人工知能
エンジンがうなりを上げる。
鼻をつく油の臭いと、背中に伝う微かな振動。プロペラが風を切れば羽音が轟く。飛行機だ、と思い当たるのは早かった。腑に落ちないのは、その離陸音が頭上から響いてくることだ。
アネットが恐る恐る目蓋を開いていくと、鉄で覆われただけの天井が目に飛び込んでくる。上半身を起こそうとして、全身の筋肉が凝り固まっていることに気付いた。どうやら敷布も無い床の上に長時間転がされていたらしい。
肩をもみほぐしながら視線を巡らせる。アネットが眠っていたのは、窓も家具も無い、簡素な小部屋の中だった。荷物が積み上がっていれば倉庫かと認識したであろうそこには、自分以外に人の姿が見当たらない。
「攫われ、た?」
頭を抱えながら記憶を辿るが、意識を失う直前のことはまるで曖昧だ。電源を落とされたかのように視界が暗くなって、それからのことは憶えていない。ただひとつ確かなのは、自分が眠っている間に、別の場所へと移動されていたということだけだった。
ドアノブを捻っても、当然鍵が掛けられている。監禁されていることを確認して溜息を漏らした。
攫われたのは自分だけではないだろう。よほどの間抜けでない限り、同じ場にいたウィゼルをみすみす逃がすようなことはしないはずだ。アネットもろとも誘拐されたか――もしくは、あのとき。
「……ううん、大丈夫」
降って沸いた嫌な予感を振り払う。どんなに根拠のない信頼でも、自分を支えるには十分だった。ウィゼルには能天気と常々馬鹿にされる性質ではあるが、いざというときに慌てないだけの度胸の裏返しだ。
体をくまなく検分して、異常のないことを確かめる。五体満足のまま攫わなければいけない理由があったのだろうと考えながら、注意深く座り込んだ。思いつくあてはふたつ――警察への人質としての価値、そして、頭に埋め込まれた継力装置だ。どちらにせよ、無傷で連れてきた以上はこのまま餓死させるようなことはしないだろう。
そう考えていたとき、前触れも無く扉の鍵が開かれる。流れた長髪は目に覚えのあるものだ。扉を開けた彼女は、アネットを視界に入れると青い双眸をわずかに細めた。
「お目覚めですか」
何の感慨もなくそう言って、食事を乗せたトレイを床に置く。
「食事は日に三度お運びします。外に見張りがおりますので、用を足すときは彼女をお呼びください。常時部屋の鍵をかけておきますので、無用な考えは起こさないように。何かご質問はございますか」
「あなた、ウォルターと一緒にいた……」
祝祭当日、確かに行動を共にしていたはずだ。暗い色の髪に青の瞳、どことなくウィゼルと似た風貌をした女性。印象は強かったのだから忘れようはずもない。
ウォルターによって取り押さえられた時は別の女性が付き従っていたが、彼女もまた配下のひとりなのだろう。女性はアネットの呟きに「はい」とうなずいた。
「メリッサと申します。博士の助手を務めています。質問が以上であれば、これで」
「ま、待って、ここはどこなの。どうしてこんなところに……。ウィズは、ウィゼルは無事なの?」
「どれにもお答えしかねますので、博士がお帰りになるのをお待ちください。それでは失礼致します」
「ちょっと」
取りつくしまも無く扉が閉められて、外から鍵が掛けられた。残されたのはパンとスープの皿が載った飾り気のないトレイだけだ。アネットの苛立ちを知ってか知らずか、その水面には小さな波紋が広がっている。
ああもう――! と叫んで、床を殴りつけた。
「勝手にもほどがある……!」
まったくもって人の話を聞かない。その場にいないウィゼルのことが思い出されて無性に腹が立った。誰も彼も、自分の言い分だけを伝えて従わせようとするのだ。困惑するのはいつも置き去りにされたアネットのほうだった。
怒りはふつふつと煮えたぎるが、差し出された食事に罪はない。粗末なパンをちぎって口に放り込むと、思い出したかのように腹が鳴った。トレイの中身をあらかた腹に収めたところで毒の可能性に思い当たったが、飲みこんでしまった今となってはもう遅い。気合を入れるように息を吐き出して立ち上がった。
「あの、誰か!」
扉を叩く。少し間があって女性が顔を出した。
茶の髪を肩に流した彼女にもやはり、感情らしいものは感じられない。アネットらを襲ったミーティアやジャニス、そして先ほど姿を見せたメリッサと、ウォルターに使える女性たちは誰もがみな虚ろな瞳をしていたのを思い出す。
まるで、同じ思考を全員の頭に落としこんだかのように、だ。
それを可能にするだけの技術が存在することを知っている。胸を重くするおぞましさに従って唇を閉ざした。
しかし扉を開けたまま動きを止めた女性は、不意の沈黙を不思議がるということも知らないらしい。何か、と見据えてくる彼女を無視することもできず、アネットは小さく息をついた。
「……お手洗いに行きたいので、連れて行ってください」
恥をかなぐり捨てて伝えると、こくりとうなずかれる。
「廊下を左へ。付き当たりの階段の横です」
「道案内はしてくれないの」
「あなたに背を向けるなとのご命令です。後ろにお付き添い致します」
ならばその主はウォルターか、メリッサか。答えの出ない問答を早々にあきらめて、アネットは部屋を出た。
可能な限り歩幅を狭く、足を進める速度は遅く。違和感を抱かれないならば好都合だ。周囲をうかがいながら歩いていると、断続的な振動が天井を震わせる。頭上で飛行機が離着陸を繰り返しているのだ。窓のない部屋や廊下から伺うに、アネットの閉じ込められていた部屋は地下に位置しているのだろう。
「質問、いいですか」
「お答えする権限を与えられていません。メリッサにお尋ねください」
あれ、と思う。
彼女たちはウォルターという頂点のもと、みな同列に並べられているとばかり思っていたが、どうやらその他にも明確な序列があるらしい。
祝祭での襲撃時、ミーティアやジャニスには自発的な行動が認められていたのを思い出す。それに比べ背後からアネットを監視し続ける彼女は、あらかじめ与えられた指示を機械的にくり返しているに過ぎない。
「それじゃあ、メリッサがあなたたちを指揮しているんですか」
「彼女は特殊ですので」
「特殊?」
「お教えする権限を与えられていません」
「……そう」
会話は元の場所へ戻ってきたが、得たものはあった。
ひとつ、ウォルターに使える彼女たちには上下関係があるということ。もうひとつは、メリッサにはある程度の自己判断が許可されているということだ。その理由は彼女の容貌にあるのだろうか、と考えて、アネットは自分の表情が曇るのを自覚する。
アニエスの遺体はどこにあるのかとウィゼルは問うた。それを《アネット》の器にと語ったのはウォルターだ。メリッサの外見にウィゼルと似たものを感じ取ったのが勘違いではないとすれば、その答えはおのずと導かれる。
すなわちメリッサこそ――彼女の宿った肉体こそが、十年前に消えたアニエス・レイの体ということ。命と心を失った、笑わぬ器だということだ。
扉の前に立ち止まり、アネットは手のひらに爪を食いこませる。
「……そんなの」
馬鹿げている。作りものの思考を埋め込んで、死んだ誰かを蘇らせようなどと。
行き場のない思いを抱えて背後の女性をふり返っても、ガラス玉のような瞳がそこにあるだけだ。唇を震わせて、アネットは首を振る。
「もういいです」
「いい、とは?」
「お手洗い、行きたくなくなりました。戻ります」
他人の心情を推し量ることも知らないのだろう。女性は「了解しました」とだけ答えて、再びアネットの背中に立った。