導かれた先は彼女たちが今しがた口にしたばかりの役所の前だ。その頃にはやむなしと自ら足を動かすようになったアネットであるが、ウェンディはそんな彼女の服の裾を唐突に引いて垣根の裏に引きずり込む。勢い余って転倒したアネットとは対称的に、マーサはその横へふわりと腰を下ろした。
 なんとか起き上がり、怨みを込めた目で見つめると、ウェンディから額を弾かれる。その上で、馬鹿ねえと肩をすくめられた。
「見ず知らずの相手を待ち伏せなんて、年頃の乙女にできるわけないじゃない?」
「……年頃の乙女は、人を垣根に突きとばしたりなんかしないわ」
 肩にこびりついた土を払い落して、アネットは仕方なしにしゃがみ込んだ。
 そこが役所の玄関側から見れば死角になる位置であることに違いはない。しかし背後を見れば街路を行く町人たちが、奇妙な三人組に不審そうな一瞥をやりながら、関わり合いにならないようにと足早に過ぎ去っていく。
 今すぐにでも彼らに交じってここを離れたい。そう願うアネットの腕はしかし、両脇の友人たちによってしっかりと固められているのだった。文句を言おうとしたアネットだが、ウェンディはそれを遮るように「開いた!」と鋭く叫ぶ。
「ほら、来た、……あの人!」
 もったいぶるようにゆっくりと開かれた扉から、一人の男が姿を現した。彼はにこやかに役所へと挨拶を述べると、くるりと身を反転させて石の段差を下りてくる。
 すらりと伸びた手足に見合うほどの高い背丈。穏やかな笑みを浮かべてなお凛々しさを残す顔立ち。身に付けているのは簡素な服装であるはずなのに、どこか洗練された空気を纏わせていた。隣を通り過ぎれば若い娘なら十中八九ふり返るであろうその容貌が、田舎町であるパーセルに馴染むはずもない。
 マーサが感嘆のため息をつき、ウェンディは自慢げに口角をつり上げる。そうして呆けた顔をしたアネットを肘で小突いた。
「どう、見える? ……アネット?」
「……っの、ひと、は……!」
「え? ちょ、ちょっと、アネット!?」
 限界だった。強く地面を蹴って垣根を飛び越え、軽々と石畳の上に躍り出る。積もった砂埃を踏みしめれば、周囲には高らかな足音が鳴り響いた。
 おや、と彼女にふり返る男の顔。抜け抜けと驚いてみせるその表情――忘れようはずもない。
「なんで、あなたが、ここにいるんですか――レナードさん!?」
 目鼻立ちが整っていることも、浮かべられる表情が人好きのするものであることも知っている。それでも彼の横暴さを身に染みて理解した今となっては、どんな容姿も立振る舞いももはや負の要因としてしか働かないのだ。
 もちろん当のレナードに、アネットの腹の中で渦巻く感情を察するつもりなどあるはずもない。首をかしげ、ゆるやかに目を細める。
「奇遇だな、そういえばきみの故郷はパーセルだったか」
「なっ」
 喉の奥が痙攣する。あまりの白々しさに言葉を忘れた。
 そのまま魚のように口を開閉させたアネットの背中で、木々の葉がこすれ合う音が立つ。戸惑いを浮かべながら姿を現した二人の少女はアネットと青年とを見比べて気後れした様子を見せた。マーサは両者を見比べ首を振るだけのもの言わぬ人形と化していたが、ウェンディは意を決したようにごくりと唾を飲み下す。
「アネット、知り合い?」
 小声の問いかけに、アネットはどうしたものかと眉を寄せる。
 友人たちも、自分がユークシアに向かっていたことだけは噂に聞いていたはずだ。だがその理由――市長に受けたお使いの全貌については、まだ誰にも話していなかった。とはいえ事情を説明するようなことになれば、当然ウィゼルの失踪についても言及することになるだろう。
 説明しあぐねたアネットを見かねたのか、レナードは苦笑する。「ああ」と思い出したかのような口ぶりで話に割りこんだ。
「昨晩、道に迷っていたところを案内してもらってね。きみたちは彼女のご友人かな」
「は、はいいいいっ」
 涼やかな視線が向けられた瞬間、マーサが悲鳴とも返答ともつかない声を上げる。さしものウェンディも動揺を隠せないのか、こわばった顔でしきりにまばたきを繰り返していた。
 一方で、アネットの視線は急激に冷えていく。頭に思い浮かぶのは初めて顔を合わせた日のことだった。彼は同じ笑顔で子供に銃口を突きつけるような男なのだ。アネットの背後でじわじわと膨らむ苛立ちの気配を感じ取ったのか、レナードはちらりと彼女に目を向け、笑いをかみ殺すようにして首を振った。
「そうそう、彼女に昨日の礼をしたいと思っていたんだ。すまないが、きみたちのご友人をお借りしてもいいかい」
 再度言葉をかけられ、二人は大きく肩を震わせる。返す言葉は明らかだった。
「どっ、どうぞ」
「お連れください……」
 レナードはくり返しうなずいて、そういうことだとアネットの肩を叩いた。
 うまく話を逸らして助けられたとはいえ、彼の口から滑らかに流れ出たそれはあくまで嘘に過ぎない。とすれば、あとで何かしらの弁解を入れねばならなくなるのだろう。先行きに一抹の不安を抱えたまま、それでもアネットは歩き出す。今はなるべく友人から遠ざかりたいとする思いが先に立っていた。
 役所の影が見えなくなったところで、アネットの忍耐力もついに底を尽きる。振り向きざまにきつい視線を投げかけた。
「一体、何をしに来たんですか」
「観光かな」
「白々しい嘘も大概にしてください」
 彼から話を聞き出すために、あえて人通りの多い場所を避けて歩いてきたのだ。レナードはその意図を汲んでか、ようやく顔面に張りついていた善人らしい笑顔を引きはがす。はあ、と深い溜息を漏らした。
「きみは本当に可愛くないな。もしかして腹が減ってるのか? なにか甘いものでも買ってあげようか」
「結構です」
 撥ねのければくつくつと笑われる。つい声を荒げそうになる自分を抑え込もうと、アネットは密かに深呼吸を行った。怒りを露わにすれば逆効果であると実感させられたばかりだ。
「私は何もしていません。ユークシアから帰ってきて、市長さんに報告をして、今日だっていつもどおりに暮らしていただけです。あなたにけちをつけられるようなことなんて、した覚えはありません。それなのに、どうしてあなたはここにいるんですか」
「だから言っただろう、ただの観光だ。今日は休暇。このとおり」大げさな動作で腕をかかげる。「制服を着ていない」
「そんな言い分を信じるとでも思っているんですか? あの日……私たちを捕まえた日だって、あなたたちは制服を着ていなかったはずでしょう」
 だからこそアネットもウィゼルも必死に抵抗し、彼らを撒こうとしたのだ。彼らが最初から警察だと服装で示していたならば、面倒な事態を招くこともなかった。それに対する非難も込めて口を尖らせると、レナードは「信用が無いな」と肩を落としてみせる。
「まあ、観光というのはさすがに冗談だが、勤務外であることは本当だ。貴重な休暇を使ってここまで来てる」
 そこでふいに言葉を切り、レナードは底意地の悪い笑みを浮かべる。
 本能的に嫌な予感に駆られた。身を引こうとしたアネットの顔へと、彼の大きな手が伸ばされる。無遠慮に差し込まれた指先が、思わず息を詰めて硬直した彼女の頬に触れた。
「……少し、きみに興味が沸いたからね」
 さらり、と輪郭を辿るように撫でられる。――鳥肌が立った。