子供
物心のつく頃には、ウィゼルに親はいなかった。
戦争が終わってからたった十年。戦後の不衛生が呼び起こした流行病の影響もあって、そんな家庭の存在はさほど珍しいことではなかった。町中から十人の子供を集めれば三人は片親、ひとりは親戚や歳の離れた兄弟に育てられていたような世の中だ。
ウィゼルはそのうちの後者だった。十五も年上であった姉アニエスの庇護を受けて育てられ、彼女が仕事に出かけている間は家の中にこもって暮らしていた。そんな境遇に不満を漏らしたことは一度としてなかったが、アニエスは、交遊関係のない弟のことを大層不憫に思っていたのだろう。
「アネット」
「なあに、ウィズ」
継力端末から響く、滑らかな姉の声。その声を耳にして、ウィゼルはにこりと笑う。
端末に埋め込まれた人工知能、その名は《アネット》。軍の科学班に勤める姉が、独自に制作していた継力装置のひとつだった。アニエスに似せられた回路だけが廃棄を免れたのは、家を留守にすることの多い彼女が、それをウィゼルの相手として家に残しておくためだ。
「姉さん、帰ってくるのが遅くなったね。おしごと大変なのかな」
「心配?」
「ちょっとね」
国のための仕事をしているのだ、とだけ聞いている。王都から離れた町に暮らすウィゼルにとって、アニエスが働きに出る場所は天上の世界に等しい。
「大丈夫。ウィズが元気にしていれば、お姉ちゃんもすぐに戻ってくるよ」
「ほんとう?」
「本当。私はお姉ちゃんのことなら全部わかるもの」
表情は見えなくとも、声色は優しい。ほっと胸をなでおろし、ウィゼルはそうだと言って絵本を取り上げる。継力を魔法の力として扱う、文字の小さな絵本だった。意気揚々とその内容を読み上げながら、ふたりは閉じた世界に没頭していく――《アネット》のほんの慰めが、現実になるとは思いもしないで。
家の扉が開かれたのは昼を過ぎた頃だった。眩しいほどに照りつけていた太陽が翳り、曇天は雨の気配に怯えていた。ひとりぼんやりと窓の外を眺めていたウィゼルは、蹴りつけるようにして開かれた部屋の扉にびくりと体を震わせる。
「ウィズ、よく聞いて」
息を切らせて家に駆け込んだ姉を、胸のざわめきと共に見上げる。最寄りの駅からまっすぐに走ってきたのだろう、運動に縁のない顔には珍しく血の気がめぐっていた。
彼女の左手を辿ってはっと息を飲む。そこには幼い少女がひとり、無表情のまま立ち尽くしていたのだ。
捨てられた人形のようだった。焦点の合わない瞳、赤みの薄い頬。切り揃えられていない髪は長く、目元に暗い影を落としている。その表情とは裏腹に、小さな口だけが荒い呼吸をくり返していた。
「……姉さん、その子」
「ウィズ」
問いかけは許されなかった。唐突に肩を揺らされて、ウィゼルは呼吸を止めて姉を見上げる。
「あなたはこれから、彼女と一緒に逃げるの。家を出て、列車に乗って、パーセルまで」
決意をにじませた声を聞きながら、悟る。――姉は逃げてきたのだ。聡明であるはずの彼女が、怯えを抱くような何者かから。ごくりと唾を飲んだ弟に向けて、アニエスは小さくうなずいた。
「市長のソディックさんなら、きっとあなたたちを助けてくれる。いいわね、アニエス・レイからの言伝だと言ってこれを渡して」
小さな手に掴まされたのは、走り書きの手紙。ウィゼルの手を握りこんだ手は震えていた。
「……姉さん」
「あなたは賢い子だから。私と違って、よくものを考えられる子だから、大丈夫。市長さんの言うことを聞いて、その通りにしなさい。あとは私が……私が全部、終わらせておくから」
「姉さんっ!」
呼びかけなければ、消えてしまいそうだった。切迫したウィゼルの叫びにアニエスは薄く笑う。おもむろに伸ばされたその手に、気付けばウィゼルは抱きしめられていた。
――細い体だった。腕に力はなく、背に触れた指先は細かった。彼女を形作る皮を取り払えば、もうそこには弱々しい白骨しか残らないのではないだろうかと、おぼろげな不安さえ抱いていた。彼女を包む白衣からは消毒液の臭いがつんと香り、呆けていた頭から霞を払う。ともなれば、いよいよ胸を支配するのは途方もない怯えだった。
「姉さん、何があったの、その子は……その子は誰なの、ねえ!」
幾度問いかけようとも、答えはひとつとして帰らない。傍に佇む少女は睫毛を揺らすことさえしなかった。墓石を叩き続けているかのような空虚さに怯え、詰問の声は激しさを増す。
「姉さん……っ、答えてよ、姉さんったら!」
「ウィゼル」
酷く掠れた声。泉のような静けさをまとったそれが、ウィゼルの喉を凍らせた。
いつしか空は黒雲に覆われている。思い出したように屋根を叩いたのは雨粒だろうか。舞い降りた雨音は次第に町を静寂に閉じ込め、小さな家を世界から切り離す。耳を覆った雑音に紛れて、アニエスの声は消え入りそうに響いていた。
「どこへ行っても、ウォルターはきっと、私を逃がしてはくれない。いつかは必ず見つかってしまう……だったらもう、死んでしまうしかないんだわ」
「……ねえ、さん、」
恐る恐る、見上げた顔は苦悶に歪んでいる。ウィゼルの目を覆うように、アニエスは深く彼を抱き込み、ごめんなさい、と笑った。
「あなたたちだけは逃げて。身勝手な大人に、私なんかに、どうか狂わされないで。……そのための、これはわがまま。卑怯な私の、最後の手段」
――アネット。自らに似せた人工知能の名を呼ぶ、姉の声が聞こえた。
その名に反応し、部屋の隅に放置された継力端末が自動で立ち上がる。回路に過ぎない彼女が端末を離れる機会は、永遠に訪れないはずだった。
「自動起動設定、半日後。現在までの記憶データを消去。設定を初期化。所有者コードANNIES……」
ひとつひとつ、命令が下されるに従い、耳に心地よい駆動音が鳴り渡る。
家の扉が叩かれたのはその時だった。軒先から上がった怒声に視線を投げ、アニエスは唇の端を吊りあげる。胸元にある弟の頭をひと撫でして、告げた。
「――ウィズ。私のすることを、どうか。どうか決して、許さないでいて」