帰省者
 列車が枕木を踏むたびに、眠気を誘う穏やかな振動が車体に伝う。
 車内に人は少ない。アネットは浮かない顔をして、向かい合った四人席にたったひとりで腰を下ろしていた。往路では埋まっていたはずの席、もうひとつあったはずの荷物の置き場には、今や冷えた空気ばかりが溜まっている。
 重いため息をついて、アネットはなるべくそちらへ目を向けないようにする。なれば自然、その視線は車窓の外の夕景へと流れた。
 バームの調査を終えたレナードは、約束通りにアネットをユークシアへ送り届けると、ひとつふたつの諫言と揶揄を放ってから警察署へと戻っていった。最後までいけ好かない青年だったと腹を立てていたのはつい先ほどまでだ。夕暮れに沈みゆくユークシアの町並みは否が応にも爆発事故の記憶を呼び起こし、不安を抱えたままのアネットを深く消沈させる。
「……ばか」
 つんと鼻の奥が痛む。目頭に滲んだ衝動を、目蓋をきつく瞑って押しとどめた。
 身勝手な弟が帰ってきたら、目一杯叱りつけて、反省させて、謝るまで口を利いてやらないと決めていた。それが叶うまで、やすやすと涙を流すわけにはいかないのだ。
 行きの列車でアネットを襲った睡魔も、その決意の前では尻尾を巻いて逃げ出したらしい。彼女は結局一睡もしないまま夜のパーセル駅に降り立った。重い足を引きずって最初に向かったのは、駅からそう遠くない距離にある市長邸だ。この時刻なら役所も閉じているだろうと考えてのことだった。
 玄関のドアノックを叩くと、すぐにお手伝いの女性が明るい声で迎えに出る。思いのほか低い位置にあった来客の顔を認め、目をしばたかせた。
「アネットちゃん。こんな遅くにどうしたの」
 ええと、と言い淀む。市長の仕事には我関せずを貫く彼女のことだ、子供がユークシアにまでお使いに出向かされていたなどとは夢にも思っていないのだろう。
 とはいえアネットも長旅の帰りだ。いきさつを説明する気力までは残っていなかった。
「市長さんはいますか。ちょっと用事があるんです」
「あらあら、お急ぎのご用事? それならすぐにお呼びしますからね、ちょっと待っていて。……市長さーん! 旦那さまー!」
 若い顔に見合わない大声を張り上げながら、彼女は早足で屋敷の奥へと姿を消していった。ひとり残されたアネットが所在なく足をぶらつかせていると、ほどなく、彼女に代わり壮年の男性が歩いてくる。役所勤めをするにはいささか眼光が鋭く、がたいの良すぎる男――パーセル市長の責を担うロイ・ソディックだ。
「おお、お帰り、アネット。遅かったな、心配していたぞ」
「……市長さん」
 その姿を見た途端にこみ上げるものがあった。
 時間にすれば一週間ほどの旅であったが、もう一年もパーセルに帰ってきていないような気さえしていたのだ。口の奥に溜まった唾と共にその感慨を飲み下し、アネットはふっと肩から力を抜いて、やわらかく笑い、一言。
「使いの人が女性ひとり、って。どういうことですか」
 ぐっ、と目の前の男が声を漏らすのを確かに聞いた。それまで穏やかだった視線が一変、焦りを露わにして上下左右へとさ迷い始める。使者の規約の件は完全に伝え忘れていたのだと悟り、アネットは呆れて首を振る。ここまで慌てられれば、責める気も消え失せてしまうというものだった。
 弟を連れていくと言わなかった自分も自分だ――そう自らに言い聞かせて、アネットは冷や汗を流す市長に「もういいです」と告げた。
「時間はかかったけど、ちゃんとお仕事、終わりました。それを報告しに来たんです。……それじゃあ」
「お、ちょ、ちょっと待ちなさい」
 まだ何かあるのかと胡乱な目を向けると、市長はうろたえる様子を見せた。しかしごほんと咳払いをすると、アネットの背後に視線を投げかける。
「本当にすまなかった。言い訳にもならないが、私もまさかウィゼルがついて行くとは思わなかったんだ。それで、彼は先に家に帰ったのかい?」
「……それは」
 目を伏せたアネットを、市長はきょとんとして見つめていた。
 どうしたね、と問う何も知らない彼には、無用な心配をかけたくない。アネットは顔を左右に振る。
「ユークシアの継力機械が気になるから、って。もう少しあっちに残るって言っていました。早く帰るように言ったんですけど、聞いてくれなくて。だから、今はここにいないけど、そのうちひょっこり帰ってくると思います」
 そう嘘をつく。
 冷えきった、氷のような塊がひとつ、頭の上から足先へと落ちていくような感覚があった。
 継力機械に目を輝かせていたのも、パーセルに帰りたがるウィゼルの声を聞こうとしなかったのもアネットの方だ。結局望みは叶えられないままで彼は行方を眩ませてしまった。直接の原因が自分にあるわけではないとはいえ、黒ずんだ後悔はひたすらにアネットの心を重くしようとする。
 それでも、他人の前で思い悩んではいられない。振り切るように力強くうなずいた。
「私はここで待っていますから。大丈夫です」
 大人についた初めてのその嘘が、市長に何を思わせたのか、自分のことで精いっぱいのアネットに見て取ることはできなかった。いくばくかの沈黙を挟んで、彼はいたわるような表情を見せる。
「そうかい。……今日は疲れたろう、ゆっくりお休み。ご苦労さま、アネット。ありがとう」
「はい、失礼します」
 頭を下げて、アネットは市長邸を後にする。屋敷の中から漏れていた光も次第に届かなくなった。
 初めこそ土を踏みしめるように足を動かしていたが、やがてその歩みは速度を増し、最後には駆け抜けるようにして自宅の前へ辿りついた。荷物から鍵を探し出すのももどかしく、何度か手から取り落とした末にやっとのことで鍵を開ける。叩きつけるかのように、勢いよく扉を開いた。
 目に飛び込んだ暗闇。冷えきった家の空気。出ていったあの日のまま。
 ――迎える気配は、ない。
「……う、」
 漏れた声を飲みこむように、口元に強く両手を押し当てる。その場にうずくまって小刻みに体を震わせた。言い聞かせる――駄目だ、泣くな、泣いてはいけない。信じると決めたのだから。
 ふと沸き上がる不安より、思い浮かべる感傷よりも、無意識に抱えた期待のほうがずっと性質が悪い。それらは否応なく胸に忍び込んで、主が諦めにぽきりと折れる瞬間を待ち望んでいるのだ。アネットは何度も生唾を飲み込んで、引きつった呼吸をくり返し、目元を乱暴に拭って立ち上がる。
 床の上に荷物を放り落とし、導かれるようにして弟の部屋の前に身を寄せた。中に誰もいないその部屋に鍵が掛かっていることはなく、軽く力をかけられただけで簡単に来訪者を招き入れる。ふらりと足を踏み入れて、備え付けの油式ランプを点けた。
 掃除など知ったことかとばかりに床に放り投げられたままの紙切れ、そこらじゅうに積み重ねられたぶ厚い本の数々。どちらも継力装置に関連するものだ。継力に疎いアネットにもそう察せられるような難解な図形と数列が、紙の全面やページの合間にびっしりと書き連ねられている。
「整理しろっていつも言ってるのに。汚いままなんだから」
 散らばった紙を束にしてまとめ、本は一箇所に積んでおく。部屋のものに勝手に手を出したのかと弟が怒り狂う姿を想像することは容易だった。そうしてふと立ちあがったところで、散らかった部屋とは対称的にきちんと整頓された机の上の空間が目に飛び込んでくる。
 継力鉱石の欠片が入った瓶、几帳面に手入れがされた工具。それらと共に残されているのは、ウィゼルが愛用する、人の肩幅ほどの大きさの情報端末だ。長方形の箱型をしており、温もりの感じられない黒々とした画面がアネットの顔を反射している。
 いつの間にか部屋の中にあったそれを、ウィゼルはアネットの前で開いたことはなかった。自分が留守にするときには必ず核となる継力回路を抜いておくほどの念の入れようだ。うんともすんとも言わない端末を指でなぞりながら、アネットはぽつりとこぼす。
「……どうして、何も言ってくれなかったの」
 出ていくだけの理由があるなら聞いた。言えないのならせめて別れを告げて欲しかった。アネットに喪失感ばかりを残して姿を消したのは、果たして彼が望んだことであったのか。盲目に帰りを信じていられるのはいつまでだ。忍耐が切れたとき、自分はどうなる。――どうすればいい?
 勝手に部屋に踏み入ったことに口を酸っぱくする人間も、壊すから触るなと肩を怒らせる人間も、もうここにはいない。今はその無機質な手触りだけが、彼女に残された全てだった。