――違う。もう一度胸に呟いた。
 確かな既視感は、バームで見たものではない。しかしいくら思い出そうとしても、くっきりと刻まれているはずの記憶の中には答えが見つからないのだ。混迷する過去を辿ろうとするたび、景色はおぼろげな軌跡だけを残して指先をすり抜ける。
 新緑。灰と散る建物。逃げ惑う人々。全てを、光が。光の渦が飲みこんでゆく、その光景――。
「あ、」
 小さな声が喉を突いた。途端にぶるりと怖気が走る。
「……わた、し」
「アネット?」
 一歩、後ずさった少女の姿を、ウィゼルは不審げに見やる。アネットは縋るように彼へと顔を向けた。
「知ってる。見たことがあるの、ウィズ、私、あれを」
「はあ? 何言って」
 馬鹿にしようと開きかけたウィゼルの口が、そのまま閉じられていく。ややあって、彼は真剣な表情でアネットに問いかけた。
「……それ、どこで」
「ずっと昔。ウィズに会うよりも、もっと」
 誰かの叫ぶ声がする。あるいはそれは、自分自身なのかもしれなかった。思い出せ、呼び起こせ、そう叫ぶ年端もいかない幼い少女の絶望が、胸のうちに風穴を開ける。
「緑色の軍服、だったの。あの兵器を使っていたのは、緑色の……私はあの人たちにさらわれて、それで」
 少女はその後の世界を拒絶した。ゆえに以降の記憶には霧がかかり、茫洋として曖昧だ。アネットの必死の訴えに、ウィゼルは眉をひそめる。
「緑色の軍服……」
「ヴァルガスだ」
 ニールは解を与えながら、苦悶の表情を浮かべた。
 ヴァルガスに連れ去られた者たちは揃ってユークシアに送られ、軍の研究の下に置かれた。それが意味する事実はひとつ、パーセル争奪戦争直後のヴァルガスと彼らとの間にパイプが築かれていたということだ。軍部が研究の存在を抹消した現在において、なおもヴァルガスの技術がユークシアを狙う原因は、そこにウォルターの関与があるからに他ならない。
「もし、きみたちの考えが正しかったとしても……いや、おそらく、実際に正しいんだろう。それでも、今の警察は軍の指揮下にある。班長、それから軍に報告を入れて、決定を待って、俺たちはやっと動くことができるんだ。それまでは砲撃に耐え続けるしか」
「でも、前みたいにウォルターを追い詰めさえすれば」
「その行動だって、俺みたいな一警官の独断じゃ許されないんだよ」
 ニールの答えに、アネットはくしゃりと顔を歪めた。
 ヴァルガスには表だってユークシアを狙う意図はない。だからこそ、自国の技術をウォルターに横流しすることで間接的な襲撃を行わせたのだ。彼らにとりウォルターは便利な武器であり、いざというときには切り捨てることの可能な駒にすぎない。現在に至るまでの繋がりを明るみに出せば、ヴァルガスは容易くウォルターを差し出すだろう。
 ――それだけで済む、はずだというのに。
「何もしないで待っていろって言うんですか。犠牲が出るのを、指をくわえて見ていろって?」
「そうは言ってないよ。今すぐに班長に通信を入れて……」
「軍の会議と指示を待つ? それじゃあ、実際にあの砲撃が止まるのはいつになるんですか」
「……っ、だから、出来る限りを尽くすしかないんだよ! これはユークシアの、軍と警察の問題なんだ!」
 半ば自棄で叫んでから、ニールは悔いるように奥歯を噛みしめた。
 本来高い自己決定権を持つはずの警察が、その行動を封じられている状況だ。その理由を知る者は少なく、動くに動けない歯がゆさを抱えているのもニールのみではない。推測のつく者など万に一人もいないはずだ――軍は過去の非道な実験をひた隠しにするために、警察からの介入を跳ねのけているなどと。
「フラットレイさん、これを」
 恐る恐るといった様子で、機器に向かっていた警官が画面を指し示す。
 そこに映し出されているのは、王都に流れこむ人の波だった。拳銃、小銃、それぞれに武器を手にした彼らは、獣じみた瞳をして軍人に銃口を向けている。先陣を切った青年の小銃が火を噴いた段階で、ニールは画面から目を離した。
「あれはウォルターの……王都の混乱を見越したのか? もろとも砲撃で滅ぼすことになるっていうのに? ……いや」自ら否定して、彼は拳を握りこむ。「奴らの狙いは陛下の命だ。手段は選ばないってことか……」
 彼らの担う役割のひとつは、砲撃対処への足止め。もうひとつは国王を狙う刺客そのものだ。軍と警察との間に諍いを擁したユークシアを討ち取るのは容易なことだろう。
「南東三地区、襲撃者との交戦を開始。陛下は中央通りを北進、中央広場を経由して北地区へと退避するようです」
「襲撃者の人数、二千五百、六百……まだ増えます、現集計結果をひとまず軍情報部へ転送します」
「第二、第三砲撃の発射位置を特定。ヴァルガス王都を中心に散開していることを確認しました。指示系統の中心もおそらく王都内に。……情報を、軍へと報告します」
 無機質な声と機械音が室内にこだまする。新たな閃光が障壁に衝突し、脳をかき回すような音の洪水をまき起こした。
「じり貧だ」
 ウィゼルが苦しげにつぶやいて、目を伏せる。
 襲撃者を制圧するだけならば訳もない。しかしそちらに人員を裂けば、徐々に発射頻度を狭める砲撃は、いつか障壁を突き破るだろう。一方で、軍との連携が取れない現状、砲撃への対処は未だに進んでいない。
 管制室の扉が叩かれたのはそのときだ。特務課の課長――ラッセル・ヤードが、管制室に険しい顔を覗かせる。
「あらかた報告は入ってる。そいつらのおかげでな」継力対策・管理課の警官たちを顎で指し、彼はうなずく。「軍にも伝令を送った。返事はいつになるか分からんが」
「課長」
 呼びかけこそすれ、ニールの口からは続く言葉が吐き出されなかった。ラッセルは小さく息をついて、アネットとウィゼルに顔を向ける。
「しかしきみたちも大概言うことを聞かないな。レナードが手を焼くわけだ」
 肩をすくめ、首を振る。その動作はやけに芝居がかっていた。ラッセルはそのまま胸ポケットから二連の鍵を引き抜くと、手の内側で転がしてみせる。
「……あー、ごほん。ところで、先ほど航空機の格納庫を見てきたんだがな、どうやら機体整備の担当が寝ぼけて、偶然、“偶然”この鍵を落としていったらしい。私はそれに気付かず通り過ぎた、が」上滑りした声で言いながら、アネットの手を取り上げる。虚をつかれて固まっている隙に、手のひらには鍵の束が握りこまされた。「余所者の、警察官とは全く関係のないきみが、“たまたま”通りがかって鍵を拾ったらしい」
「……か、課長さん?」
 アネットが瞠目する前で、ラッセルはくるりと身を反転させた。
「そしてニール、力無ききみは悲しいかな、彼女たちの脅しに屈するほかなかった。だから日頃から鍛えておけというのに、後悔先に立たずだ」
 一瞬戸惑って、後。深い溜息をついたのはニールだった。
 アネットが手渡された鍵は、格納庫に収納された航空機のものだろう。おそらくそこでは、偶然離陸準備の整えられていた機体が、偶然開かれたハッチの前で、偶然見張りもないままに放置されているのだ。ニールは片手で目を覆い、まったく、と嘆く。
「よくわかりました。班長が、ああいう人になった原因が」
「特務課の売りは機動力だからな。……ひとっ飛び行って来い。雑用、得意だろう?」
「課長が言ってちゃ世話ないでしょうに」
 ニールはアネットから鍵を取り上げ、それらを束ねる輪を指にかけてくるりと回す。安全運転はできないよ、と眉を下げた彼は、どこかふっきれた表情をしていた。