「レナード・ヘルツ、動くな! 少佐の命に背く気か!?」
 叫んだ男の顔に見覚えはなかった。軍所属の人間だろうと推測して、アネットは伺うようにレナードを見つめる。彼は唇を引き結び、時間をかけてひとつ、まばたきをした。
「……はあ、まったく、敵わないな」
 砲撃の残響は街路を埋める。その中にあって、レナードの足音は確かに響きわたっていった。歩を進める彼に、男は怒声を浴びせかける。
「ヘルツ、聞いているのか!」
「はいはい、ちゃんと聞こえてますよ」
 聞こえているんだ、ちゃんと。口の中でくり返し、レナードは薄く笑った。
「あなた方だってそうなんでしょう? あの時、十年前。俺の声は聞こえていたはずだ。それでも無視し続けたのはどっちですか」
 レナードは航空機の扉に手をかける。アネットを押しのけて機内に踏み入ると、顔だけで広場をふり向いた。
「だから、もうあなた方の命令は聞かない。自分の過去にぐらい、自分で決着をつけたいんだよ。……残念ながら、まだ中身が子供なもんでね」
 扉が閉まる。ニールの操縦に従い、機体は大通りを滑走してふわりと浮きあがった。
 なぎ倒されていく木々と襲撃者たちを、レナードは平素の表情で見下ろす。眼下ではナタリーが監視役を突きとばしていた。彼女の率いる特務課の警官たちは、今度こそ四方八方から襲撃者へと走りかかっていく。そこに統制の影も形もないことを見て取って、レナードはくつくつと笑っていた。
「こういうときのための特務課か。あーあー、随分と楽しそうなことで……なあ、ニール君?」
 操縦席のニールが肩を震わせる。ふり返りこそしないものの、叱責に怯えているのだろう、その背は小さく丸められていた。
「子供たちに駄々をこねられたのか? それともあの課長が大人げない命令を出したのか? まさかお前の独断だってことはないだろうな、そんな度胸はないだろう」
「……よくご存知で。お察しの通り、課長の差し金です。振り回されてる自覚はありますよ」
「それでも乗ったのはお前の方だからな、今さら文句は言うなよ」
 ニールは返事の代わりに片手を振る。そうして会話を打ち切り、レナードはくるりと身を反転させた。操縦室の後方に座り込んだウィゼルと、扉に手をかけたままのアネットを交互に見やる。
「それで、きみたちはいいように課長に利用されたわけか。部外者を犯人に仕立て上げて、責任の所在をうやむやにしようって? そんな屁理屈が通るかな」
 国軍は武力機関として国王の脚下に跪く。その実力をもってユークシアを守護し、かの国が大陸の大国として君臨するため地盤を固めてきた。警察の手出しを排除するだけの発言力を持ちえたのも、彼らの背に戦役を踏み越えてきた歴史があるためだ。
 それをよくよく理解しながら、ラッセルの提案を呑んだのだ。アネットは床を強く踏みしめて、レナードの挑むような視線を弾き返す。
「功績をあげたら、通るんじゃないですか」
「ほお、功績ねえ。ウォルター一人を捕まえて軍の尻拭いか? プラマイゼロ、どころかマイナス評価だろうが、……まあ、いいさ。俺もつべこべ考えてここにいるわけじゃない」軍帽と通信機を放り捨て、レナードは操縦席の隣、備え付けの助手席に腰を下ろす。「目的地はヴァルガスの王都か。奴の居所は解析できたんだな」
「はい」
 ニールがうなずき、眼前の画面にヴァルガス王都近辺の地図を映し出す。点々と浮かび上がる印は砲撃の発射箇所だった。全ての印からは放物線を描いた線が伸ばされ、王都のある一点へと繋がれている。レナードはそれを覗きこんで、ほおと目を丸くした。
「逆探知か。さすがうちの継力担当は優秀だ」
「継力対策・管理課のおかげです。実際の行動指示こそ遅れていますけど、情報だけはきちんと軍と共有されていたようなので」
「右往左往しているのは人間ぐらいだな」
 操縦桿の横にはニールの通信機が置かれ、絶え間なく報告が送り込まれてくる。接続先は警察署の管制室だ。先に比べて生き生きとした声を、ニールは苦笑して聞いていた。
 しかしその笑みも、突如焦燥へと色を変える。
 横殴りの風を受け、機体が大きく揺れる。アネットは窓に張り付いてぎょっとした。彼女たちの乗る航空機の真横を通り抜け、幾筋もの閃光がユークシアへと放たれていったのだ。その着弾位置は、すでに、目視できないほどに遠ざかっている。
「あとどれぐらい……」
「さっきの着弾頻度で半日、だったな。発射箇所が増えている以上そうも保たない」
 アネットの呟きに答える、レナードの声は暗い。
 ウォルターを捕らえたところで、ユークシア本国が壊滅しては元も子もない。閃光の行く先を睨みつけてアネットは歯がみする。その肩を叩いたのは、すっくと立ち上がっていたウィゼルだった。なに、と噛みつくように反応すると、無言で一方を指さされる。
 ユークシアの方角。雲の切れ間から、黒点が次々と顔を出す。それはやがて飛行機の形を取り始め、一斉に放射状に散開していった。訝しむアネットを、足元で鳴り響いた通信機が飛び上がらせる。
 レナードはそれをひょいと拾いあげ、迷いなくボタンを押した。雑音混じりの声が機内に響くようになった段階で、彼はそれを耳にあてがう。
「はい、こちらヘルツ」
『ヘルツ君か、パーヴェルだ。聞いたぞ、随分自由にやっているそうじゃないか』
「……あー、大佐。すみません。お叱りならあとで受けます」
『いやいや、軍もきみたちにつつかれてやっと重い腰を上げたんだ。感謝しこそすれ、きみを責めるようなことはすまいよ』
「はあ」
 レナードが気の抜けた声を返す。通信機の向こう側からは朗らかな笑声が届けられた。その後、パーヴェルは一段低い声で続ける。
『先ほど、あの大砲を処理すべく航空部隊が編成された。特定された発射位置は端から制圧していく予定だ』
「俺たちは……」
『軍属が警察に指図することなどないさ。すぐに後続部隊を寄越すから、いざこざが起こりそうならそちらに任せればいい。もう奴を取り逃がしてくれるなよ』
「当然です」
 通信が断たれる。レナードは通信機を投げ捨てようとしたが、途中で思いとどまったのか、呆れ混じりの吐息と共にそれを腰元へと戻した。
 アネットらを乗せた機体がゆるやかな飛行を取り戻す。眼前の大窓には、質素な街並みの都が姿を見せ始めていた。