空砲のような花火が三発、高らかに音を立てて弾け飛ぶ。
 遠目に見た広場にはすでに押し合いへし合いの人混みが生まれていた。敷布の上に自慢の品物を並べた露天商が手を叩いて子供を呼び、その親に擦り入るようにして商品を売りつける。広場を離れ、大通りへと目を向ければ、煽情的な衣を纏った踊り子たちがステップを踏んで瓦の上を行進していった。
 ――火の月十四日、ユークシア建国150周年を祝う記念式典。国内の町々が一斉に祝祭を執り行う、国を挙げての祭日だ。
 それに先立って、ここ一週間というもの、王都ユークシアへの人入りは大波のように激しかった。都の宿はどこをとっても満室、ついには壁の外で野営を行うものも現れたという。都の中でそれを行うような不届き者には見回りの警官たちから厳重な注意が与えられたが、それでもなお同じことをくり返す者の影が尽きることはなかった。
 そうして訪れた式典当日。本来ならば浮かれて外に飛び出していただろう気質のアネットはしかし、その日も窓から眼下を見下ろして仏頂面をしていた。
 背の高い警察署の中層――四階には、特務課に与えられた職務室が存在する。アネットが留まっているのは、ユークシアの広場の周辺をぐるりと見渡すことができるその部屋の中だ。室内に残っているのはレナードとナタリーのみで、他の椅子は全くの空席となっている。
「仕事はいいんですか」
 どちらにともなく問いかければ、椅子の背もたれに寄りかかっていたレナードがひらひらと手を振った。
「特務課は暇だよ、警備は管轄外だ」
 珍しく休日ということだ。ならば職務のない日でさえ出勤しているレナードらのほうが異端なのだろう。暇に耐えかねて居眠りをしかけているナタリーへと顔を向けると、その視線に気付いてか彼女は緩慢に顔を上げた。
「ううん、さすがに、今日ぐらいは訓練もお休みにしよう……?」
 彼女は人手の足りない警備課に数日前から駆り出されていたようで、ほとんど睡眠の取れない日々を送り続けていたという。よほど疲れが回っていたのか、アネットが返答に窮している間に、気怠げに腕のあいだへと頭を潜り込ませてしまった。
「することがないならお祭りを見てきたらどうかな……きっと美味しいものもあるよ」
「でも、行ったところで人に呑まれるだけですし。それならひとりで走ってきます。お疲れ様ですナタリーさ……」
「あーあーあー、若いっていうのに、まったく色味のない毎日だな。嫌だ嫌だ」
 野次を飛ばしたのはレナードだ。アネットがむっとした顔を向けると、鼻先に数枚の硬貨が投げられた。突然のことに慌てたばかりにその大半を受け取りそこね、手からこぼれた硬貨が床に落下する。
 響きわたった金属音に反応してナタリーが再び体を起こした。「班長」と言うなり、淀んでいた目が期待に輝きだす。レナードがそれにうなずきを返した。
「ナタリー、その子を連れて行ってやれ。金は好きに使っていい。日頃の礼だ」
「はっ、班長、本当ですか!? あとで給料から引いたりしませんよね!?」
「もちろん。……ああ、通信機はちゃんと持って行けよ」
「分かってます!」
 両腕を振り上げて歓声を上げるナタリーと、満足げに腕を組んでいるレナード。二人のあいだに挟まれて異議を申し立てる機会を失ったアネットは、呆けたままで成り行きを見守っていた。しかしその直後、彼女の手首は、満面の笑みを浮かべたナタリーに強く引っ張られることになる。
「行こう、アネットちゃん」
 彼女の力に抗えるはずもなかった。
 半ば強制的に町へと引きずり出され、眩しすぎるほどの日差しと人の群れにあてられる。ほとんど駆けるような早さで広場と大通りを往復するナタリーには、先ほどまでの疲れの表情はどこにも見られない。レナードから与えられた硬貨をいかにして使いきろうかと胸を躍らせている様は、まさしく小遣いを受け取った子供のそれだった。
 一方、彼女の疲れと倦怠感が流れこんできたかのように、アネットの体は少しずつ重みを増していく。遠くに聞こえていたはずの雑踏が急に音量を上げて耳を叩き、ついには大きく頭を揺らすようになった。
「……う、」
 浮かれた声を上げるパレードが目の前を行き過ぎたところで、とうとう耐えきれなくなってその場にへたり込む。ナタリーがぎょっとしてふり返った。
 立ちくらみと人酔いを心配した彼女に休憩を訴えると、最寄りの喫茶店へと連れ込まれる。すぐに運ばれてきた冷えた水を口に含めば気分は幾分かましになった。肺の奥の濁った空気を吐き出すようにして、長く細い息をつく。
「……ごめんなさい」
 うなだれるように頭を下げると、ナタリーは大きく首を振った。
「引っぱりまわしたのは私だよ。ごめんね、疲れが溜まっていたのかな」
 アネットはグラスに映り込んだ自分の顔を見つめながら、そうなのだろうか、と頭を巡らせた。
 思い当たる節は無い。昨日もいつもどおりに訓練を終え、眠りについていたはずだ。釈然としないまま黙りこんだアネットに、ナタリーは呆れた顔で首をかしげる。
「毎日飽きもせずに組み手ばかり続けているのは、きみぐらいの女の子だとおかしいはずなんだよ。なにか忘れたいことでもあるの?」
「忘れたい……というより、その」
 考えないようにしていたのだろう。ほんの少しでも思考を傾けてしまえば、弟を探そうとする意気が陰りを帯びてしまう気がしていたのだ。
 とはいえ、こうして見抜かれてしまっている以上、無理に頭から遠ざけようとし続けるのも妙な話だった。もしかしたら何かしらの助言が聞けるかも知れない――そう考えて「ナタリーさん」と呼びかけると、自分のグラスを傾けていた彼女からはいつになく真剣な表情が返ってくる。
 ずいと顔を近づけて、問いかけた。
「……姉弟で、キスって、すると思いますか」
 ぶっ、と吹き出された水を顔面に浴びた。
 慌てて拭おうとしたナタリーであるが、どうやら水が気管に入ったのだろう、激しく咳き込んでいるせいでその手元はおぼつかない。アネットはナプキンを受け取って自ら顔を拭き、深く溜息をついた。
「もういいです、ごめんなさい、忘れてください」
「えっ、ごめん、ちょっと驚いただけ! ごめんって!」
 笑うつもりがなかったのは確かなのか、すまなそうに眉の端を下げている。席を立とうとしたアネットも、渋々その言葉を信じて椅子の上に腰を落ち着けた。
 わざとらしい咳払いをひとつ。表情に真面目さを取り戻したナタリーが、若干の上目遣いでアネットを見る。
「ええと。弟くんのことで、いいのかな」
 静かにうなずくと、ナタリーはううんと低い唸り声を上げた。
「挨拶にしているところもあるとは聞くけど、ここじゃそんな文化はないね。普通は恋人か、好きな人にすることだと思う。……あー、ひとつだけ訊くけど。アネットちゃんは、弟くんのこと」
「かっ、考えたこともありませんよ! だってあの子は私の、」
 弟ですから。口を突きかけた言葉が大気に消える。瞬時に顔がこわばった。
 あの時、燐光を散らすナシュバの花畑の中で、確かにウィゼルは言ったのだ――自分たちは姉弟ではない、アネットは自分の姉ではない、と。その言葉の意味を伝えることもないまま、彼はアネットに困惑を与えたきり消えてしまった。
 信じるだけの理由も根拠も見当たらない。しかし、もしもそれが事実であったなら、アネットに口付けた彼の意図はどこにあったというのだろう。
 唐突に、大きな物音が耳朶を叩く。考えれば考えるほど深みにはまり込みそうなアネットの思考に制止をかけたのは、すぐ傍のテーブルで椅子を蹴倒した男の存在だった。