レナードの頭は眼前の光景を拒否しようとするが、白地の胴体に描かれたナシュバの花は、その機体の所属を雄弁に主張していた。
 航空機は広場の頭上をぐるりと旋回し、滑らかに着地する。唐突に開かれた扉からは小さな顔がのぞいた。それを認識したレナードは、ついに顔を覆って嘆息する。
「……俺に、選べって言うのか」
 呼び声が聞こえる。銃を吊り下げた指先は、静かに熱を持っていた。