簡素な机と椅子のみが配置された小部屋が三つ。それが、アネットらの取り調べのために用意された場所だった。場所が分けられたのは情報の秘匿を避けるためだったのだろう。しかしアネットとウィゼルのどちらも、ユークシアに連れ戻された段階で、もはや黙秘はすまいと腹をくくっていた。
 ともなれば、微に入り細に入る尋問に対し、記憶の書きかえられたアネットが持ち得る情報はすぐに底を尽くこととなる。担当官によってそこに嘘が無いことを確認された段階で、部屋からの退出を許された。
「失礼しました」
 形だけの挨拶をして扉を閉める。途端に疲労感に襲われ、アネットは重い息を吐き出した。
 バーム地方からユークシアへと逆戻りしたのがつい先日のことだ。食事と寝床が与えられ、深海に沈んでいくかのような眠りについた後、取り調べのためにと叩き起こされたのは翌日の早朝だった。
 未だに体のだるさは抜けない。立ち尽くしたままぼんやりと廊下を眺めていると、隣の部屋からウィゼルが姿を現した。彼はアネットを目に留め、ああ、と安心とも落胆ともつかない声を漏らす。
「……お疲れ」
「ウィズも」
 隣りあって壁にもたれかかり、しばらく無言で余所を向いていた。
 軍服を着た青年が、二人を横目で見ながら通り過ぎていく。場違いさに身を刺されるような感覚を覚えても、より深く積もった疲労感はアネットの両足を廊下に縫い止めていた。時間だけが漫然と流れていく中で、先に静かな呼吸を乱したのはウィゼルのほうだった。
「取り調べの間、さ。ウォルターが言ったことを、ずっと考えていたんだ。姉さんの望み……この国を憎んでいたのかどうかって」
 取り調べを終えて、肩の力が抜けたのだろう。憑き物の落ちたような顔をしてウィゼルは言葉を紡ぐ。ぽつりぽつりとこぼれていく彼の声を聞きながら、アネットは無言でうつむいていた。
「きみに《アネット》を植えつけるとき。姉さんは僕に、許すなって言ったんだ。これから自分のすることを、決して許すなって」
「……うん」
「姉さんは、自分のしていることを認められなかった。だから軍から逃げてきて、でも、きみと僕を逃がすためには、その研究の成果に縋るしかなかったから、だから、」
 連ねて吐き出そうとした言葉を、ウィゼルはしかし、ゆるゆると飲みこんでいく。ややあって力なく首を振った。
「ありえないんだ。姉さんがユークシアを憎むはずがない。復讐だなんて、そんなこと、考えもしなかったはずだ。姉さんが恨むならむしろ……同じ闇に手を染め続けた、姉さん自身でしかないんだから」
 言いきってから、彼は幾度かの瞬きをして「ごめん」と呟いた。吐露を恥じるそれに、アネットは黙って首を振る。
 許さないで――そんな姉の言葉を、身も心も幼かった少年は、ずっと抱き続けて生きてきたのだ。自らを姉だと名乗る、見ず知らずの少女を隣に置きながら。
 考える。いったいそのことは、彼にとってどれだけの苛みであっただろうか、と。じくりと痛んだ胸に手をやって、アネットは躊躇いの末に問いかけた。
「ウィズが黙っていたのは、私のことをウォルターに勘付かせないため?」
「そんなに大層な理由じゃないよ。僕はただ、姉さんの形見を失くしたくなかっただけ。あいつと同じだ」
 そう言うや否や、ウィゼルは壁に寄りかかったままずるずるとしゃがみ込む。肩を震わせたアネットの横で、深く自分の膝を抱え込んでしまった。「あー……」とうめいた彼に、どうしたのか問いかけるまでもない。息の継ぎ目から、恥ずかしい、と小さな声がした。
「正直、戸惑ってる。ずっと昔は、もっと純粋にあいつを憎んで、恨んで。いつか復讐してやるんだって、そう思っていたのに」
「今は?」
「……憎んでる。それは変わらない、でも」
 逆接を置いて、上げられた顔には不安がちらついていた。
「もしもバームでウォルターを見かけていなかったら、僕はまた、今までどおりにパーセルで暮らしていたと思うんだ。きみにも何も言わないまま、死ぬまであそこで。……そうだ」ふいにアネットを見上げて、ウィゼルは毒気なく笑う。「三年前、僕が勝手に家を出たとき。どこに行っていたのか教えてあげようか」
「え」
 アネットはひとつまばたきを返す。
 問いかけ自体に深い意図はなかったのだろう、ウィゼルはいくらか調子の軽い声で語り出す。
「ユークシアの実家に行ったんだよ。もしかしたら、姉さんを殺した奴らの居所が掴めるかもしれないと思って。でもそこで分かったのは、あいつらはもう軍に捕まって、ウォルターひとりが逃げ伸びていたってことだけだった。それが起こったのも、姉さんが死んでから一年も経たないうちのことだって。……おかしいだろう。それじゃあ僕がやってきたことは、一体なんだったんだ」
 ウィゼルは自嘲じみた笑いをこぼして、目にこころなしか寂しさを覗かせた。
「そのままパーセルに戻ってきて、そうしたら、きみは居間のテーブルに突っ伏して眠ってた。毛布もかぶらずに、馬鹿なアネット。そういえば次の日には風邪をひいたんだっけ」
「そ、そういうことだけ憶えてるんだから……!」
 学校の授業があった日の夜だった。ひとりで簡素な食事を終え、手持無沙汰のままテーブルに向かっていたのだ。夜の静寂と心細さに押しつぶされそうになりながらウィゼルを待ち続け、結局そのまま眠ってしまっていたのだろう。その日の記憶は曖昧だが、翌日から数日間熱を出して寝込んだことだけはよく憶えている。
「耳がいいアネットのことだから、僕の足音に気付いたんだろうね。間抜けな顔で目を覚まして……寝ぼけてたし、どうせ自分が何を言ったかも覚えていないんだろうけど」
「夜遅くに帰ってくるウィズが悪いんじゃない」
 頬を膨らませても、とぼけるように肩を竦められるだけだった。からかい混じりに進められる昔語りに耐えかねて、もう、とそっぽを向く。
 憤慨するアネットの意識を再び引き寄せたのは、「おかえり」という一言だった。背を撫でるような声の優しさに呼ばれ、目は自然と彼を追う。その眼差しに溶け込んだ慈しみを見たとき、アネットは自分の胸が、一度高く脈を打つのを耳にした。
「……きみは、おかえりって言ったんだ。そのときだよ。パーセルときみが、帰るところになったのは」
「帰る、ところ」
 アネットが目をしばたかせる。そんな彼女に向かって、ウィゼルは意地の悪い笑みを見せた。
「大事なことはちゃんと憶えてるんだ。アネットと違って」
「う、」
 言葉に詰まって、視線をさ迷わせる。縋る相手は見つからず、気恥ずかしさから目蓋を伏せた。唇をわなつかせる彼女の横で、ウィゼルはようやく立ち上がる。その手がアネットの頭を軽く小突いて、いたわるように撫でた。
「ウィ、ウィズ、ちょっと、やめて」
「この際だから、ちゃんとわかってもらうけど」
 ぴたり、と骨ばった手が動きを止めた。その手の思いのほか大きいことを意識してしまうと、もう思考はまともに機能しなくなる。頭から頬へ、手の皮膚がこすれた場所から火が点くようで、アネットは無意識のうちに息を止めていた。
「アネット、僕はきみの弟じゃない。あのまま抱えておくつもりでいたけど、やっぱり駄目だ。よく聞いて」
 アネットは恐る恐るウィゼルの顔を見つめ返した。彼の暗い色の瞳が、星に似た光を宿す。
「僕はちゃんと、きみのことが好きなんだ」