「博士がお呼びです」
 唐突に告げられた一言で、四日と食事二度ぶんを数えた監禁生活には変化が訪れた。
 退屈な日々は少しずつ、けれど確実にアネットの精神を削っていた。新たな情報が得られることはないままの時間はひたすらに焦燥を煽り続けたのだ。
 アネットが閉じ込められている建造物の所有者、もしくは同じだけの権限を与えられているらしいウォルターは、どうやらほうぼうを忙しく飛び回っているようだった。くり返し鳴り響く飛行機の離陸音について鑑みれば、彼がそれに乗ってこの拠点を離れていることは察せられた。
「……ウォルターが帰ってきたの」
「はい」
 べたつく髪を耳にかけて体を起こせば、メリッサの冷然とした瞳が自分を見下ろしているのに気付く。そう、と呟いて立ち上がった。
「ご案内致します。反抗も逃走も無意味ですので、そのつもりで」
 そう言ったきり、メリッサはアネットに背を向ける。呆気なく隙を見せた彼女に、アネットは虚をつかれて固まった。
「わ、私に背中を向けていいの」
「護衛に必要なだけの技能は会得しています」
 にべもない言いようは自信の表れだった。
 ナタリーの指南を三月受けてきたとはいえ、自信が付いたわけでもない。メリッサの体術がミーティアやジャニスと同程度のものであるとすれば、下手に襲いかかったところで容易く組み伏せられるだけだろう。
 だが自分にはひとつだけ切り札がある。緊張に痺れる指先を握りこんで、アネットはメリッサを仰ぎ見た。
「私の、頭の中身が欲しいんでしょう。傷つけるようなことをするつもり」
 メリッサが鷹揚にふり返った。その表情に色は現れない。虚ろな暗がりを覗きこむのに似た不安に、アネットは身が竦むような感覚を覚えた。
「確認します、アネット。博士が欲するのはあなたの頭部、正確には中枢に埋め込まれた思考核。アニエス・レイの人格が搭載された継力装置のみです」
「……っ」
「認識の改めを要求します。あなたの体そのものには価値がない。器に過ぎないその体にどれだけの損傷が残ろうとも、博士の望みに違うことはありません」
 ウォルターが求めるものは、メリッサの体と、アネットの中身だけ。仮の思考核と仮の器に興味はないのだ。徹底していることだと顔をしかめてうなずいた。メリッサはそれを自分の指示への承諾と取ったのか、あっさりと会話を打ち切って先導を再開する。
 一度として上ったことのなかった階段に足をかけ、久方ぶりに地上へと顔を出した。薄雲を通したおぼろげな日差しでさえ、薄闇に慣れた目には十分すぎるほどの刺激になる。瞬きをくり返しながら歩くうちに、建造物のつくりは自然と頭に入ってきた。
 飛行機の離着陸時の強風を避けようと設計されたのだろう、大型の格納庫と滑走路に沿った建物に高さはない。代わりに地下へと伸ばされた階層には整然と小部屋が並び、それぞれに人の暮らす気配がある。アネットが留置されていたのはその一室のようだった。
「ここは何のための場所なの」
 目を眇めて問いを投げれば、メリッサは「軍事用です」と言葉を返す。
「パーセル争奪戦争中期に建造されたもので、現在は博士の所有下にあります。かつては捕虜の収容所として使用されていました」
「な……」
 ぞわり、と背筋が泡立つ。
 収容所。学校の講義で名だけは耳にしたことだけはある。戦時中には同様の建造物が多数建造され、戦争捕虜が端から放り込まれていった場所である、と。しかし終戦後、そのほとんどはユークシアとヴァルガスの両国によって取り壊されたと聞いている。捕虜輸送のための飛行場を残したままの収容所がこうして残存しているはずもない。
 ――何者かによって、意図的に隠されない限り。
 心臓を掴まれたかのような衝撃に足が止まる。それを察したメリッサはすぐにふり返り、「なにか」とひとつ瞬きをした。
「……今、ここには、誰が」
「誰、とは」
「こんな施設を使って、大勢の人を閉じ込めて、一体何を……、ううん」両掌を握り込んで、メリッサの無表情を睨みつける。「ウォルターは、まだ続けてるっていうの……ユークシアでの実験を!?」
 叩きつけながら確信する。抱いた想像は、真実だ。
 愚かだった、と思う。材料を与えられながら、答えに辿り着くのが遅すぎた。祝祭に沸いたユークシアを襲撃した一群、統率すらされていなかった殺人鬼の群れは、皆その脳内に別人格を埋め込まれた人間たちだったのだ。
 彼らを作りあげた男こそウォルターであり、ユークシア軍科学班の技術を身に付けた最後のひとりだった。単身ユークシアから逃れた彼は、十年の時を費やして戦力を蓄え続けていたのだ。いつか、祖国に牙を剥くために。
 アネットは奥歯を噛みしめる。緊張で喉はからからに渇いていた。
「……間違っているって、思わないの」
「仰る意味を理解しかねますが」
「っ、だから! 別人の心を植えつけて違う人間に仕立て上げようなんて、おかしいって思わないの!?」
 恐れを為したからこそ、軍部は研究を打ち切ったのではないのか。自ら研究に携わった彼らが、何故歯止めをかけることができなかったのか。声を荒げるアネットとは対照的に、メリッサの瞳は冷えて揺るぎない。
「おかしい、と、思う。……私はその感情を与えられていませんが、反駁は可能でしょう」
 アネット。
 そう、抑揚のない声が呼ばう名に怯えた。
「その主張を肯定するならば、あなたこそ、その生存を否定されてしかるべき存在ではありませんか」
「……なに、言って」
「《アネット》に生かされたその体は、脳内の機器を取り除けば自我を失い、呼吸をくり返すだけの屍となるでしょう。ゆえにあなたは《アネット》なくしては生きられない。その恩恵を享受しながら技術を否定するあなたに、自らの矛盾は見えていないのですか」
 当然が、音を立てて崩れていく。言葉を失ったアネットに追い打ちをかけるのは、背後から漂う生活の気配だった。
 彼らは名も知れぬ場所から引き連れられて、長くここに監禁されているのだろう。そうして数ヶ月、あるいは数年もの時間をかけて、徐々にその自我を溶かされていく。餌を与えられて命を繋ぐばかりの抜け殻と成り果てたところで、継力装置を埋め込まれ新たな人間として生まれ変わることになるのだ。
 歯が震えた。――彼らと自分は、同じだ。隔てる線引きはただひとつ、研究から解き放たれていたか、そうでないかの違いだけだった。
「う、」
 全身を押し潰そうとする嫌悪感に耐えきれず、アネットは口元を抑えてうずくまる。しかし高く床を踏み鳴らすメリッサの靴音に、否が応にも顔を上げさせられた。
「お立ちなさい、アネット。博士をお待たせするわけにはいきません」
「……なた、は」
 喉の奥の生唾で息苦しさを飲み下し、やっとのことで呼吸をする。
「あなたは、それでいいの。私の“これ”がウォルターの手に渡れば、あなたは……メリッサは、いなくなるんでしょう……?」
 言いながら、姑息な言い草だと考えていた。同情の形を取りながら、一度として彼女のことなど顧みていない。ならばその訴えが相手に届くはずもなかった。
 取り消そうと口を開きかけたとき、メリッサが息を吸う。
「だからなんだと言うのでしょう」
 それが、彼女の答えだった。
「私は博士によって生み出された思考。器の生存を維持し、博士を補佐するための人格です。あの方の望みを果たすべく機能することこそ私の存在意義、理由、そして望み。ゆえに私は、アニエス・レイがこの体に目覚めることを、喜び受け入れ、そして望んで消えてゆきましょう」
 滔々と口にするメリッサを、アネットは異質なものに相対するような心地で見つめていた。