「ウィゼル君。きみがこの騒動に関与しているようなら、俺は迷わずきみを逮捕してやらなきゃならない。そうでないとしても、俺たちの知らない情報を持っているならこのまま逃がしてやるわけにはいかないな。さあ、今度こそ教えてもらおうか。……きみは、何を知っている?」
皮膚を裂きそうなほどに空気が張り詰めている。それをものともせず、レナードの問いかけは穏やかでよどみがない。対称的に、彼の腕に抱えられたアネットは薄い呼吸ばかりをくり返していた。
ウィゼルは指先ひとつ動かそうとしない。腰元の銃に手を伸ばすこともせず、まるで彼を射殺すにはそれで十分だとでも言うかのように、憎悪をにじませた視線だけをレナードに向けていた。
唾を飲み込むことさえ躊躇われる沈黙の中、アネットは今しがた耳元に響いた言葉を反芻する。
――人質。あえて用いられたその単語が示すのは、自分にはそれだけの価値があるということだ。ならば彼が安易に引き金を引くことはない。ウィゼルから情報を引き出すための切り札を、自ら泡と帰すような真似はしないだろう。
それを理解していても動けなかった。知りたい、と一度抱いてしまった好奇心を、命を天秤にかけられてなお、アネットは捨て去ることができなかったのだ。
「訊きたいのはこっちのほうだ」
ぶっきらぼうな声を発したのはウィゼルだった。
「あんたが何をどう知っているのか、そんなことはどうでもいい。僕が訊きたいのは、なんだってこんなときに、レナード・ヘルツ、あんたがその名前を出したかってことだ! 奴らが血眼になって捜しているのはアネットだっていうのに、そこにあんたが、横から茶々を入れるような真似を……」
「知らないからきみに訊いている。どんな餌でも、狙いの魚がおびき寄せられてくれたなら十分だ」
合金の銃口がアネットの頭を叩く。煽るような仕草にウィゼルは眉間のしわを深くした。
「その餌が鮫を呼んでいることに気付かないから、僕はあんたを考えなしだって言うんだよ!」
餌、がアネットを指すのなら、つり上げられた魚とは当然ウィゼルのことなのだろう。ならば本来寄りつくはずのなかった鮫とは誰のことだ。緊張で凝り固まった頭を無理に回すにつれて、靄がかかっていた感覚も少しずつ晴れていく。
煉瓦で彩られた街路を叩くのは、通信機を携えた伝令部隊の靴底。遥か遠方からは発砲音が響き、乾いた風は旧式の銃が撒いた煙の香りを運んでくる。先ほどまでと変わらないはずの刺激が、今は靴の中に砂利を踏んだかのような異物感をアネットに残そうとする。
混乱と動揺が判断力を揺らがせる場。しかしただひとつ、明確な意思をもって一直線にこちらへ向かい来るもの――それは。
「ひと」
ふと、呟いたとき。
視界の端に銀閃がよぎる。膠着した状況を切り開いたのは新たな介入者だった。年若い青年が、走ってきた勢いそのままに、血走った目でナイフを振り回したのだ。衝動に動かされて正常な思考を失っているのか、狙いは粗雑ながらも明確な殺意だけはひしひしと伝わってくる。
「ちっ」
頭上から降った舌打ちと共に、アネットを拘束する腕の力が緩んだ。
逡巡する時間すらも惜しかった。転がるようにしてレナードから距離を取り、転びそうになるのを意地でこらえて地を蹴った。
「……っ、おいアネット!」
「逃げるよ、ウィズ!」
苛立ち混じりの声に立ち止まる義理もない。ウィゼルの腕を引き、行く先も決めずに逃走を選んだ。
ふたりを追う気配が感じられないのは、レナードが襲撃者の対処に追われているためだろう。最初にナイフを振るったのが若者一人だけだったとはいえ、アネットの耳にはその前から複数の足音が届いていた。ウィゼルが口にした“鮫”とは、つまり彼らのことだったのだ。
襲撃者が自分を狙う理由は未だにわからない。しかし今この時、アネットが優先すべきことはひとつだった。
「足手まといに、なりたくないの――!」
荒い呼吸の狭間に、ウィゼルが動揺を走らせる。息を詰まらせたのか苦しげに咳き込む気配があって、「何言って」と掠れた声で彼は問い返した。
「ウィズが何を抱えているのか、何を隠してきたのかはわからない、知らないけど! それでも私はひとりで置いていかれたくないし、あなたの邪魔になりたくもない! 弱く見えるなら強くなるし、何も知らないならいくらだって知ろうとする。だから」
ふり返る。手を握る。
暗い青の瞳は、自身とは似ても似つかぬ少女の顔をとらえていた。
「一緒に行かせて。ウィズの夢を、願いを教えて。……私、あなたに諦められたくないよ」
家族。姉弟。友人。恋人。何を取っても自分と彼とを表す言葉にはなりえない。それでも側にいたいと願うこと、置き去りにされたくないと怯えていたことだけは確かな真実だった。それを叶えるためならば、他人を傷つけられることを知ってしまった。
選べるものが一つなら、どんなに優しい手も裏切って、自分は彼を選び続けるのだろう。執着と依存に限りなく近い切望が、アネットの背を押す限り。
ウィゼルが言葉を失う。しかしその瞳に虚ろな影が落ちるのに、そう時間はいらなかった。
「……きみにそんなことを思わせるのは、一体何なんだよ」
ぞっとするほど寂しい声。ああまただとアネットは思う。現在すらも過去のものにしようとする、その目がアネットを通して何かを見ていることを薄々ながらも感じていた。
「僕が《アネット》の主人だから? 僕と過ごした時間が、そうきみに思い込ませたの?」
同じ名前を呼ぶというのに、彼の声は透明で無機質だ。視界が二重にぶれるような錯覚を覚えたアネットに、ウィゼルは容赦を与えることをしなかった。
「《アネット》を作ったのも、それをきみに埋め込んだのも、僕じゃないっていうのに。きみを作った人のこと、もう何一つ覚えてもいないくせに」
「作っ、た?」
「ああそうだよ、作ったんだっ!!」
自分の腹に刃を突き立てるかのように、ウィゼルは笑う。
「人よりもの覚えがいいのも、知覚に優れているのだって、それはきみ自身の才じゃない。きみの頭の中の継力が――《アネット》が与えたものだ! きみ自身は空っぽなのに、《アネット》はもっと合理的で自立的なはずなのに」それなのに、と彼は叫ぶ。漏れだした悲痛な慟哭は、声を伴うまでもなくアネットの胸を突き刺した。「どうしてきみは、僕なんかに構うんだよ……!」
耳鳴りに似た障壁を境に、世界から切り離されたかのような感覚を覚える。吐き出しかけた肺の空気は行き場を失って滞った。
彼は自分を、作りものだと言ったのだ。ここに立つ少女は、ただの器に過ぎないと。
呼ばれる名は自分のものではない。小さな器に据えられた作りもの、《アネット》と呼ばれる機械。自分を動かす、まがいものの心を指すもの。それを否定するには、ウィゼルの表情はあまりにも真に迫り過ぎていた。
「わたし、は」
――誰なの。
その問いかけに答えたのは、ウィゼルでも、ましてや自分自身でもなく。
「アネット」
低く掠れた声が耳朶を叩く。襤褸のような服装に身を包んだ男が、眼鏡の奥の目を細めていた。
「あなたは私に、嘘をついたのか。……先ほどは確かに、兄などいないと言ったはずだが?」