メリッサの虹彩を覆い隠した睫毛が震え、再び蒼海の色を露わにする。その淀みない瞳に映ったのは、彼女の足元に座り込んだアネットの姿ではなかった。掲げられた視線はアネットの背後、より高い位置に固定される。
 息を飲んで体を反転させれば、擦り切れたズボンが目に入った。それからしみの残ったシャツが、続いてくたびれた襟元が。最後に眠そうな目元を視界に入れたところで、アネットはなけなしの負けん気を振り絞って彼を睨みつけた。
 唇の端を引きつらせたのは、笑いの衝動ゆえのものだろう。ウォルターは芝居じみた動作で肩を竦める。
「哀しい目をする。どうやら少々待たせすぎてしまったらしいな」
「ウォル、ター」
「そう、ウォルター・グライド。あなたのかつての同志だ」
 骨ばった手が伸びる。肩を引き上げる力に抗えずに立ち上がれば、満足げな笑みが向けられた。
「私は気が短いものでな、迎えに来てしまった。あなたを座り込ませたのは何だ? 気分でも優れないのか」
「あんな部屋に閉じ込めておいて、どの口が……、っ」
 頭の後ろに指先が触れた、と思った瞬間に髪を掴まれていた。引きちぎらんとするほどの力を受けて、後頭部に火が付いたような痛みが走る。その手をなだめたのは「メリッサ」と鋭く放たれた声だった。
「私は彼女に、力づくで言うことを聞かせたいとは思わない。離しなさい」
「……了解致しました。申しわけございません、博士」
 口では謝罪しながらも、アネットの髪に伸ばされた手はゆっくりと、ためらいがちに戻されていく。子供の悪戯を身咎めたかのように苦笑して、ウォルターは首を振った。
「すまないな、彼女は少々心配性なんだ。しかしそうでもないとあなたの体は守れないだろう?」
「私の、体」
「ああ、あなたが帰るべき体だ。望みさえすれば今すぐにでも戻してやれる」
「……私はあなたが求める相手じゃない」
 アネットは口に溜まった唾を飲み込んで、言葉を選ぶ。
「あなたのことは知らないし、昔にあったことなんて何も憶えていない。そんなものを取り出して、本当に満たされるって言うの? ……そもそも、」
 ――アニエス・レイを殺したのは、あなたなんでしょう。
 声を低くして問いかければ、ウォルターは眉を跳ねあげた。腹を立てたようでも単純に驚いたようでもあるそれを受けて、アネットは無意識のうちに肩をこわばらせる。
 ややあって、彼は深くため息をついた。
「弟君もそうだったが、どうやら私はあらぬ誤解を受けているらしい」
「どういうこと」
「アニエスを殺したのは私ではない。その才気に嫉妬し、にじり潰さんとした愚かな科学者どもだ。あれが器たる体を連れて逃げ出したのをこれ幸いと追いかけ、断罪の名のもとに引鉄を引いた。私がことの経緯を知ったのは、アニエスの頭に風穴が空いた後だったよ」
 ぎょっとしてメリッサをふり向いた。平然とした顔でアネットを見下ろす彼女の顔のどこにも傷跡は見受けられない。しかしその美しい黒髪に隠れた箇所には、今も処置の痕跡が残されているのだろう。ウォルターは目を見開いたままのアネットを見やり、苦笑して続けた。
「奴らの手から彼女の体を引き取り、処置を施した。一命は取り留めたが、脳はすでにその機能の一部を果たさなくなっていた。延命のために組み込んだのがメリッサの思考回路だ。……これで分かっただろう? 私はアニエスの命を救いこそすれ、奪うことなどしていない」
 主張が食い違っている。それはウィゼルがウォルターに言葉を投げかけたときにも浮かんだ違和感だった。
 ウィゼルは、彼こそがアニエスを殺害した犯人だと確信している。その上でアニエスの肢体のありかを問いかけたのだ。しかし当の本人はそれを濡れ衣であるとし、彼女の復活を求めている。そのどちらも嘘を言っているようには思えなかった。
 漂った沈黙を無意味としたのだろう。さて、とウォルターは対話に楔を打った。
「過去のことはもういい。あなたに思考を埋め込まれた頃の記憶が無いのも、アニエスが手を加えたためだろう。ならばもう掘り返す必要もあるまい。失われた過去を弔うより、新たな今を生みだす方がよほど建設的だ」
「……従わないって、言ったらどうするつもり」
 背後のメリッサを意識に置きながら、アネットは密かに両指を握りこんだ。逃げるか、否か。決断すべき瞬間を見極めかねて、足先の神経までもを尖らせる。しかしウォルターは、さほども堪えていないといった表情で目を細めた。
「先ほども言った通りだ。力づくで言うことを聞かせようなどとは思わん」
 ああそうだ、と白々しく声を上げて、彼は微笑んだ。得体の知れないおぞましさを感じて後ずさったアネットの背中は、メリッサの体に受け止められる。
「ここが現在、何のために存在する施設なのか。説明は受けたかね」
「っ!」
「察しがいいのは喜ばしいことだな。今までのように食事と排泄だけをくり返しながら、ゆっくりと考えを改めてもらうとしようか。子供として育ってきたあなたの意思には一年もあれば十分だろう。思考を擦り減らすのが先か、協力的になってくれるのが先か……ともあれ、あなたのために過ごす時間ならば、待つのもまた楽しいというものだ」
 脅迫であり、宣告でもあった。アネットは知らず知らずのうちに震えそうになる手に力を込める。
 彼の言葉を受け入れるつもりはない。ならば即座に首を振るべきだった。しかし、文字通り気の遠くなるような歳月に、自分が耐えられるとは思えなかった。吐息を噛み殺したアネットに、「それと」と告げてウォルターは追い打ちをかける。
「無論弟君にも、同じように過ごしてもらうことにしよう。彼女と同じ血を宿すだけあって、彼もまた非凡な才を持っている。私とアニエスの復讐にも役立ってくれるはずだ」
「……復讐」
 張り詰めた思考に落とされたその単語に、アネットは導かれるようにして顔を上げた。
 アネットがウォルターと顔を合わせたのは、式典当日のことだった。先の襲撃を統率していたのがウォルターなら、彼の目的は本来、アネットを攫うことにはなかったはずだ。
「あなたは、ユークシアに何をしようって言うの」
 ウォルターの顔面から笑みが削ぎ落される。感情のかき消されたそこから浮かび上がるのは、明確な死の香りに違いなかった。
「何を? ……簡単なこと。奪われたものを奪い返すだけ」
 故郷を、居場所を、知識欲を、愛する人を。そらんじるように指折り数えて、ウォルターは肩を竦める。
「多くを奪いながら、平然と繁栄を掴み取った王国。ユークシアを大国たらしめたのは継力とその技術だ。ならば彼の国を転覆せしめるのもまた、継力であるに違いない。私は継力鉱石を集め、思考回路装置を組み立てて、無秩序な兵団を構成する」
 彼の下で着々と作られていくのは、殺人衝動のみに突き動かされる人間兵器だ。一般市民と同じ皮を被った彼らに乗りこまれ、式典を祝っていたはずのユークシアの王都は、あのとき、瞬く間に混乱に陥った。アネットの存在を確認したウォルターが警察署本部付近にまで乗りこまなければ、その被害はより拡大していたことだろう。
 再度問おう、と、ウォルターが手を伸ばす。まめのできた指先は節くれだっていた。
「私たちを裏切ったあの国に復讐を。……さあ、アニエス」