「……っ」
 ぎり、と奥歯を噛みしめ、ウィゼルはアネットの襟首を掴み上げる。そのまま均衡を崩し、二人でもんどりうって地面に転がった。仰向けになったままのアネットにのしかかり、ウィゼルは今度こそ細い首元に手をかける。
 喉の奥の異物感に咳きこめば、抑えつける彼の親指にはより力がこもった。
「ウィ……ズ、」
 気道を圧迫する指先が震えていた。あと少し、ほんの少しでも力がかかれば、アネットは完全に呼吸を放棄しなければならなくなるのだろう。だというのにウィゼルはその一歩を踏み出そうとしない。
 このままでは、苦しいだけだ。
 は、と吐き出した荒い息はウィゼルのものだった。ぐずぐずに歪んだ顔をアネットの眼前に晒したまま、彼は歯を食いしばって声をこらえようとする。
 アネットはきつく眉を寄せた。意地っ張りな彼の、泣き顔だけが思い出せない。たくさんの記憶を詰め込んできたはずの頭は、大事なことばかりを取り落としてしまっている。
「……やだ、よ」
 掠れた声を吐く。じわじわと薄くなる肺の中の呼吸が尽きれば、どんなに彼の力が弱くとも、自分の命は尽きるのだろう。もしもそれを彼が望むなら――自分の死が彼の背負った重みを消してしまえるのなら、それでもいいと考えていた。だが、こぼれそうなほどの痛みを抱えたその顔が、人を殺そうとする人間の浮かべる表情であるものか。
 ――後悔するに決まっている。
 ここでアネットを失えば、彼は必ず後悔する。奪った命の重みを抱えて這いずるように生きていくことになる。そんな未来だけは、訪れてはならない。
「死に、たく、な……、ウィ」
「……っるさい、うるさいうるさいうるさい! 黙れよ、もう黙ってろよアネット!」
 伸びたきりの爪が皮膚を裂き、熱を帯びた血を滲ませる。指先がじわりとそれに染まっても、ウィゼルは唇をわなつかせるだけだった。
「お前はいなかったんだろ、最初から、僕の前に現れるずっと前から、もうお前は死んでどこにもいなかったんだろう!? 《アネット》を受け入れて、もう元のお前なんか消えてなくなったくせに! 同じ……同じ笑い方で、姉さんと同じ喋り方で! なんでお前は、姉さんと違うことを言うんだよ!!」
 勢いを増す言葉とは裏腹に、ウィゼルの手からは次第に力が抜けてゆく。気道を押し付けていた指が首に触れるだけに変わり、ついにそこに乗せられるだけに落ち着いたころ、代わりにぼとりと涙が落ちた。
「……なんで……っ」
 うるさいほどに鳴り響き、頭までもを揺らそうとする心拍は、果たしてどちらのものだったのだろう。眼前に揺れた青の瞳は水気に揺らぎ、戸惑いと悲哀をその雫に溶かしこむ。
 ウィゼルはしがみつくようにアネットの首元へと頭を沈めて、小さな嗚咽を漏らした。
「違う、はずなのに。邪魔でしかないはずなのに……どうしてきみは、いなくなってくれないんだよ……」
 その優しさを、誰かが甘さと呼んだ。
 身近なものをも切り捨てて、ウォルターひとりを追いかけていけるだけの非情さを持ち得たなら、あるいはウィゼルも楽になれたのだろう。しかし彼の優しさはそれを許さなかった。幼くして抱いた復讐心に鈍りを加える要因を、知らぬ間に抱えこんでしまった。――姉に似せられた子供を、いつまでも傍らに置いてしまったように。
 ああ、そうだ。遅れて舞い降りた理解を受け取って、アネットは吐息を漏らす。
 自分が誰なのか、などと、問いかけを続けたところで答えの出るはずのないことを迷う必要はなかった。なぜなら自分の中には最初から、明確な答えがあったのだから。
 だからこそ待ち続けたのだろう。
 だからこそ追い縋ったのだろう。
 だからこそ、こうして。
「ウィズ」と呼びかける。赤子のように肩を震わせた少年が、ほんの少しだけ顔を上げてアネットを見た。
 虚勢も激情も洗い流されてしまえば、その顔面は澄んだ湖面のように無垢だ。何もかも取り払って、水底へと手を伸ばせば、彼の心に触れられるだろうか。
 ゆっくりと腕を上げる。触れた頬は冷えていた。
「一緒に、いたいよ」
 ほどけるように笑った。そうしてアネットが望むことは、ただひとつだけ。
「探したんだよ。やっとあなたを見つけたの。……だからお願い、ウィズが私を嫌いになるまで、邪魔に感じるまででいいから。私にウィズの“隣”をちょうだい」
「アネッ、ト」
 呆けた声が響いた。彼の瞳に自分ひとりが映っていることに、アネットはひそかな充足感を覚えて息をつく。
「そうだよ、ウィズ。私はアネット」
 だってあなたがそう呼んだ。この身を支えるだけの名を、託すための柱をくれた。
「アニエス・レイじゃない、アネット・レイでなくてもいい。私はアネット、あなたの」言葉に詰まって、少し遅れてはにかんだ。「あなたのことが好きな、ただの女の子なんだ」
 十分な間があった。
 湖面のような瞳が揺らぐ。呼吸すらも止めていたウィゼルが、そこでようやく動揺を露わにした。
「……な、に、言って……っ」
 片言で漏らして、至近距離にまで近づいた顔にようやく気付いたらしい。飛びのくようにアネットから離れようとして、体重を支えきれず後ろに転がった。耳に痛い衝突音が聞こえ、彼が小さな声でうめく。
 重石のなくなったアネットが立ち上がると、頬を真っ赤に染めた少年の目が彼女の顔を追う。言葉が出て来ないのか、本来饒舌なはずの口は今や、完全にその精彩を欠いていた。
「ばっ、馬鹿、馬鹿アネット、馬鹿じゃないの、なんだってそんな」
「ウィズは慌てるとそれしか言わない……」
「うるさいな!」
 続けて文句を吐き出しかけた彼の前に、アネットが手を突き出す。それだけで反射的に黙ってしまったウィゼルは、悔しそうに唇を引き締めたまま彼女をねめつけた。
 その反応に思わず頬が緩む。諦めきった表情より、そのほうがずっと彼らしかった。
「あなたが苦しめられたもの、許せないもの、全部教えて。まだ力にはなれないかもしれないけど……なろうとすることなら、できると思う」
 もう恐れるものはない。自分を見失おうとも、彼の傍にいることを選べたのだから。
 ウィゼルは無言でうつむいて、首を振る。「きみって」とこぼした声には微かな呆れが混じっていた。
「……きみって、本当、馬鹿だよ」
 長いためらいのあとに、ウィゼルがぎこちなく腕を伸ばす。その手のひらをアネットは絡め取った。骨ばった指先に力が込められるのを待って引き上げると、彼がしかめ面で立ち上がる。
 ――やっと捕まえた。繋ぎ合う手の中に確かな温もりを感じて、それを逃がさないようにと握りしめる。ウィゼルはばつが悪そうに、けれども手を振り払うことはしないままで余所を向いていた。その耳の先がうっすらと染まっているのを、見逃してやるつもりなど毛頭ない。
「照れてる」
「うるさいよ」
「……手を出したのはウィズのほうが先なのに」
「あ、あれは、――っ!?」
 声を上ずらせたウィゼルがふり返る。しかしその視線はアネットを通り過ぎ、頭上へと流れた。青い瞳の中を闇が走って、彼は口を開いたまま瞠目する。

 ばちん、と、音を聞いた。理由を考える間もなかった。

 スイッチを切ったかのようなその音を最後に、アネットの意識は唐突に、闇の底へと転がり落ちていく。
 地に倒れ伏す前に耳にしたのは、姉さん、というか細い声だった。


     *


 青白く冴えた月が、嘲笑うように眼下を照らしている。
「……ねえ、さん、」
 闇に紛れる髪。細身の体に、暗い青の瞳。化粧気のない肌は不健康そうなほどに白い。継力灯の光を受けウィゼルへと影を落とした女性は、記憶の中にある姉と同じ姿をしていた。
 かちり、と音を立てて前歯がかちあう。それを聞いて初めて、自分が震えていることに気付いた。
「いいえ」
 女性が言う。油断なく周囲にめぐらされた眼差しに感情の色はなかった。
「私はアニエス・レイではありません。ウォルター・グライド、博士に人格を与えられたただの器。仮の名はメリッサ」
 やめろ、と呟いていた。本能的に感じ取った女性の言葉への恐怖が、ウィゼルに耳を塞がせようとする。
 彼女がひとつ瞬きをすると、無機質な瞳の中には怯えた少年の姿が映っていた。ふらつきながら一歩を後ずさって、小さく首を振る。――その拒否が届かないことを知りながら。

「アニエス・レイの思考は、もう、死にました」

 糸が、切れる。
 縋っていた、希望という名の糸が。