パーセルの夜は静かだ。
 娯楽の存在しない市内を真夜中に徘徊するような者はおらず、騒音となることを避けるため、広場に設置された噴水の水流も止められている。市民も早々に寝静まるのが常だ。
 静まり返ったひとり部屋で、しかしアネットは眠りに就くこともできないまま悶々とした時間を過ごしていた。
 ベッドに潜り、目を閉じようとするたびに、打ちのめされた記憶がまなうらに蘇る。ついに耐えられずに起き上がってはわめき声を上げながら枕を殴りつける。何度もそれをくり返していれば、意識ははっきりとしてくるばかりなのだった。
 荒い息を鎮め、右手を抱き込む。苛立ちの矛先とした枕に何を映し見ていたのだろう、と、大きくへこみのできたそれを撫でつけながら考えた。
 吐けるだけの嘲りを吐いていったレナードか。
 姿を消して以来音沙汰のないウィゼルか。
 それとも、後悔とやりきれなさを抱えるばかりの自分自身か。
 元の形を取り戻した枕をしばらく眺めていたが、どうやらもう眠れそうにない。諦めてベッドから足を出すと、するあてもなく部屋を出た。
 夜は人を一人にする。考えなくてもいいことまで考えてしまう。早く寝てしまうべきだと頭では理解しながら、意識を失くしてしまうことができないのは心が惑っているからだ。
 居間の椅子に腰かけ、暗がりの中で窓の外へと顔を向ける。無言で浮かない顔をしていれば、意図せずともレナードの言葉が思い起こされた。
 ――一度考えてみることだ。依存しているのがどちらなのか、執着しているのがどちらなのか。
 戯言だとは思えない口ぶりだった。暗にそれはアネットの方ではないかと言いたかったのだろう。余計なお世話だと突っぱねることができなかったことが、今は何より悔しかった。
 もやもやとした気分を振り切ることができず、冷えた空気をくり返し深く吸っては吐き出した。微動だにしない夜の景色を見つめる。その視界を、小さな人影が横切っていった。反射でそれを追ったアネットは、すぐに椅子を蹴倒すようにして立ち上がる。
 自分とそう変わらない背丈。顔立ちは闇に紛れているまでも、同年代の子供に比べれば一回りは小さいであろうその体つきは。
「……ウィズ?」
 戸惑いを浮かべている間に、人影は遠くへと消えていく。
 ためらっている暇はなかった。転がるようにして家を飛び出し、人影の向かった方向へと駆ける。するとどこからともなく、澄みわたった甘やかな香りが漂い始めた。
 白い花弁に紫の芯を持つ、ナシュバの花だ。大陸中に広く群生する花ではあるが、特に継力鉱石の存在する場所において顕著な生長を見せる。何よりよく知られているのは、地中の継力鉱石に反応し、その花弁と花粉が光を発する性質であった。ゆえに継花、継力花とも呼ばれるナシュバは、古くからユークシアの国花とされている。
 パーセルは継力鉱石に恵まれた地だ。住宅街を離れ、喧騒から遠ざかったところに、そのナシュバの花畑は存在する。
 一陣の風に舞い上がる白の燐光。膝丈にも届かない花々が揺らぎ踊れば、散った花粉は星々のように瞬いた。空と大地を覆うはずの暗闇に、視界を埋めつくさんばかりの光があふれている。
 踏みしだき、分け入った。
 影がふり返る。
 今度こそ、待ちわびたその顔を見た。
「……アネットはさあ、どうして来るんだよ」
 眉を下げて少年が笑う。いつかの彼のものよりもずっと柔らかく、代わりに意地と気丈さを捨て去った笑みだった。素直な表情と称すべきそれを見ても、アネットの頭には不安がよぎる。
「顔も見ないで行こうかと思ったのに。アネットの方から追いかけてくるんじゃ台無しだ」
 別れる前と何も変わらない姿、声。怪我を負った訳でもなければ、やつれた様子もない。けれどその表情ばかりは、別の誰かが彼の口を借りて話してでもいるかのように儚かった。
 不安の理由を悟って、アネットはくしゃりと顔を歪ませる。それは彼が、過去を語るかのように言葉を紡ぐからだ。
「どうして」と問いかけようとして、やめた。「どこへ」と口に出しても続きは無かった。憂いを捨てた聖人のように穏やかな表情を浮かべたまま、ウィゼルはアネットの言葉を待っている。弟が帰ってきたら投げかけようとしていたはずの追及は、いざ本人を前にした途端、穴のあいたポケットからこぼれ落ちるようにしてどこかへと消えてしまっていた。
 それでもいい。尋ねたいことがあるならば、これから問いかけていけばいいだけのことだ。今この時、彼はここにいるのだから。
「帰ってきたんでしょう、ウィズ、また一緒に」喉がひくついた。それでも震える唇で微笑もうとする。「一緒に、暮らしていけるんでしょう……?」
 ウィゼルが痛みをこらえるような顔をする。さっと期待の色を失ったアネットは小さく首を振り、後ずさった。
「どう、して、そんな顔……するの」
「……もう帰らない。やることができたんだ。ここには、約束があったから来ただけで」
「嘘!」
 断ち切るように悲鳴じみた声を上げた。耳を塞ぎ、目を瞑って、それ以上の否定を拒絶するように座り込む。
 交わした約束は絶対だった。だからこそ恐れる、――もしもその約束が果たされてしまったら? それ以外に自分と彼とを繋ぐものがどこにある?
「い、やだ、嫌だ、だってウィズは私の弟でしょう? 家族でしょう? どうして私を置いていくの、どこへ……どこに、行くの」
 姉弟でも足りない。家族でも足りない。ならばもう彼を留めおくものはどこにもない。自らの足でアネットから離れていこうとする彼を引き止めることができるのは、彼自身の意志をおいてほかには無いのだ。
 いつか別れる時が来ることは知っていた。けれどそれはもっと遠い未来の話であるはずだった。こんな形で終わりが訪れることを、自分は望んではいなかった。
「……アネットはさ」
 ふわり、と閉じた目蓋の向こうに気配が降る。
 間近に響いた吐息の音に目を開ければ、花畑の中心に立っていたはずのウィゼルが、アネットのすぐ前に膝をついていた。風に流れた燐光が二人のあいだを渡ろうとして、その中央で瞬きを失う。あ、と声を漏らしたアネットに、ウィゼルは耐えるように唇を噛んだ。
「どうして僕なんかに執着するんだ。どうして待ち続けていられるんだよ。どうしてきみは」
 叩きつけるような言葉を飲み下して、切なげに眉を寄せる。触れれば泣きだしそうなほどに歪んだ顔に、アネットの胸は怯えるように震えていた。
「きみが、家族だから。僕の姉さんだから。……本当にそれだけなの?」
「どういう、こと」呆けた顔で問い返す。「他に理由なんてないでしょう、だって私は、あなたの」
 ウィゼルは唇を開きかけたが、何を思ったかそれを引き結んだ。代わりに手を伸ばしてアネットの頭に下ろす。傷のない指先が黒い髪を滑り、そこに隠された耳の外側を辿った。あまりのこそばゆさに耐えかね、身をよじって逃れようとしたが、おとがいに寄せられた掌がそれを許さない。押し返そうと身じろぎをする。
 唇が重なったのは、その直後だった。
 恐れるように触れ、やがて静かに押し付けられる。触れるばかりにしては長く、恋人たちが互いを確かめるには短い、その時間。呼吸を忘れたアネットから、彼はさざ波のようにゆっくりと身を離した。
「理由はいくつでもある。こんなふうに」
 掠れた声で告げたが、すぐに力なく首を振った。
「でも違う。違うんだ。アネットが僕を求める理由は、そうじゃない。僕を守ろうとするのも、手放そうとしないのも、きみの中のそれが命じるからだ。……愛情、だとか。血脈だとか、そんなものじゃない。だってあり得ないじゃないか」
 喉の奥から漏れたのは嘲笑。他ならぬ自分を嘲るための自嘲。悲痛な声は、同じ口から飛び出す言葉が望まれないものであることを予感させるように、やけに鮮明に耳に響いた。
「……だって僕らは、姉弟なんかじゃないんだから」
 ナシュバを揺らす風が凪ぐ。
 どこか遠くで、砂の城が崩れる音を聞いた気がした。