アニエス・レイ。
 彼女は若くして軍部の科学班に勤める科学者だった。思考継力化計画に携わる研究班に配属され、以降はその優秀な継力知識をもって班に貢献するようになったという。彼女ら研究員の尽力により、人間に継力装置を埋め込む研究はついに実用的な段階にまで辿りついた。
 しかし戦争終了後しばらくして、その計画は唐突に、中止を命ぜられることになる。
「とかげの尻尾切りだよ」小馬鹿にするように言って、レナードは鼻で笑う。「やり過ぎたことにようやく気付いたんだ。……幸いなことに、研究はまだ表面化していなかった。軍は全てを隠蔽するために、携わっていた研究員を一人残らず検挙して終わらせようとしたんだ。それが十年前」
「十年前……」
 その口調に苦々しさが混じるのを聞きながら、かつて彼が軍に配属されていたというニールの話を思い出していた。十年前の事件、とレナード自身が呼ばわったそれは、もはや遠い他人の昔話ではないのだ。長い月日を越えて、彼は真相を追い続けてきたのだろう。
「ウォルターは研究員のひとりだった。軍の手をかいくぐって、ただひとり逃げ伸びたんだ。……だから俺は奴を追ってきた。十年前から、ずっと」
 戦時下から続けられた計画、ウォルターを追うウィゼル、そして事件のあらましを知るレナード――アニエス・レイの名が、彼らを繋いでいく。目の眩むような錯覚にアネットは黙りこんだ。レナードは彼女を一瞥したきり、いたわる様子も見せずに言葉を継ぐ。
「アニエスはそこにいなかった。いられるはずがなかったんだ。その一年前にはもう、彼女はすでに行方知れずになっていたからな」
「……行方知れず? どうして」
「どうして、ね。……俺はそれをきみに訊こうとしたんだ。その様子じゃあ、どうやら空回りらしいが」
「そんなこと、私が知るわけが」
 アネットはじれったさに眉を寄せる。
 一般市民としての自分の身の上を、アネットは何ひとつ疑うこともしなかった。他界した両親、ふたりきりの姉弟、暮らしはそれでも平凡であるはずだった。彼の言うような事件の真相など知るはずもない。知っているとするなら、それは残されたアニエスの血縁であるウィゼル一人だけだ。
 アネットは冷気にかじかんだ両の手の指をからめ、ならば、と思う。――ならばやはり、自分は本来、彼の傍にあるはずの人間ではなかったのだ。信じ込んできた姉としての立場は、別の女性のために与えられたものだった。薄く唇を噛んで、吐息を漏らす。
「私の中に、アニエスさんがいるって。ウィズも、……ウォルターも、言っていました」
 他人事のような口調になったことを、否定できなかった。
 ゆっくりと一度、瞬きをしたレナードの表情に、揶揄する色がないことがせめてもの救いだった。喉の奥に溜まった唾を飲み込み、アネットは再度口を開く。
「アネット。それが私の名前なのか、私の中にある機械の名前なのか、もう分からないんです。……あなたたちの言うことが本当なら、それじゃあ、全部、作り物だったって言うんですか。私が信じていたものも、行ってきたことも、今こうして悩んで、考えているのも。私じゃなくて……私の中にある、アニエスさんの思考が生みだしたものなんですか」
 レナードは眉をひそめ、息をつく。
「今の話を、きみは信じるんだな」
「――っ、信じたくなくたって、信じるしかないんでしょう!?」
 否定された。アネットでいること。自分として考えたこと、行ってきたことの全てを、目の前で破り捨てられ、他人のものだと告げられたのだ――誰よりも、信じていた相手に。どれだけ納得を拒んだとしても、彼らに与えられた可能性の他に、辻褄の合う真実が見つからない。ならば受け入れるしかないのだ。それが、自分の存在そのものを覆すことになろうとも。
「私は知らない、何も知らなかった! それなのに、私が生きてきたことなんて、自分ひとりでどう証明しろっていうんですか……!」
 見上げた青年の顔には、冷淡と嫌悪とがない交ぜになって浮かんでいる。その口が吐き出す言葉が自分に優しいものでないことは、火を見るより明らかだった。アネットは追及を遮るように踵を返すと、下ってきたばかりの階段を駆け上る。
 荒い呼吸に意識を向けても、つきまとう不安は消えてくれない。何もかも忘れ去ってしまおうとしたところで自分の頭はそれを許さないだろう。掌に爪を突き立てながら、アネットは元来た場所へ戻るべくがむしゃらに足を動かす。しかしウィゼルの寝かされた部屋の前で、はたとして立ち止まった。
「開いてる……?」
 部屋を出る際は、確かに扉を閉めたはずだった。不自然に開かれたそれを見つめ、アネットは沸き上がった焦燥に駆られて部屋に目を走らせる。
 中はもぬけの殻だ。ご丁寧に畳まれた毛布を見るなり、正門へと足を向けた。
 容赦のない暴力を受けた体はまだ本調子ではないのだろう。継力灯の照らす署内から夜の闇の中に体を躍らせたところで、遠方でふらつきながら歩を進めるウィゼルの姿を捉えた。アネットの靴音は静かな街並みに高く響き、彼の足を止まらせる。
 ふり向いた表情には、とげとげしさが浮かんでいた。
「なに」
 問いかけこそすれ、答えは期待していないのだろう。
 言葉を尽くして引き止めたところで、二言三言で切り捨てて背を向けようとする意志がうかがえる。彼の前で立ち止まったきりアネットが何も言えずにいると、ウィゼルはやりづらそうに目を逸らした。
「……酷い顔。あの警官に何か言われたんだろ」
「ウィズの、お姉さんのこと……あと、研究のこと」
 唇が震えたのを隠すこともできなかった。ウィゼルはアネットをちらと見るも、頑なに目を合わせようとはしない。ややあって小さく首を振った。
「そんな顔するぐらいなら聞かなきゃよかったんだ。馬鹿なアネット」
 知らないままでいればいいのに。そう続けて口ごもる。そこには言葉を返してしまったことを悔やむ様子があった。
 街路を吹く風は冷えており、継力灯に照らされた足元はかえってよそよそしさを醸し出す。その中で黙りこんでしまえば、再び会話を切り出すことは困難だった。胸を締め付けるような沈黙に耐えかねて、ウィゼルは小さく息をつく。
「それでも知りたいんだろ」
 問いにうなずきを返せば、彼は痛みをこらえるように唇を噛んだ。
 やがてゆるゆると目蓋を落とす。それは、彼が心を決めるまでの時間であったのだろう。
「……きみの中にあるもの、あるいはきみ自身――《アネット》という人格は、姉さんが、自分を元に作り出したものだった」
「アニエスさん、が」
 相槌代わりに呟くと、ウィゼルはまばたきでそれに応じる。
「姉さんは研究の技術で《アネット》を作って、そのデータだけをずっと家に保管していた。ことが起こったのは十年前だ。姉さんは被験体――どこの子供かもわからないきみを連れて、研究室から逃げてきた」
 十年前。正しくは、十年と少し前のことだ。レナードの語った軍部の突入時には、アニエスはすでにそこにはいなかったのだから。
「きみにはもう自我が無かった。無理に腕を引かれなきゃ、走ることすらできない子供だったんだ。姉さんはきみと僕を追手――実験に携わっていた奴らから逃がすために、《アネット》をきみの中に埋め込んだ。……狂人の人格を埋め込まれるぐらいなら、ってね」
 実験体として選ばれたのは自我の弱い人間、もしくは思考能力を失った人間だった。そうでなければ新たに埋め込む人格との拒絶反応を起こす可能性があるためだ。書類の内容を思い出し、アネットは彼の言葉に嘘のないことを悟る。
 アニエスが作った人格《アネット》を埋め込まれた名も心も無い少女――それが本来の自分なのだ、と。
「……ずっと、気が付かなかったんだね」
 渇いた微笑に自嘲がこもった。まるで滑稽な喜劇だ。自分が操られていることも知らず、舞台の上で踊り続ける人形。真実を知ったところで体を吊る糸が切れることはなく、自らを生きるためには、その意図を操り手に託すしかないのだ。
 姉でありたいと思うのも、家族でありたいと思うのも、みな他人に与えられた想いだった。ならばこれから知るべき感情も、あらかじめ予定されたものであるのだろう。過去も、未来も、初めから決められていたなら――ならば、アネットという存在は。
「私、は」

 どこにも、

「いなかったんだね――最初から」