祝祭の日を狂乱の渦に陥れた事件は、百に届こうかという死者を生み出したという。
 怪我人は五百人を越えて余りある。ともなれば無論ユークシア以外の民にも犠牲者は多く、追って王家からの通達が出される予定になっていた。しかし捕らえられた襲撃者たちは誰も彼もが自ら命を絶ち、そもそも存在するかすらも不明な指導者の情報は得られずじまいで、時間ばかりが過ぎていった。
 王城や軍、警察の本部には、説明を求める山のような民衆が詰めかけたという。意味を為さないひととおりの問答を終え、喪失の静寂が王都を包んだのは、その日の深夜になってからのことだった。
 後ろ手に小部屋の扉を閉めて、アネットは深い溜め息と共にうずくまる。体に力が入らず、両腕で膝を抱え込んでしまえば、尻はいとも簡単に床に落ちた。
 ――ウィゼルは目覚めない。見る者の顔を歪ませるような痛々しい打撲痕は、今もその身に残されたまま薄れもしない。うなされていた様子の彼がようやく落ち着いたのを見はからって、アネットはそっと部屋を抜けだしてきたのだ。
 疲弊のせいか、思考は常闇へと沈みゆこうとする。引き戻したのは固い足音だった。
「アネット」
 声が降る。なんですかと答え、顔をのぞき込もうとする視線を避けて横を向いた。声の主――レナードは困り果てたように息をつく。
「その様子じゃ無理か」
「ウィズなら起きません。話がしたくても、しばらくは無理でしょうね」
「彼じゃない、きみだ。尋ねたいことがいくつかあるんでな」
「……私に何を訊こうっていうんですか。ウィズのこと、自分自身のこと、何も知らなかったっていうのに……知りたいのは、こっちの方だっていうのに?」
「それはあとで彼に訊く、が」
 手が降りてくる。硬い皮膚に覆われた指が顔に触れる、と思った瞬間、思わぬ力で上を向かされた。アネットの下あごに指を掛け、それを鞄でも引き上げるかのような手荒さで扱った彼は、目が合った途端に歯が見えんばかりに笑んでみせる。
「今はきみだ。見せたいものもある」
 束の間、アネットは放心して彼を見上げていた。しかしはっと我に返るとその手を払いのけて、返事の代わりにきつい視線を投げる。レナードが肩をすくめた。
「負けん気を起こすだけの気力があれば十分だ。ついておいで」
「ちょっと」
 聞く耳も持たない。あっという間に遠ざかってしまったレナードを追って、アネットは廊下を踏みしめる。上手く釣られたと思ったのは彼の背中に追いついてからのことだった。
 陰へ、陰へ。日常に用いる通路を避けて進むうちに、空気は濁りを含んで重くなる。無言のまま足音だけを響かせ、二人が行き着いたのは幅の狭い階段だった。レナードは確認するようにアネットを一瞥し、先立ってそれを下っていく。
 大した長さではないだろうというアネットの推定は早々に裏切られた。果てがないのではと疑念を抱くほどに、階段は深くまで続いていたのだ。
「どこまで降りるんですか」
「さあ、どこまでだと思う?」
 からかわれている。そう理解した瞬間に腹が立った。
「……私、レナードさんのそういうところが嫌いです」
「結構、俺も嫌いだ」
 さらりと言って、彼は微かに笑い声を立てる。
「ただ、大人になるとこういうやり方ばかり上手くなる。だから真似をしてもらいたくないわけだ。こんな、何枚も虚構を塗り重ねて、本音を覆い隠すような小狡い方法はね」
「……何が言いたいんです?」
「何がもなにも、言ったとおりだ。だから彼は惑うんだろう、自分が見えなくなるから。そういうやり方は大人だけがしていればいい。きみたちのような子供にまで同じことをされては、俺たちの行き場がなくなるんでね」
 知らず知らずのうちに眉間にしわが寄る。レナードの背中を穴が空くほどにに睨みつけても、けろりとした顔でいるであろうことが癪だった。
「何をしても子供ですか。……たとえ人を殺しても?」
 ちらついたのは復讐を語った少年の顔だ。
 ウォルターと相対したとき、もし彼が継力銃を抜くことができていたら。引き金に指をかけられていたなら、その銃弾は男の頭を貫いていたのだろうか。背後からの探るようなアネットの目に気付いたわけでもないだろうが、レナードの背中には溜息の気配が滲んだ。
「それが過ちだと理解しているうちはね」一呼吸おいて、「もしくは、理解することができないうちもだ」と言葉を継ぐ。
「意味が」
「麻痺するのさ、何度も繰り返すと」
 二人ぶんの足音が消えた。動きを止めたレナードの肩越しに覗いた階段の奥には、底の知れない暗闇が広がる。耳の痛くなるような沈黙を、彼は苦笑で振り払った。
「最初は罪の意識だったものがだんだん義務に変わって、いつかは惰性に成り果てる。そうやって出来ていくんだ。きみたちの許せない大人ってやつが」
「…………大人」
 風の音が聞こえた気がした。ナシュバの花の幻光が蘇り、アネットのまなうらに憎悪に歪んだ少年の顔を映し出す。引き結ばれた彼の唇が、積もって凝り固まった怨恨を紡いだ。
 ――改心なんかさせない。殺すんだ。僕が、この手で。
 アネットは思わず唇を噛んだ。他愛のない話をしたなとレナードは言って、以来二人は口を閉ざした。再度歩みを進め、やっとのことで最下層に足を踏み下ろす。階段とは打って変わって短い廊下を抜け、無骨な扉の前に行き着いた。ここは、と問うアネットに、レナードはおもむろに道を譲る。
 鬼が出るか蛇が出るか、だ。錆びたドアノブをひねる。軋んだ音を立てて扉が開き、部屋の空気が緩やかに外気へ溶け込んだ。つんとする消毒液の臭いにアネットは眉をひそめる。息を詰めて、扉を奥へと押し開いた。
 広がっていたのは、おびただしい数の実験器具が並べられた大部屋だ。
 起動させれば幾重もの数列を浮かび上がらせるのであろうディスプレイの設置された情報機器も、壁に取り付けられた棚に陳列する精密作業用の道具も、どれもが皆埃をかぶって遠い年月を思わせる。奥に設置された診療台は、ひときわアネットの目を引いた。
「ここは?」
「見ての通りだ。ここでなにが行われていたかぐらい、きみなら想像がつくんじゃないか」
 レナードは棚から資料を引き出すと、一枚一枚を読みとばしながら慣れた手つきでめくっていく。その内容はすでに知っているのだろうと見て取れたのは、彼の目が文章を追っていないからだ。彼はそうして行き付いた一枚の資料を引き抜き、アネットに寄越す。
 実験報告書。最初に目に飛び込んできたのは、一続きの文字列だった。
 日付は十年以上前のものだ。記憶と照らし合わせれば、パーセル争奪戦争時のものだと思い当たるのも容易だった。一言一句も取り落とすまいと報告書にかじりついたアネットをよそに、レナードは部屋の中を横切っていく。
「戦争終了間際の計画だ。警察本部に場所を置いてはいるが、統括していたのは軍の科学班だった。一向に投降しないヴァルガスにユークシア側が焦れていた頃に、ここでの研究が始められたらしい」
「……これ、」
 資料を読み終えたアネットは、その端にしわが寄っていることを見て初めて、紙切れを握った自分の手に力がこもっていたことに気付く。じっとりと濡れた手のひらは不快だった。なりをひそめていた心臓が、顔を上げた途端に鼓動を刻み出す。
「ユークシアが思いついたのは、一般市民を兵士に変える方法だった」
 力に屈しないヴァルガスを、より強大な力でねじ伏せることを目的とした研究だった。その果てに彼の国が滅びようとも、ユークシアは長引いた戦争の終結を迎えねればならなかったのだ。
「人工的に人間の思考をつくり上げ、継力機器に移して、別の人間の頭に埋め込む。そうすれば簡単に新たな人格を持つ人間が生まれる。便利なものだろう? 子供に殺人鬼の思考を埋め込めば、小さな殺し屋の誕生ってわけだ」
 用いられる“材料”は捕虜とされたヴァルガスの民。研究は歯止めを知らないままで進められていったが、その計画に背徳を覚えたのは、彼らに目的を与えた軍部のほうだった。
 直後、ユークシア王家が和平宣言を発表。
 後ろ暗い研究は日の目を見ることもなく、戦争が終結した。
「だが」レナードはアネットから報告書を取り上げる。資料の束が元の場所に戻され、壁を叩く音はやけに高く響いた。「研究は水面下で続けられていた。戦争の終わる頃にはもう、人体実験が始めらていたらしいな」
 材料は豊富だった。幾千をも数える捕虜たちから、自我の弱い者が引き抜かれてはここへ連れて来られたという。レナードは棚を背にして向き直り、呆然と自分を見上げるアネットに目を細めてみせる。
「その研究員の中に、彼女がいた」
「……アニエス」
 考えるまでもない。アネットがうつむけば、いやに優しい声が言った。
「そう、アニエス・レイ――ウィゼル君の、本物のお姉さんだ」