レナードの横暴に言葉を失ったのはアネットのみではなかった。呆れとも落胆とも取れない溜息をついて、ニールは糸が切れたかのように椅子の上に座り込む。気遣わしげな視線をアネットに投げるも、すぐに頭を抱え込んでしまった。
 ややあって「ごめんね」とくぐもった声が聞こえてくるのを、卑怯だ、と思う。取り残されただけの彼を、責めようにも責められなくなるからだ。
「ニールさんは、なにも?」
「ああ、なにも聞かされてないよ。いつだって突拍子もないから……さすがに、理由もなく子供を縛りあげたりするような人でないことは確かなんだけど」
「とても信じられません」
 嫌がる顔を見たいがために、縄程度のものは嬉々として用意するだろう。アネットが自分の抱いた想像に向かって嫌悪感を露わにすると、ニールは苦笑する。
「まあ、あの人も、ただ破天荒なだけじゃないと思うんだよ」
 振り回されている側の口から飛び出すにしては妙な言葉だった。首を傾げて説明を求めると、彼は迷うように唸ってから口を開く。
「これは人づてに聞いた話なんだけどね。俺ぐらいの歳の頃、あの人は軍にいたみたいなんだ。士官学校の成績には申し分が無かったから、新人の頃から大層期待をかけられていて、たびたび上官に混じって仕事をこなしていたってね。佐官に就くのも夢じゃなかったらしい」
「そんな人が、どうして警察官になんてなったんですか」
 不機嫌を装って尋ねるが、ニールは弱々しく首を振るばかりだった。
「俺もそこまでは。分かるのは、班長がいつの間にか特務課に収まっていて、こうして俺たちをまとめているってことだけだよ。……実際、あの人は本当によくできた人だよ。こういっちゃ悪いけど、特務課なんかにいるのが不思議なぐらいに」
「そうかもしれませんけど」
 釈然としない気持ちで唇を尖らせた。
 突然の襲撃によって混乱に陥りかけていた特務課の指揮系統を、瞬く間に立て直したのは他でもないレナードだ。その手並みを目の前で見せつけられては実力を疑う余地などない。それでもなお納得ができないのは、隙を突くような方法でアネットの自由を奪い取った挙句、彼は自分の行動に説明を与えるどころか、疑問ばかりを残して彼女を置き去りにしていったからだ。
 ウィゼルと関係があるかもしれないという今回の襲撃、そしてアニエスという名。ふたつが導く解の一端も、唇を引き結んだアネットには思い描くことができない。そのくせ自身が事態の中心にあるということだけは痛いほどに感じていた。その確信が、身動きの取れない彼女をじりじりと焦らせる。
 やはり、じっとしてはいられない。
 アネットが警察に縋りついたのは、この身を安全な場所に置いてもらうためではないのだ。
「ニールさん、あの」
 会話の空白を断ち切った呼びかけに、彼は無防備な表情を返す。
 よぎった罪悪感は黙殺した。そのまま聞きとれるか聞き取れないかという声で話しかければ、ニールは疑いもせずに耳を寄せる。アネットはその顎先を、

「ごめんなさい!!」
 ――早口の謝罪と共に、渾身の力で蹴り上げた。

 歯と歯のぶつかりあう音が響き、脳を揺さぶられたニールが悲鳴も上げられずに崩れ落ちる。
 元来体術に自信のある青年ではないのか、それともこの状況に油断しきっていたのか、彼は咄嗟に防御を取ることもできなかったようだった。白目を剥いた彼の顎にはアネットの靴痕が痛々しいままに残されている。舌を噛むようなことが無かったのは不幸中の幸いだっただろう。
 アネットは首を振り、胸中に渦巻くいたたまれなさを追い払った。意を決して彼の腰元を探る。間もなく見つけだしたのは携帯用の小型ニッパーだ。
「ごめんなさい、借ります」
 小声で呟き、焦りに震える手で紐を断ち切った。あっけらかんと舞い落ちた紐の断片を見送る。ニールが日常的に工具を持ち歩いているのは、たびたび彼に連れられて継力機器の点検に赴いているうちに気が付いたことだった。――悪用するつもりはなかったが、背に腹は代えられない。
 ひとたび廊下へと身を投げ出せば、伝令の声はあちらこちらを飛び交っていた。
 ユークシアの公的組織においては、継力に備わる第三の役割、すなわち“共鳴”をその原動力とした継力式通信機が主な通信手段とされる。それは警察でも例外ではなく、現場を駆け回る警察官たちの指揮は、もっぱらここ警察署本部において行われていた。
「西五〇七地区避難所、人員が不足! 警備課五班の救援を願います!」
「五班は南西二五地区へ! うるさい黙ってろ、人手が足りないのはどこも同じだ!」
「軍は何をやってるんだ、まだ報告が伝わらないのか!?」
 怒号まがいの情報に耳を澄ましながら、アネットは廊下を抜けていく。
 右に左にと駆けまわる伝令班が毒づく相手は、未だに重い腰を上げない王国軍だ。襲撃者と警察との攻防は膠着しており、続々と怪我人が増え続けるばかりの状況は先ほどから何ら変わらない。真っ赤に塗りつぶされていく王都の地図を想像して怖気の走った腕を、アネットはなだめるように撫でさする。
 襲撃者たちは揃いの装飾品を身に付けるでも、誰かに統率されるそぶりを見せるでもなく、各個が縦横無尽に動き回っては無差別な傷害をくり返しているようだった。殺人鬼の大群が王都に解き放たれたかのよう――そう吐き捨てたのは、アネットを追い越していった伝令のひとりだ。警察の動きを鈍らせる理由は、襲撃者と民間人の見分けがつかないことにある。
「おい、きみ!」
 喉奥の唾を飲み込んだとき、走るアネットの腕が掴まれた。
 どきりと心臓が跳ねる。恐る恐るその顔を見上げたが、見知らぬ警察官であることに気付いて瞠目した。ごつごつした手を振り払おうとすると、彼はアネットの手を一層強く握りこむ。
「まったく、どうしてこんなところに子供がいるのかは知らんが、今は外に出るな。怪我をしたくないならじっとしているんだ。いいな」
「ま、町に弟がいるかもしれないんです、捜しに……捜しに行かなきゃ――っ!?」
 指し示そうと遠方を見やって、アネットは金縛りにあったかのように凍りつく。限界というほどに見開かれたその目に彼は気付かなかった。
「弟? なんだ、はぐれたのか? それならなおさらここで待っていろ、きみたちみたいな子供に動き回られたら困るんだ……って、おい!」
 力の弱い小指を握り、引きはがすようにして腕の自由を取り戻す。力無い女性が拘束から逃れるためにとナタリーから教授された護身術のひとつだった。再び伸ばされた手をかいくぐった先に、長く求めた影はある。

 ――三ヶ月。三ヶ月だ。
 捜し続けた。ひとときも忘れたことはなかった。胸を焦がし、ゆえに頭から遠ざけようとした。そんな想いを恋と呼ぶのなら、彼の存在はその境界を越えた先にあったのだ。
 彼は足。彼は目。彼は心臓。失くせば呼吸すらできないもの。命の根源。
 だから恐れる。
 ひとときたりとも放してはいけない。なぜなら自分は彼のためにある。誰でもない自分のために、自分は彼を、繋ぎ留めておかなければいけなかった、それなのに。

「ウィズ――!!」

 悲鳴じみた声がアネットの喉を震わせる。
 息を飲んで彼女をふり返った少年が、一瞬の後に焦燥をその顔に浮かべた。
「馬鹿、アネット、来るな……!」
 地を蹴り、署を飛び出す、刹那。
 視界の外から腕が伸ばされる。筋肉質なその腕はアネットの首元へ巻き付き、強引に自分の胸元へと引き寄せて動きを封じ込む。身をよじって逃れようとしたが、その反抗が続いたのは耳元に金属の冷気を感じるまでだった。
 いやあ、と場にそぐわぬ明るい声が鼓膜を叩く。
「お疲れ様、アネット。無事逃げ出してくれたようでなによりだ」
 レナードがにやりと笑う。見上げずとも分かった。愉悦に満ちたその心は、今や反抗的な子供の鼻っ柱を折ることのできる喜びにうち震えているのだ。
 突きつけられたものは銃口、含まれたものは継力、それは至近距離にある頭蓋骨から脳漿を飛び散らせるには十二分。
「これで俺も、心おきなくきみを人質に取れるよ」
 警察官であるところの青年は、至極幸せそうにそう言った。