じりじりと胸を焼く感情に名前がつけられない。アネットが唇を引き結んだままでいると、ウィゼルは次第に不機嫌の色を露わにしていく。
「何か言ったらどう」
「ど、どうって、なにが」
「……アネットさあ、押されると弱いよね」
 僕もだけど。小声で付け足して、ウィゼルはそれきり、何事もなかったかのように身を離した。滑り込んだ空気に頬を冷やされて初めて、アネットは呼吸を思い出す。そのときになってやっと周囲の物音も耳に入ってくるようになった。
 かつん、と廊下を踏む靴音。遊ぶようなそれに、先に意識を向けたのはウィゼルだった。ふたりに歩み寄った中年の男は、アネットの姿を視界に捕らえると「おお」と声を上げる。
「良かった、ここにいたか。レナードに頼まれてな、きみたちを迎えに来たんだ」
 柔和な表情とまばらに生えた無精ひげは印象の不一致をかもし出す。それでも彼の性質の穏やかなことは、声色の優しさから明らかだった。
「課長さん」
 アネットが呼びかけると、彼は鷹揚にうなずく。
 ラッセル・ヤード。特務課の課長であり、レナードらの上司にあたる男だ。アネット自身も直に言葉を交わした機会など数えるほどであったが、彼のまとう温和な雰囲気は忘れようにも忘れられない。アネットは小走りに駆け寄って、一度頭を下げる。
「わざわざすみません、……レナードさんは」
「あいつの取り調べはすっかり終わったよ。まあ、もともとこっち側の人間だからな」
 抱えている情報はもともと共通のものである、ということだろう。しかしラッセルの顔つきは渋い。何かあったのかと問いかけると、彼は片目を瞑った。
「きみたちに話すようなことでもないが、少々、軍と揉めてな」
 渋りながらあらましを聞かされる。――曰く、レナードは取調室に呼ばれるや否や、来る式典の中止を訴えかけたのだという。建国記念の祝祭が凄惨な結果に終わった現状、新たな式典を開けば、再び襲撃を受ける可能性が拭いきれない。その上警察の警護を排除するとあっては混乱は必至である、と。
「あちらさんはもちろん聞く耳を持たなかった。私は殴り合いの喧嘩になりかけたのを引き止めて、レナードを帰らせて、そのついでにこちらを迎えに、というわけだ。……いやまったく、恥ずかしいな、子供に失態を明かすというのは」
「レナードさんが、喧嘩、ですか」
 アネットはぱちぱちと瞬きをくり返す。ラッセルはひとつ、深く頷いてみせた。
「あれもウォルターや軍とは色々あるからな。特務課の存在意義に関わるともなれば、突っかからざるを得ないだろう」
「……存在意義?」
「なんだ、聞いていないのか。レナードめ、あれだけ傍に置いておきながら」
「ただの雑よ……、えーと、民間の依頼を受ける仕事だって」
 ラッセルはあごをさすり、しばらく迷う様子を見せた。まあいいだろうという声に、アネットとウィゼルは揃って顔を上げる。
「特務課は、戦争の事後処理のために作られた部署だ。雑用をしているように見えるのは、それだけ被害が目につかなくなったことでもあるんだろう。だが俺たちは」
 一拍。呼吸を置いて、ラッセルは首を振る。
「いや、少なくともレナードは、その意義に真摯でいる。あいつにとってこの特務課は、軍でできないことをするための場所だからな」
 ラッセルの、懐かしむような、それでいて後悔するような口調に、ひとつの記憶が自然と思い起こされる。それは先日、レナードが収容所の前でこぼした言葉だった。
 ――こうなるのが嫌で、俺は軍を辞めたんじゃないのか。
 ほんの一言。ふとすれば聞き逃してしまいそうな呟きを、アネットの耳は確かに捕らえていた。それがレナードという泉の水底から掬いだされたものなのだとしたら、彼が基づく行動原理が浅いところに存在するはずがない。
「十年前」
 アネットはつい口に出す。ラッセルが顔色を曇らせているのにも気付かなかった。
 十年前、を、レナードはくり返し気にかける。ウォルターを追うための手がかりであるとはいえ、その妄執は仕事上の理由というだけでは不自然だ。
 唇を噛みしめて考える。やがてアネットの頭に落ちてきたのは、形よく導き出された答えだった。
「研究の取り押さえ……レナードさんも、参加していたんじゃありませんか」
 研究班の一斉検挙――軍による証拠の隠滅は、ウォルターひとりを取り逃がした結果に終わったという。当時レナードが軍に所属していたのであればその作戦に関わっていてもおかしくはない。
 ラッセルの答えは沈黙だった。しかし眉に刻まれたしわは少しずつほぐれてゆき、しまいにはひとつ、彼の口から溜息が漏れる。
「近ごろの子供は勘のいいことだ。……いいか、私の口から聞いただなんて、本人にだけは言ってくれるなよ」
「約束します」
 アネットの答えの速さに、ラッセルはやれやれと首を振った。
「きみの言う通りだ、レナードは思考継力化研究の取り押さえに加わっていた。任務の成果はおおむね良好、研究員のほぼ全員を捕えることに成功。当時行方をくらませていたアニエス・レイと、軍人を射殺して逃亡したウォルターを除いてな」
「射殺」
「言葉のとおり、だ。そのとき奴に撃たれて殉職したのが、レナードの教育をしていた男だったそうだ。……そんな犠牲を生んだにもかかわらず、軍はことがおおっぴらになるのを避けてな。ウォルターの捜索は一月と経たずに打ち切られた。あいつはそれから、食事に手を付けなくなった」
 誰とも話さず、任務を与えられることもなく。亡霊のようなたたずまいで、呼吸だけを繰り返して。次第に痩せ衰えていく青年を、誰もが横目で伺っていた。懐かしむように言葉を継ぎながら、ラッセルは苦笑した。
「警察に特務課が結成されたのはそのころだ。軍でできないことも、警察でならできるだろう――誘ったのは私だったな。警察学校での特殊課程を経て、あいつはここに来たというわけだ」
 彼の才気は所属を移してもいかんなく発揮されたのだろう。警察学校での再起を含めた十年、子供が大人になるほどの時間を、彼はただ、ウォルターを追うためだけに費やしてきたのだ。
 押し黙ったアネットを見下ろし、ラッセルは親のような微笑みを浮かべる。
「あいつはきみたちを子供扱いするだろう。自分が子供だった頃のことを手痛い経験として憶えているからだ。だがな、子供でなければできないことも、また、確かに存在しているはずなんだ」
 子供ではできないことが存在するように。謎かけるように言って、ラッセルはうなずいた。
「……うん、そろそろ帰らんとレナードが不審がるな。急ぐとしよう」
 言い残して、ラッセルはけろりとした顔できびすを返す。ウィゼルはその背中を見つめて、ぼそりと「子供」と呟いた。小首をかしげたアネットに、しかし彼はなんでもないと首を振る。

 ――その夜。アネットが警察署のベッドに横たわる頃、ウィゼルはひとり、暗がりに落ちた廊下を歩いていた。