息を飲むのと、足を払われるのが同時だった。
瞬く間に地面に這いつくばらされたアネットとウィゼルは、状況を理解する暇も与えられないままに正反対の方向へと蹴り飛ばされる。転がりながら視界の端に捕らえたのは、髪を束ねた女性の姿だ。腕を抑えられ、身動きを封じられるその時に至るまで、彼女はその気配を感じさせなかった。
「捕獲完了しました。気絶させますか」
彼女は感情のこもらない声で言い、空いた手をアネットの首筋に添える。
「確認が先だ。捕らえておきなさい」
「はい、博士」
「……さて。そちらは、アニエスの弟君で間違いないな」
アネットとウィゼルの視界を隔てる、長身痩躯の男。猫背ぎみの姿勢はくぐもった声と相まって亡霊を思わせる。彼女たちを捕獲し、隙もなく地面に縫いとめているのは、共に氷のような静謐さを纏った二人の女性だった。
ざり、と土ぼこりのこすれる音が聞こえる。歯を食いしばって顔を上げたウィゼルが、男の顔をきつく睨み据えたのだ。
「ウォルター・グライド、お前――!」
「私の名をご存知か。嬉しいことだ」
「忘れるもんか、お前が……お前が姉さんをっ!」
「アニエスを? 私が彼女に何をしたというのだね」
暴れるような衣ずれの音が耳朶を叩き、続いて小さなうめき声が漏れた。女性によって地面に抑え込まれたウィゼルが、苦しげに息を吐く。
「し、しらばっくれるな! 姉さんを……姉さんの遺体をどこへやった!?」
ウィゼルの追及に、ウォルターはしばし考え込む様子を見せる。その沈黙はしかし、少年を追い詰めているかのようでもあった。
――何が、起こっているのだろう。無抵抗のままでアネットは頭上を見上げていた。
アニエスと呼ばれる女性を、ウィゼルは姉と呼ぶ。アネットの知らない他人を。信じることを拒む心はアネットを錯乱させた。ウォルター・グライド、ウィゼルの復讐の相手であるという男が、一体彼に何をしたというのだ。
「遺体か、ふふ」ウォルターが詩の一節をそらんずるかのように呟く。陶酔の混じった声色に、ぞわりとアネットの背筋が泡立った。「愛する弟君にさえ見放されるとは。なんとも哀れで、愚かしくも薄幸なアニエス。あれにはやはり、私がいてやらねばならん」
「なにを」
「死は終わりか。命の終着か。なるほど心は露と消えるだろう、思考もまたしかりだ。ならばその体こそ、真に器たりえるものではないか?」
静まり返った無音が空気を包む。響いた小さな物音は、ウィゼルの歯が震えてかち合った音だった。
「……まさか、姉さん、も」
「弟君。あなたも私も、彼女を愛する気持ちは同じだ。なに、寂しがることはない。もうすぐ会える。彼女は帰ってくる。……ああ、十年。長い月日だった。ようやく辿りついたのだ。私が欲しいのはアネット――彼女の中に眠る心。それさえあれば、アニエスはまた微笑みを取り戻すだろう」
ウォルターは体を反転させ、それまで視界の外にいたはずのアネットに微笑みかける。表情に映る恍惚が彼の狂気をちらつかせ、アネットの頭に警鐘を鳴らした。しかしいくら自分を急かそうとも、腕を封じこまれては、転がって距離を取ることさえ叶わない。
膝をつく姿は騎士のようだった。
ここに祈りを与える聖女はいない。無様に抑えつけられた少女がひとり、怯えと共にあるだけだ。ならば彼が跪く相手は、器と称されたアネットではない。
「私と共に来なさい。《アネット》、その心、正しくあるべき体に戻して差しあげよう」
「正しく、あるべき」
「その通り」
骨ばった手がアネットの頭を撫ぜた。温かみの感じられない指先はひび割れ、固くざらついている。それとは打って変わって、くり返し、くり返し、犬の毛に指を滑らせるような手つきはこれ以上ないほどに優しかった。
「その体はあなたには窮屈だろう。先ほどはすまなかった、確かに、あなたにとっても彼は弟君だ。もう勘違いなど起こさぬように、……そう、正しく、アニエス」
「……っ、やめろ、アネットに触るな!」
切羽詰まった声がウォルターの手を止める。瞬く間に表情を削ぎ落した彼は、「ミーティア」と名を呼んだ。
「はい、博士」
抑揚のない声で返事をしたのはウィゼルを捕らえた短髪の女性だ。直後、腹のうちにくぐもった打撲音と、噛み殺した悲鳴がアネットの耳に届く。
二度、三度と蹴り飛ばされ、煉瓦の上を転がされたウィゼルが、しかし怒りだけは瞳にぎらつかせたまま、継力銃を引き抜こうとする。その手を踏みつけられ、再び地面に縫いつけられた彼にはもう、抵抗する気力までは残っていないようだった。
「弟君、あなたは姉君との再会よりもこの体の存続を望むと? 残念だ、本当に残念だ。残された者の気持ちを、あなたなら理解できると思っていたが」
「りか、い、だって?」はっ、と笑い飛ばした吐息には、痰が絡んで掠れた声が混じる。「理解していないのは……お前の方だ、ウォルター。お前は何ひとつ理解しちゃいない。姉さんの、望んだこと、何も」
「望んだこと? ――ならば決まっている、アニエスは世界を憎んだ。この祖国、ユークシアを! それが分かれば十分ではないか。私は彼女を愛し、彼女もまた私を愛した。ならば彼女の望みを叶え、再び蘇らせてやることこそ私の務めだろう?」
「小汚い……妄想で、姉さんを語るな。反吐が出る――ぐっ」
「ウィズ――!?」
ウィゼルが言いきった途端に、反動をつけた足が彼の腹を蹴りつけた。肺が圧迫されたのか、苦しげに咳き込んで倒れ伏す。やがてそれは引きつったあえぎ声に変わり、彼はついにぴくりとも動かなくなった。
「申し訳ありません」
ミーティアが呟いて、ウォルターに目礼する。「独断で制裁を加えました」
「いや、いい。メリッサのいない今、きみたちには彼女と同程度の自己判断が求められる。……さて《アネット》、邪魔が入ったな、再度問おう。私と共に来てくれるな?」
意識のないウィゼルの体をミーティアが見下ろし、アネットもまた身動きを封じられている。そこにはアネットに否やを言わせない圧力がのしかかっていた。首を振ったところで、彼らはどんな手を以てしても彼女を連れ帰ろうとするだろう。その“手”がアネットに向けられない以上、必然的に傷つけられる対象は決まっている。
怯えと共に走らせた視線がミーティアのそれとかち合う。それに意図を得たとばかりに、固い靴の先がウィゼルの肘にかけられた。徐々に体重をかければ、彼の指先が痛みに反応して無意識に跳ねる。
「やめ……っ」
――たあん、と。
悲痛な声を遮ったのは、一発の銃声だった。
ミーティアの軸足の腿を寸分たがわずに狙い撃った銃弾が、支えを失った彼女を転倒させる。続いた射撃はアネットを抑えつける女性を撃ち抜いた。はっとして身をよじり抜けだせば、均衡を失ってふらついたアネットの体は、服の裾を掴んだ力強い腕によってその後方へと放られる。
尻もちをついたところでやっと視界が広がった。最初に目に飛び込んだのは、光の具合で赤くも映る金の髪、そしてすらりとした体躯。
「……レナード、さ」
「ナタリー、確保だ!」
「了解です!」
鋭い声に応え、石畳の上を金の疾風が駆け抜ける。それに舌打ちで反応したウォルターは、「ミーティア、ジャニス!」と名を叫んで逃走に転じた。ふたりの女性が了解を返すまでもなく、その背は遠くへと離れていく。
「誰が逃がすと――」
継力銃の引き金を引く、レナードの顔が瞬時に曇った。
ウォルターの足へと放たれた弾丸は、壁となったジャニスの体によって阻まれる。追いかけようとしたナタリーと四つに組みあったのは、片足を引きずったままのミーティアだ。「邪魔、」と吐き捨てたナタリーがそれを投げ飛ばそうとしても、彼女の手首をつかんだ両手は痛覚を忘れたかのように外れない。
「くそ、あの男……!」
レナードが毒づく。ふたりの妨害はウォルターの影が見えなくなるまで続き、その後ぱったりと力を失った。役目を遂げた機械のように地に倒れ、すぐにその心臓が動きを止めていることが確認される。
やるせなさに嘆息を漏らしたのは誰が最初だったのだろう。
その後、襲撃者の暴動は嘘のように収まった。――まるで、彼の逃亡が幕引きとなったかのように。