長い階段を下りきった先、小さな扉にノックは一度。返事が無くとも勝手に入り込むつもりでいた。はいはい、と穏やかな声が返されたところで結果は同じだ。ウィゼルは遠慮なくドアノブを捻り、押し開く。部屋の中で資料をめくっていたレナードが意外そうな顔でまばたきをした。
「なんだ、弟のほうか」
「悪かったね」
 中は暗い。広い部屋の隅までを照らすには継力灯の光度が足りないのだ。しかし当のレナードは暗闇をものともせず、その継力灯の真下でファイルを広げている。何度も繰り返された行為であるのだろう、丁寧に綴じられているはずの紙の端は、すでに摩擦で丸みを帯びていた。
「邪魔するよ」
 ずけずけと部屋に入り込む。ずらりと並んだ継力器具は過去の実験を偲ばせた。唇を引き結ぶウィゼルを見やり、レナードは手元の資料を閉じる。
「よくここがわかったな。お姉さんから聞いておいたのか」
「意地の悪い訊き方をするもんだね。……アネットからだよ」
 彼女はすでに姉ではない。そう言外に伝えると、レナードは肩をすくめた。
 かつてアニエスが研究を行っていたという部屋の存在は知っていた。しかしそこでどんな行為が行われていたのかを、彼女は頑なに口にしようとしなかった。ウィゼルがことの経緯を知ったのは、独立都市パーセルに移り住んだあと。市長であるロイ・ソディックに届けられた手紙の内容を聞かされたときだ。
 理解するまでに数年がかかった。さらに数ヶ月で、やっと感情が追いついてきた。理由を得た少年が力を貪欲に求めるまでに、もう時間は要らなかった。
「レナード・ヘルツ。復讐なんてやめておけって、あんたは言ったけど」
「ああ、確かに」
「ウォルターに復讐したかったのは、むしろあんたの方だったんじゃないのか」
 レナードはわずかに目を見開いたが、それも束の間だった。ああ、と納得したように声を漏らす。
「うちの課長も口が緩いな。あれだけ口止めしておいたのに、子供相手なら何を話してもいいと思ってる」
 乾いた笑いは自嘲だった。彼の吐息に揺らされた空気が、微細な埃を流して漂う。その行方を見送ってから、レナードは漆黒に包まれた足元に目を落とした。
「どこまで聞いたかは知らない、が。そんなお節介を口に出すってことは、青い青い俺の過去は包み隠さず明かされたってわけか。まったく、穴にでも埋まりたい気分だな」
「……あんた、自分も他人も、茶化さないと喋れないわけ?」
 ウィゼルが唇を尖らせると、レナードはおかしそうに肩を震わせる。
「その通りだよ。そうでもしないと恥ずかしくてたまらなくなるからな」
 言うなればそれは、彼にとっての防御壁なのだ。細められたレナードの好奇の目は、きみも同じだろう、と告げている。ウィゼルが視線を逸らせば、笑声がそれを追った。
 抱いていた忌避感の正体は、思えばただの同族嫌悪だった。それに気付けなかったのは、レナードが巧みに過去を追いやっていたせいだ。怨みがましい目で睨みつければ、レナードは怖い怖いと鼻を鳴らす。そうしてやっと声を低くした。
「機密任務……あの任務はそう呼ばれていた。研究班の取り押さえ、軍にとっての証拠隠滅だ。自分の力を試してみたくてたまらなかったクソガキにとって、これ以上に甘い響きを持つ言葉はないだろう? 新人だった俺に与えられた規定は二つ、何もせずに後ろに控えていること、上官の命令には必ず従うこと。何度も言い聞かされて、耳にたこができそうだった」
 気をはやらせた若き天才は、その身に慢心を抱えていた。彼が辿りついた先に立つ青年は、突き放すような声で過去を語る。
「任務はあっけないほど簡単に進んだ。だから油断したんだ、ウォルターが銃を握っていることにも気付かないで、俺はのうのうと奴に手錠をかけようとしていた。そうしたら、……ああ、よく憶えてる。床に引き倒されて、次の瞬間には、教官が血を流して転がっていた」
 レナードは腰元の継力銃を引き抜いて、掌の上で弄ぶ。いくらかしてそれに飽きたのか、今度は右手にグリップを握りこんだ。ウィゼルが身構える間もなく、引鉄を引く。
 響いた音は空砲のそれではなかった。しかしいくら経っても壁に穴が開く気配はない。いつか放たれた特殊な銃弾だ、と思い至り、鼓動を刻む胸を落ち着かせるべく呼吸を深くする。目にしたのは一度、初めて彼と出会った時のこと。ウィゼルの継力銃を無力化したのも同じ銃だった。
「……これだけだ。これだけのことが、できなかったんだ」
 レナードが瞳を閉じる。耳を突くほどの静寂に、声は寂しく響いていった。
「引き金を引けば当てられた。その自信はあった。だからこそ撃てなかったんだ。結果ウォルターはまんまと逃げ伸びて、今も虎視眈々とユークシアを狙っている。……俺は」息をついて、表情から力を抜く。「今ならあいつを、撃てるのかもしれないな」
 空虚な声を響かせ、レナードは慣れた手つきで継力銃を収めた。
 黙りこみながら、ウィゼルが思い出したのは、祝祭の日のことだった。王都ユークシアへの襲撃が収まったあとには何百という数の死体が焼かれたという。その四分の一は、警備に携わった警官たちが撃ち殺した襲撃者の亡骸であった。
 ふいに降りた沈黙に、レナードは居心地が悪そうに首を振る。
「復讐。そうだな、きみの言う通りだ。ただ同じだけの苦しみを味あわせてやりたい、そうしないと収まりが付かない。だからこそ俺はあいつを追って……それでも」
 一息で言いきって、彼は首を振った。
「どんなに憎んでいたとしても、風化するんだよ、恐ろしいことにね。許せるわけじゃない、忘れられるわけじゃないのに、ただ刃だけが鈍っていくんだ」
 鋭利な刃物を抱えて進むには、時の流れは重すぎる。名も知れない少女を傍らに置き続けたウィゼルにも、同じだけの年月が降り積もっていた。形は違っても、その重みは同じものであったのだろう。
 脳裏に浮かぶ笑顔は姉のものでしかないはずだった。彼女が最後に浮かべた空虚な笑みは、誰にも上書きされずに残り続けるものだと思っていた。しかしいつからか、ウィゼルの決断を促す影は、少女のかたちを取って彼を焦らせるようになった。平穏に塗り込められたら、今度こそ逃げ伸びた意味を失ってしまう。警鐘はいつしか、脅迫に変わっていった。
 溶けだした温もりが、麻薬のように頭を痺れさせていく。バームでウォルターを目にしたのはその頃だった。腰の継力銃の重みを意識して、ウィゼルは力なく視線を下ろす。
 憎悪は消えない。――けれど、復讐心は。噛みしめようとした歯には力が入らなかった。
「きみはどうするんだ」
 レナードの問いかけは反響を伴って耳に響く。
「……僕は」
 煌々と輝いていたはずの継力灯が、その明度を落としたようにやわく移ろっていた。