むくり、と体を起こす。
 昨晩もやはり深い眠りに就くことはできなかった。普段から寝起きの悪いアネットであるが、今朝は人を射殺さんばかりの目つきでしばらく虚空を睨みつけていた。窓を挟んで交わされる鳥のさえずり、近い位置にある広場の噴水の水音も、不機嫌な彼女の神経をさざめかせるものにしかならない。はあ、と息をついて、ベッドから抜け出した。
「……ああ、そうか」
 習慣付けられた足取りでキッチンに立ったものの、朝食を作るだけの意欲が沸かないことに気が付いた。知らず知らずのうちに引っ張り出していた二枚の皿のうち、一枚を元の棚にそっと戻す。ぽつんと残った皿も、結局は同じ場所にしまい込んだ。
 親がいなくなってから十数年、ずっと二人だけで暮らしていた姉弟である。共用の部屋の掃除、風呂の用意、洗濯と、料理以外の家事こそ当番制を敷いて行っていたが、三食の用意をするのは姉であり女性であったアネットの役割になっていた。それだけはウィゼルに任せたが最後、がりがりに焦げた鶏肉が堂々と食卓に並んでもおかしくないのだ。
 わざわざ食事を摂るか悩んだ末に、沸かした牛乳を流し込むだけに留めた。手早い朝食を終えたところでするべきことを見失ったアネットは、一週間ぶんの埃がちらついた椅子の上に腰を下ろす。そのまま、しなだれかかるようにしてテーブルに頭を落とした。
「まずは掃除……買い物……あと、なんだろう」
 思考が空回りする。遠出をしたがために山積みになっているはずの課題が、どうしても思い浮かばない。そんな自分に嫌気が差して、アネットはもぞもぞと頭をテーブルにこすりつけて言葉にならないうめき声を上げた。
「……ぽんこつの機械、みたい」
 整備士がいなければ、動くこともできないところが特に。我ながら秀逸な例えだと自嘲して渇いた笑いを漏らす。すぐに空しくなって溜息をついた。
 何もできない自分は嫌いだ、と思う。二人がもし逆の立場であったなら、弟は生活の軸をぶれさせることもなく普段通りの日々を送ることだろう。心配はすれども、継力研究に没頭すれば紛れる程度のものに違いない。だからこそ彼は、姉をひとりで置いていくようなことができるのだ。
 考えれば考えるほど、ふつふつと怒りが沸いてくる。アネットはそれを柱にゆらりと立ちあがった。玄関の扉が叩かれたのは、そのときだ。
「……ウィズ!」
 祈るような気持ちと共に扉を開く。途端に飛び込んできた外の日差しと二つの影に、アネットは、あ、と声を漏らした。目を焼いた日光を、幾度かの瞬きで追い払う。
 軒先に立っていたのは学校の友人たちだ。肩先ほどにかかるであろう髪を高い位置でくくったそばかすの少女がウェンディ、顔の輪郭を隠すようなボブカットの背が低い少女がマーサ。危機迫ったアネットの大声に、どちらも目を見開いて固まっている。
「あ……アネット、おはよう」
 気まずそうにウェンディが手を挙げたので、アネットはごめんと一言謝って挨拶を返す。すぐにいつも通り笑おうと努めたが、それが笑顔になっている自信は無かった。
「どうしたの、学校はお休みだよね?」
 恐る恐る問いかけると、少女たちも目の前の彼女が普段のアネットだと思い直したらしい。顔を見合わせてうなずき合う。マーサが自らの肩掛け鞄を探り始める傍らで、「違う違う」とウェンディが首を振った。
「ずっと前にさ、マーサがオルゴールを買ったじゃない。それが壊れちゃったらしいのよね」
 これなの、とマーサが取り出したのは、片手に乗るほどの小型オルゴールだ。パーセルではネジ巻き式のものが主流であるが、小金持ちの父親を持つ彼女が所有しているのは継力を糧に音楽を奏でるものだった。
 その場で蓋を開いてみても、調子の外れた音の粒が飛び飛びに放たれるばかり。それは一年前に聴いた旋律とはかけ離れていた。かつては感激しながらオルゴールに耳を傾けていた三人も、揃って顔をしかめることになる。ぱたんと蓋を閉めて、マーサは眉根を下げた。
「壊れたのは一昨日なの。アネット達ったら、ずっと留守にしていたでしょう? でも、昨日帰って来たらしいって聞いて」
「そんな訳だからさ、……ほら、マーサ」
 にやにやと笑うウェンディに背を押されたマーサが、申し訳なさそうに、けれど照れくさそうに視線を落とす。そういえば彼女は、とアネットが考えたところで、マーサはやっと踏ん切りを付けられたのか顔を上げた。
「あ、あのね。オルゴール、直してもらえたらって思うんだけど。……ウィゼル君はいるかしら」
 その名前が、合図だった。
 まるで魔法が解けたかのように、アネットの顔から全ての力が抜ける。広げていた目蓋の力が、持ち上げていた表情筋が、口の端の笑みも何もかも、意識していたありとあらゆるものが削り取られて無に消えた。少女たちは不思議そうに眉をひそめたが、誰よりも焦燥に駆られていたのは他ならぬアネット自身だ。とっさに顔を背けて、ええと、と声を絞り出す。
「……ごめんね。ちょっと、ウィズは留守にしてるの。そのうち帰ってくるとは思うんだけど。そうしたらすぐ、マーサのところに行かせるから。だから」
 ごめんなさいと掠れた声が、何を謝るものだったのか、アネットもよく理解してはいなかった。しかし普段通りを装おうとする声の調子はかえって彼女に痛々しいものを纏わせたらしい。ただならぬ様子を感じ取ったのか、ウェンディとマーサは視線を交わし合うと、弾かれたようにぶんぶんと大きく首を振った。
「いっ、いいのいいの! 少しぐらい我慢できるわ、大丈夫」
「ね、それより、聞いてアネット。私たち、さっき役所の前でとっても素敵な男の人を見たんだから!」
「……素敵な?」
 竹を割ったような性格のウェンディにしては珍しい物言いだ。気を引かれてふり向いたアネットに、彼女はほっと口元を緩ませる。
「そう、役所に入っていくのを見たの。背が高くて、凛々しくて、でも優しそうな顔の、ね」
「あんなに格好いい人、パーセルじゃ見たことないわよね」花がほころぶように笑ったマーサが同意してうなずく。「どこから来たのかしら、もしかしてずっとここにいるのかしら?」
 彼女の表情は、すでに異性に向ける思慕の色を帯びていた。気の多い少女であるようだと、アネットは五年ばかり付き合ってきた友人への認識を新たにせざるを得なくなる。ウィゼルに惹かれている様子も度々見せていたが、どうやら彼も数多い“格好いい人”のひとりに過ぎなかったらしい。
「素敵な人、ねえ」
 気のない相槌をひとつ返したアネットの両腕が、次の瞬間、両脇からむんずと掴まれる。アネットが、へ、と間の抜けた声を吐くと、彼女たちはにっこりと、しかし決意を秘めた表情でうなずき合った。
「さあさあアネット、いざ行かん」
「あなたは男の人を見る目を養うべきだわ」
 拒否権など残されていようはずもない。アネットは腕を取られるまま、ずるずると引きずられていった。