「ふ、ふざけないで!」
 腕を殴りつけるようにして払いのける。その手も軽々と避けられた。飛び退って距離を離すと、心外だと言わんばかりの顔が返ってくる。アネットは憎しみの宿った目で彼を睨みかえした。
「私に興味? まだウィズを疑っているんですか、私を捕らえておびき寄せようって?」
「ああ、その手もあったか。思いつかなかった……とはいえ効果は薄そうだな。その様子じゃ、まだ彼は帰ってきていないんだろう? 自分を信じて待っている、きみの元へも」
 レナードの口の端が歪む。その嘲笑が火種となった。
「元はといえばあなたたちが……あなたたちがバームに連れていったりなんかするから! ウィズはユークシアに留まることだって嫌がっていたのに、なのに、あなたたちのせいで……!」
 吐き出すごとに黒々とした塊が胸に降り積もっていくのがわかる。うつむいて、相手の顔も見ることもできずに、アネットは震えそうになる歯をただ食いしばっていた。
 こんなものはただの八つ当たりだ。彼ら警察官がただ職務をこなそうとしていただけだということも、バームに連れて行かれたのが処罰であったということも頭では理解している。それでも歯止めがきかないのは自分の不甲斐なさに耐えられなかったからだった。
 ――幼いころ、両親が死んだ。齢五つのときだった。
 かつてはユークシアに住んでいた二人も、以来は彼らの知人であったという当時のパーセル市長に家を借り、隣人の助けを受けて暮らすことを余儀なくされた。子供の抱く万能感、自己陶酔、それらすべての自尊心を端から叩き折られながら、せめてたったひとりの家族だけは、幼い弟だけは守らねばならないと自らに言い聞かせてきた。
 その結果がこのざまだ。
 情けない。頭をかきむしり、叫んで、鬱憤をどこかへと払い飛ばせるものならとっくにそうしている。
「わかってるんですよ、よくわかってる、ウィズが私に言えないものを抱えていたってことぐらい、ちゃんとわかっていたんです。それでもわたしは気付いていないふりをして、ものわかりのいいお姉ちゃんでいようとした。……それが間違いだったんだ」
 触れようともしなかった相手の、なにを理解できるというのだろう。
 信頼。都合のいい言葉だった。血縁と信頼さえあれば、ふたりの世界は強固に守られ、いずれ袂を分かつそのときまで安寧の元にあると信じていた。それが危うい均衡の元にかろうじて形を保っていただけの砂の城であったなどと、おぞましいことを考えようともしなかった。
 薙ぎ払った突風に非は無い。その在り処を探すなら、不安定な城を築きあげた自分自身の中だ。
「あの子が何を考えていたのか、ちゃんと、聞いてやればよかった。……でも、どんなに後悔したって、もう遅いんでしょう」
 手立ては全て失った。生まれ落ちるのは後悔ばかり。ならば信じて待つことしか、自分には残されていないのだ。
 せめて涙は流さないようにと敷いた誓いが崩れそうになる。唇を噛んで目を伏せたアネットを、レナードはついに無表情になって見下ろしていた。彼女の口からはもう言葉が出て来ないことを悟ると、一度それらを反芻するように目を閉じる。
 彼の目蓋が再び上げられたとき、そこには憐憫の色が浮かんでいた。
「きみは、子供なんだな」
「な……っ」
 揶揄された、と顔を跳ねあげたアネットだが、その勢いは瞬く間に削がれていった。
 彼女の目に飛び込んだのは、底の知れない軽蔑と失望の表情。彼の顔面に凍てつくようなそれを見て、立ち上がりかけた反感も軽くへし折られる。
「ひとりで勝手に八つ当たりして、後悔して、挙句の果てには絶望か。子供らしい身勝手さもここまで突き詰めると立派だな。青くて恥ずかしくて、どうしようもなく浅はかで見苦しい。……いい機会だから教えてやろうか。きみのそれは何を生みだすこともないし、何を変えることもない。そんなきみなんかを受け入れてくれる、心優しい他人を心配させるだけだ」
「……あ、あなたなんかに、なにが」
「あいにく俺は大人なんでね。その胸糞悪い考え方も何もかも、十分すぎるほどに経験してきたんだよ」
 愚かで、押しつけがましく、そのくせ自尊心だけは山ほどに高い――畳みかけるように言葉を連ねた彼は、それらを鼻で笑ってアネットの前に指を突きつける。指先で眉間を指されても、彼女は身動きを取ることすらできなかった。
「一度考えてみることだ。依存しているのがどちらなのか、執着しているのがどちらなのか。ただ待つだけの身分にはちょうどいい暇つぶしになるだろうさ」
 言いきるや否や、それまでの表情が嘘であったかのように破顔する――笑いかけられたのではない、見切りを付けられたのだ。指で額を突かれ、足に力の入らなくなったアネットは後方へよろけて立ち止まる。ようやっと思い出したように息を吐き出せば、知らぬ間に背に浮かんでいた冷や汗の存在を初めて意識した。
「これで俺からのお礼は終わりだ。道案内ありがとう、ご友人のところへお連れしようか?」
 芝居じみた動作で片手を差し出される。しばらくの間、呆然とそれを見つめていたが、手を出さないだけの負けん気が最後にアネットを動かした。
 踵を返して走り去る。
 彼は、追ってはこなかった。


     *


「少し脅かしすぎたか」
 ひとつ息をつき、腰に手をやって、レナードは一目散に走り去っていく少女の姿を遠目に見やる。彼女の背は誰の目にも小さく、子供が二人だけで性根を曲げずに暮らしを営むにはあまりにも頼りない。それでも非法に手を染めることなく生きてきたのは間違いなかった。
 参ったね、とひとり苦笑をこぼす。勝手に期待をかけたのは自分の方だ。
 彼女らを拘束した、あの日。弟を人質に取られ、身動きを封じられてなお、自らの無実を証明するために機転を働かせたあの度胸を、パーセルの人間とはいえ一般市民として腐らせるのは惜しいと思った。上手く育てれば、警察の中でも他に引けを取らないような立派な武器になるだろうとも。
 それでも、原石はあくまで原石だった。磨かなければ石ころと変わらない。彼女も子供であったというだけのことだ。
 悪循環に陥りかけた考えを打ち切り、レナードは袖口のボタンを外した。そこに隠していた継力式の端末を引き出すと、いくつかの操作を加えて画面を表示させる。映し出されたのは分刻みに記録された図表だ。延々と一方向へ伸びていた直線が、ある一時のみ刺激を受けて跳ね上がっている。それを見てレナードは表情を曇らせた。
「まったく、何の因果かな」
 彼が手にしていたのは、継力鉱石の反応を測定するための小型機器だ。持ち運びが容易、かつ隠し持つことが可能なこともあり、重要人物の護衛時や事件現場への突入時など、数年前の発明以来幅広く用いられるようになった継力機器の一つである。
 その端末が、僅かながらに反応を捉えた。時刻を鑑みても間違いない――少女の頬に触れたあのときだ。
「帰ったらニールに解析を頼んで……まあ嫌がるだろうな。あいつは子供を疑うのが嫌いだから」
 ぶつくさと呟きながら画面の表示を消す。陰鬱な気分を吹き飛ばそうと大きく伸びをした。一瞬でもちらついた記憶を断ち切るように、瞳を閉じる。

 ――青臭い子供。躊躇。怯え。無責任な自責。

 何もかも、大嫌いだった。