男は倒れた椅子には目もくれず、驚愕の表情をふたりに向ける。
「……アネット、と、言ったか」
 喉を渡った声は干からびているかのように低い。
 華やかなユークシアには似合わない、地味な印象の男だった。くたびれたシャツに履き古されたズボン、羽織っているジャケットにはところどころにほつれが見られる。度のきつそうな丸眼鏡は見るからに野暮ったいが、その奥にある瞳は存外に鋭い輝きを秘めていた。
 その瞳が、舐めまわすようにアネットの体の上を滑る。不快感に身を引きかけたが、それよりも彼が歩み寄る方が早かった。
「問いたい。あなたに兄はいるか」
「いません、けど」
「……そうか」
「博士」
 凛とした声が口を挟んだ。
 その呼び名に男がふり返った先では、今の今まで彼と同席していたらしい女性が、掛けていた椅子から立ち上がるところだった。声を発するその時までまったくと言っていいほど気配を感じなかったのは、男の存在感に目を奪われていたためだろう。
 さらりと流れるかのような茶の長髪と、きつめの目鼻立ち。体の線の出るようなズボンと清潔なシャツに飾り気はない。唯一装飾品と呼べるのは髪をひとつにまとめたバレッタだけだ。
 どことなく、ウィゼルに似ている、と感じた。美人ではあるが冷たい印象が彼と重なったからだろう。彼女は音もなく男の元へと歩み寄ると、薄い唇を開く。
「時間です。参りましょう」
「ああ」
 ぞんざいに返事をして、男は去り際にもう一度アネットに顔を向けた。
「ぶしつけに失礼をした。詫びついでに言うが、危険な目に遭いたくなければ、早くこの町を離れることを勧めておこう」
「……はい?」
 問い返そうとしたが、それを引きとめるようにナタリーの腰元で通信機が鳴り響いた。警報によく似た音につられて目を離している間に、二人連れの客は早足で遠ざかってしまっている。ナタリーは頬を膨らませて通信機に耳を当てた。
「はいはい、こちらナタリー・ハイン。どうしたんです、班長」
 何度か迷惑げに相槌を打っていたが、その表情は見る見るうちに真剣なものへと変わっていく。
 ただごとではないのだ。通話を切ったナタリーに説明を求めると、彼女は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「王都が何者かの襲撃を受けてる。至急本部へ戻るようにって、通達。……さっきの男、なにか知っていたかもしれないね。捕まえておけばよかった」
 後悔は短く。瞬時に思考を切り替える。
 ナタリーは自らに発破をかけるように鋭く息を吐いて、「行こう」とアネットの背を押した。


     *


 発砲音、悲鳴、断末魔がひっきりなしに響いては町中を混乱に陥れる。女子供も見境なく傷害の対象とされ、逃げ遅れた者から順に命を落としていった。
 未知の襲撃者に対し、いち早く行動を起こしたのは王都を巡回していた警備隊だった。怯える住民や観光客を一箇所に集め、大人数を収容可能な大広間や競技場へと避難させた。しかし前線に立つ彼らの報告をもってしても、襲撃者の目的と身許ばかりは不明のまま。ただひとつ明らかなのは、軍を為してユークシアを襲う彼らに性別と年齢の別は存在しないということだった。
「拳銃を握った爺さんが子供を撃ち殺したっていうじゃないか。まったくどうかしてる」
 矢継ぎ早に上ってくる現場報告を王都の地図の上に書き込みながら、レナードは吐き捨てる。特務課の職務室は、ほぼ無人に等しかった先刻とは打って変わって、殺気じみた賑わいに満ちていた。地図は瞬く間に赤々とした文字列に覆われ、被害の拡大を克明に訴える。
 アネットを連れて本部に戻ったナタリーは、レナードとその地図とを見比べて眉を寄せた。
「班長、どういうことですか。王都になにが?」
「俺に分かったら苦労はない。せっかくの休日が台無しだ、……おい、ちょっとここ抜けるぞ」
「了解しました、班長」
 地図の管理を部下に任せ、レナードは息を荒くしたアネットの腕を引いた。呆けた顔で警察官たちの間に目を走らせていた彼女は、抵抗することも忘れてそれに従わされる。
 レナードは錯綜する人々の中を大股でかき分けながら、彼らに端から指示を飛ばしていった。その多くは警備隊への協力、すなわち住民の避難誘導と避難箇所の防衛だ。ナタリーも彼に従い、転がるようにして職務室を飛び出していく。
 黙りこんだレナードの背中に、アネットは語りかける言葉を持たなかった。掴まれた腕の痛みをこらえながら部屋を出て、廊下を抜けると、休憩用の一室へと連れ込まれる。
「班長」
 そこで待機しているように指示を与えられていたのだろう。部屋の壁に背を預けていたニールが、足音に反応して顔を上げた。
「ニール、命令だ」
「は、はい」
「この子を縛り上げる。だからここから出すなよ、一歩たりともだ」
「は?」
 ぽかんと口を開けたニールに、彼はくり返し同じことを言い聞かせる。放り投げるようにしてアネットを長椅子に座らせるや否や、彼は片手に引っかけていた紐で彼女を後ろ手に縛り上げようとした。
 もちろん言われるままに自由を奪われるようなアネットではない。体を引きはがそうと抵抗すると、レナードは明からさまに苛立った様子を見せた。
「……おい、じっと」
「してほしいなら理由ぐらい話したらどうですか!?」
 襲撃に沸く本部内を子供にうろついて欲しくないというならば理解できる。殺伐とした現場に飛び出していくのを止めたいというのももっともだ。
 理由を聞けば納得して、言う通りにするだけの分別は持っている。だが説明することも放棄して縛り上げようなどと、子供どころか、犯人に対する扱いと変わらない。あくまでも従おうとしないアネットに業を煮やしてか、レナードはひとつ舌打ちをした。
「きみの弟が関係しているかもしれない。だから囮にする。それに辺りをうろうろされても邪魔なんだ」
「……ウィズが?」
 アネットが動きを止める。その隙に手早く手首が縛られた。子供の力ではほどけない結び目を作りあげたところで、レナードはひと仕事終えたとばかりに息をつく。
「なるほど、便利な言い分を覚えた。きみに言うことを聞かせたければこうすればいいのか。……ああ怒るなよ、今回ばかりは嘘じゃない」
 ほら、と手を出した先では、ニールが何事か言いたげにレナードをねめつけている。その後渋々といった体で彼が手渡したのは、通信機と形状の似た継力機器だ。大きく異なっている点はひとつ、音声を聞き取るためのスピーカーが取り付けられていないことだけ。レナードは機械を慣れた手つきで作動させると、マイクを叩いて動作を確認する。
 こだまのように頭上を走り抜けていった雑音に驚いて、アネットは顔を跳ねあげた。どうやら同じ部屋の中ばかりか、警察本部棟、さらに遠くにまで届いているらしい。範囲までは特定できないが、その音が空気を震わせて、遥か彼方まで伝わっていることだけは理解できた。
 ひとつ、レナードが行ったのは、ゆるやかな深呼吸。
「こちら警察署本部、こちら警察署本部。襲撃者諸君に告ぐ。そちらの目的、アニエス・レイの身柄は、警察が預かっている」
「……アニエス?」
 知らない名だ。目を眇めたアネットが口を出すよりも早く、レナードは同じ内容をくり返して通信を切った。説明を求めて視線を放った彼女を一瞥するのみに留め、給湯室から足早に立ち去ろうとする。途中、ドアノブに手をかけたまま首だけでふり向いて言った。
「あまり暴れないでくれよ。ニール君は繊細なんだ、また怪我をされても困る」
「班長、なに言って」
「説明……っ!」
 ふたりの言葉を無情に断ち切るように、レナードの支えを失った扉はばたりと音を立てて閉じられた。