レナードは紺色の軍服に身を包んでいた。アネットに声をかけた男のものと比べ、袖口の階級章の線が少ない。過去に彼が軍属であった頃のものだろうかとアネットは考えたが、それを今の彼が着ている理由までは見当が付かなかった。
 ディオットと呼ばれた男が、険しい顔でレナードをふり返る。前々から彼と面識があるのだろう、その目には幾分か私的な恨みが込められているようだった。
「レイス大尉は」
「この場は俺に任せてくれるそうだ。……とりあえず銃を下ろしてやってくれないか? そいつらの生意気そうな顔、最後に見たときと何も変わりやしない。操られていないことは確かだから」
「……ちっ、あとでお前ともども取り調べにかけさせるからな。覚えておけよ、ヘルツ」
 ディオットは忌々しげにレナードをひと睨みし、ふたりに向けられた銃を下ろさせる。そのまま先の通りに正門の監視に戻った彼らを見送って、レナードはやれやれと肩をすくめた。
「子供が見つかったと聞いたから飛んできたんだ。感謝してもらいたいぐらいだな」
 俺に、と強調するのに苛立ちを覚える。アネットは彼をねめつけながら言葉を返した。
「爆風に吹き飛ばされたり、飛行機を凪ぎ払われたりしていなければ、今頃地面に頭をすりつけて感謝していたでしょうね。……ありがとうございました」
「きみは相変わらず可愛くないな。まあ、何事もなかったなら幸いだ」
 そう言って、大きな手をアネットの頭に置く。そのまま髪をかきまわすように撫でつけられた。あまりの鬱陶しさに払いのければ、からからと笑われる。どうやら心配をかけたらしいと気付いたのは、その手が離れてからだった。
 ウィゼルは面白くなさそうにため息をついて、「それで?」とレナードを仰いだ。「どうやってここを突き止めたんだよ。僕たちが攫われてから、まだ四日しか経ってないだろ」
「なんだ、気付いてなかったのか?」
「はあ?」
 思いきり顔をしかめるウィゼルの目の前に、レナードはまっすぐに指を突き立てる。その指先を彼の服の袖に下ろして、その陰にひっそりと取りつけられた継力機器を指し示した。ウィゼルはアネットに先立ってその使い道に気が付いたのだろう、げ、と声を漏らす。
「発信機……いつの間に」
「きみが寝苦しそうにしている間に。どうせまた勝手に出ていくだろうと思っていたからね。そうしたら案の定署を飛び出していくし、アネットの姿も見えないしで、捜索の手を回したらこれだ。駆けつけるのが遅れのはこっちの不手際だが」
 数日前には場所の特定が済んでいたのだろう。実際の突入までに時間がかかった理由は、差し向けられたのが軍人であったことを鑑みれば粗方の予想が付く。
「……軍が警察を引き止めたんですか。相手がウォルターだから?」
 問いかければ、レナードは眉を寄せる。無言がその答えに代わった。
 アネットは行き場のない憤りに唇を噛む――戦争はまだ、終わっていないのだ。パーセル争奪戦争の影で進められていた研究は、目につかない場所で今も粛々と続けられている。小さな火種であったとしても、些細なきっかけさえあればあっという間に燃え上がるだろう。軍はその火種を、躍起になって踏み消そうとしているのだ。
 突如大気をかき乱したエンジン音に、三人は揃って顔を上げた。爆破されたはずの飛行場から、数々の小型機が飛び発っては頭上を滑空する。そのうちの数機が煙幕を撒き散らし、青空を黒く染め上げた。レナードは右往左往するユークシア軍の機体を見上げて舌打ちをする。
「格納庫の予備か、用意のいい……!」
 煙幕を抜けだした小型機は、四方八方へと飛び去って行方を眩ませる。その後を軍機が追い縋ったが、彼らを見送ったレナードの顔色は暗かった。
「どれも囮だろうな。あれだけの騒ぎを起こしておいて、わざわざ空から逃げる必要もない」
「でも、出入り口はみんな封鎖しているんじゃ」
「空中が駄目、地上も駄目なら、土の下から逃げるだけだ。非常口の一つや二つあってもおかしくない。きっと今頃、奴はどこか遠くの飛行場から飛び去っているだろうさ」
 そう言ったレナードの緑の瞳が、日差しを覆った煙幕を映す。訪れるべくして訪れた不幸を見届けたかのように、その顔色は徐々に沈んでいった。
 くそ、と。押し殺した悪態が彼の口をつく。
「……こうなるのが嫌で、俺は軍を辞めたんじゃないのか」
 続いたのは独り言だったのだろう。レナードは自身の前髪をわし掴みにして、細い息を吐き出した。肺の奥底の鬱屈までも体外に押し出すかのように、長く、深く。もう一度上げられた彼の顔には、すでに陰りの痕跡は見当たらなかった。
「そう簡単に捕まるなら十年も追っていないか」
 ぼそりと言って、レナードは普段の穏やかな笑みを取り戻す。
「まあ、なんにせよ。アネット、ウィゼル、さっきも聞いた通り、きみたちは軍の取り調べにかけられるらしい」
 アネットらが身を固くしたのに気付いて、彼は、ああ、と首を振った。
「怯えなくてもいいさ。確かに面倒ではあるが、それだけだ。黙っていたことを包み隠さず話してくれるなら、あとは俺たちがなんとかする」
「なんとかって……」
 言いながら、拗ねた口調には無意識のうちに安堵が滲んだ。それには確かな答えを返さず、レナードは煙幕が薄れ始めた空を再び見上げる。そこに何かを見つけたのか、お、と声を上げた。整った顔がたちまち険しさを帯びる。
「……参ったな、大事になりすぎたか」
「大事?」
 顎で指されるままに顔を上げれば、空を悠々と泳いでいく飛空艇が目に入る。
 その機体に描かれているのは、ユークシアの国章をかたどる紫の文様だ。先に見た無骨な小型機に比べ、シルエットは滑らかで美しい。無論動力には継力を用いているのだろう、機体が空中を滑る様子にはわずかな重力も感じさせなかった。
 エスメルダ、とウィゼルが呟く。その目は信じられないものを映したかのように大きく見開かれていた。説明を求めて両脇に視線を向けたアネットに、レナードは乾いた笑いを返す。
「飛空艇エスメルダ。軍上層部の御用達だ。……とうとうお偉いさんが出てくるぞ」
 飛空艇は大きく円を描くようにして頭上を旋回し、ゆるやかに着陸する。遠くレナードの背後では、ディオットが顔をこわばらせたまま動きを止めていた。しばらくして機体の扉が開くと、一人の男が赤土に足を踏み下ろす。
 歳は五十を迎えるかというところだろう、きつく刻まれたしわには厳格さが滲んでいる。彼が身にまとっているのもまた、レナードらと同じユークシア国軍の軍服に違いなかった。しかしその肩には階級を示す肩章が吊り下げられており、立場の上下を知らしめる。
 彼は建物を、それから上空を、最後にレナードをその視界に収めて深く溜息をついた。
「……ヘルツ君。またきみかね」
「ええ、まあ。また、俺です」
 知人だろうか、と恐る恐る上げたアネットの視線が、男のそれとかち合う。思わず目を逸らしてしまってから、胸に緊張を感じた。男はふたつ瞬きをしてから、気だるげな声を発する。
「きみが関わる事件は、どうしてこうも面倒になるのかね」
「お言葉ですけど、パーヴェル大佐。それは俺がことを面倒にしているんじゃなくて、むしろ、面倒事にしか俺が関わらせてもらえないからじゃないかなー、と」
「うん?」
「ああいえ、……なんでも」
 やりづらい相手であるのだろう。そもそも軍属時代の上司にあたる相手だ。レナードがたじろいでいるのを横目に見つつ、アネットは無言を貫いていた。パーヴェルはレナードとふたりの子供を見比べて、まあいい、と嘆息する。
「面倒事なら王都に戻ってからにするとしよう、任務外のことをする気にはなれん」
「ああ、東方の監視でしたか」
「いや、一週間後の式典警護だ。王都の軍と警察だけで十分なはずが、最近の襲撃の被害はあまりにも大きかったそうじゃないか」
「……式典?」
 レナードが眉をひそめると、対するパーヴェルは瞠目する。
「聞いていないのか」
「まったく、なにも」
 パーヴェルは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべ、小さく唸った。
「国王陛下の即位一周年を記念したものらしいが。きみが知らないとなると、まさか軍だけで警備を行うつもりか。……ふむ、ならば今回は、そうゆったりとはしていられんらしいな」
 太陽がじっとりと熱を放つ。
 けぶり始めた空の彼方からは、絶え間ないエンジン音が響いていた。