ぱたりと扉を閉めて、レナードはかんかん照りの太陽を恨めしげに睨みつける。
「戦火って、二十年前にあったっていう戦争のことですか」
 そんな彼に出し抜けに問いかけた。彼は間を置くように町並みを見渡してから、ああそうかと瞬きをする。
「きみぐらいだと戦後の生まれになるのか」
 ひとつうなずくと、珍しいものを見るような目が向けられる。それがいちいちアネットを苛立たせたが、じっと堪えて彼の言葉を待った。レナードは時の流れにひとしきり感心し終えてから、「まあ俺もその場で戦っていた訳じゃないが」と枕を置いて口を開いた。
「戦争の勃発は三十年前。パーセル争奪戦争――ユークシアとヴァルガスのあいだに巻き起こった、パーセルをめぐる大きな戦争だった」
 両大国の目当ては、パーセルの地中深くに眠る宝の山。すなわち潤沢な鉱物資源だった。
 周囲の小国を取り込んで勢力増強をくり返してきた二国は、その最終章としてパーセルに手をかけた。きっかけはヴァルガスによるパーセル地方への侵攻。それをユークシアが牽制、ついに両国は武力による闘争を開始した。
 最先端の技術であった継力を軍事利用するユークシアと、大陸一と呼ばれるほどの軍事大国であったヴァルガス。両国の衝突はいずれにせよ避けられないものだったのだ。
「戦力差は明白なはずだった。なにせ旧時代の兵器と、ほぼ無尽蔵とも言える継力兵器との戦いだ。ユークシア側も、ヴァルガスは一年と経たずに降伏するだろうと考えていた」
「でも、戦争が終わったのはそれから十年後……」
 長い戦争だった。生徒たちに歴史を教えた教師の低く絞り出すような声を思い出して、アネットの顔は暗くなる。その通りだ、とレナードは首肯した。
「ヴァルガスは粘った。終いにはユークシアのほうが攻撃をためらうほどだったらしい。……退けないのも当然だな、ユークシアは当時継力鉱石の加工技術を独占していたんだ。ヴァルガス側が結果を残さなければ、彼ら旧勢力は永遠に発展を諦めることになる」
 継力が無ければ、進歩は無い。旧兵器に固執するヴァルガスもそのことをよくよく理解していた。
 戦力差を知っていてなおも彼らが戦い続けたのは、ユークシアの譲歩を引き出すためだった。かつては大陸の中心として栄えたヴァルガスの王都が廃墟と化し、五十万人にのぼる戦死者、餓死者を生んでも、彼らはその目的を果たさずには敗北を認めることはできなかった。
 ――終戦は勃発から十年後、ミザリア歴1930年。
 ユークシアからの和平宣言をヴァルガスが受け入れた形となった。
「和平の内容はパーセル独立都市の承認と、ユークシアの継力技術の独占解除。戦争以前から長々と続いていた因縁も晴れて解消、やっと平和な世の中が約束されました、ってところか」
 おどけたように両手を上げるレナードの仕草を笑う気にはなれなかった。アネットは表情を曇らせたまま、バーム町長の苦い言葉を反芻する。
 戦火は消えた。だがその痕跡は未だに消えない。
 ユークシアとヴァルガスの衝突地となったのは、ここバーム地方だった。かつてはこの地にも、草木が育ち鳥の舞うような穏やかな町が存在していたという。肥沃な土地を、枯れた大地が延々と続くばかりの荒野へと変貌させたのは戦争だ。
「戦争は、まだ終わっていないんですね」
 ぽつり、と呟く。途端にレナードが面食らった顔をしたので、アネットは眉を寄せた。
「なんですか、戦後生まれが感傷的になっちゃいけませんか」
「……いや」
 否定の声は小さかった。珍しく戸惑った様子で、彼は瞬きをくり返す。「なんでもないさ。そうだな、まだ終わっちゃいない。その通りだ」
 からかわれたのだろうかと考えたが、反感を抱く気にもなれなかった。神経を逆撫ですることに長けた男を相手にしたところで散々こけにされて終わるだけだ。あのウィゼルが口で負けた時点で、アネットに敵う要素は微塵もない。
 むすっとしたまま余所を見ていると、視界の果てからニールが切羽詰まった顔で走ってくる。「様子がおかしいな」とレナードが眉を寄せた。
 二人のもとまで辿りついたニールは、言葉を吐き出そうとして盛大に咳き込む。
「は、班長、あの、」
「ニール、落ちつけ。息をしろ」
 鋭い声が飛び、ニールは慌てて深呼吸をくり返す。顔をしかめ、さらに二度三度と咳をした。肩を上下させてやっとのことで平静を取り戻す。レナードがそれを見はからって「どうした」と問うと、彼は深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。ウィゼル君が、姿を消しました」
 目を剥いたアネットを押しとどめ、レナードが続きを促す。ニールは二人を見比べてからうなずいた。
「現場の見回りを終えてから、広場周辺の、無事に動いている継力機器の点検にも向かったんです。そうしたら俺が装置を見ている隙に、彼はいつの間にかいなくなっていて」
 こちらには、と問うニールに、レナードが首を振る。彼らの視線がややあって自分に向けられるまでもなく、アネットは自分の胸がどくどくと強く脈打つのを感じていた。
 姉との合流を図ったのであれば、ウィゼルは真っ先に町長邸へと向かうだろう。しかし彼はそれをしなかった。そもそも二手に分かれた段階で、彼は不承不承とはいえ提案を受け入れていたのだ。突如気を変えるということは考えられない。へそ曲がりであるとはいえ、物事の判断のできない弟ではないはずだ。
 何かがあったのだ。彼の気を引くような何か――それも、勝手な行動を選ばせるだけの何かが。
 午後の日差しは頭を焼き、白い靄に似た光が視界を覆う。眩みかけた思考をひとつの名前で引き戻したとき、崖から一歩を踏み出したかのように五感が冴えた。
「……広場、ですね」
 すっと目を細める。まるで他人のような声が、自分の口を媒介に発されるのを聞いていた。その冷たい声色にレナードが顔をこわばらせる。
「おい、」
 制止の声が上がる前に駆けだした。
 引き止めようとするレナードの腕は空を切り、アネットは彼の舌打ちを遠くに聞く。彼らの音を、声を、皆振り切るようにして地面を蹴りつけた。
 道順を思い浮かべることはあまりにも容易だった。バームの中央に位置する広場に辿りつくと、アネットは通り過ぎる人の群れをかき分けながら周囲に目を走らせる。ウィズ、ウィズ、と何度も弟を呼ぶ自分の声は、望みのないよすがに縋りつくようにも響いた。
「ウィズ……っ」
 口の中で呟いたとき、アネットはついに見慣れた背格好をその目にとらえる。
 暗い茶髪に、紺に近い青の瞳。まだ成長期を迎えていない背丈はアネットと引き比べてもほとんど変わらないほど。運動を知らない体躯は、人並みにも食事を摂らないがために薄く頼りない。人の群れに紛れれば溶けこんでしまいそうな彼の姿を、確かに見定めて追いかける。
 走る。追う。広場を抜けて大通りへ、脇道へ。遠くなる、その背中がどこまでも、虚空に、手の届かないところへ消えてしまいそうなほどに。恐ろしくなって息を切らせた。
「――ウィ、」
 呼び止めようと声を張り上げる。その名は爆音にかき消された。
 爆風が視界を攫い、炎熱は空気を喰らう。耳をつんざく轟音をかいくぐってどこからか届いた悲鳴は、警鐘のように頭に鳴り響いた。迫る炎の前に立ちつくしたアネットの身は、すぐに背後から思わぬ力を受けて地面に引き倒される。
 反射で起き上がろうとしたが、頭上から降った「動くな」という警告に動きを止めた。目の前に立ちはだかったのはレナードだ。アネットは身を硬直させたまま、彼の体の向こう側に燃えさかる火炎を見つめる。やっとのことで時間の流れを取り戻したかのように、胸の奥で心臓がひときわ強く鼓動を鳴らした。
「……あ、あ」
 ひきつったように呼吸をして、ぱくぱくと口を開閉させる。
 アネットを自分の陰に置いていたレナードが、険しい顔で爆発の跡をふり返った。獣のように地を駆け抜けた炎はすでに勢いを失くし、不規則に揺らめきながら黒煙を立ち昇らせるのみとなっている。それでもアネットは衝撃を受けたまま動くことができなかった。
 継力装置の故障、頻発する火災。それが今まさに目の前で巻き起こったのだ。頭の端の冷静な部分がそう結論を出してなお、信じられない思いで体を震わせる。
「酷いな」
 顔をしかめたレナードが、散々に破壊された家の残骸を見下ろして首を振った。
 衝撃によって建物は崩壊、残った柱も燃え広がった炎のために炭化している。窓枠にはまっていたのであろうガラス板は、もはや原形を想像するのも困難なほどにひしゃげていた。彼がその中から拾いあげたのは、砂埃にまみれた小さな継力鉱石の欠片だ。指先に摘み、じっと睨みつけたまま微動だにしない。
 やがて、爆発音につられて集まり出したまばらな町民の声が耳をくすぐり始める。よろめきながら立ち上がったアネットは、質量を増した不安に視線を揺らした。炎の向こうへと踏み出しかけた足はレナードに制され、増幅する恐怖に彼女はただ首を揺らすことしかできない。
 煙が鼻と目の粘膜を刺激する。滲んだ涙を拭いもせずに道の向こうを見据えていた。
「……ウィズ……?」
 嘲笑うかのように突風が吹き、焼け跡を包んだ煙を散らす。
 急激に晴れた景色の先。

 ――そこにはもう、弟の姿は無かった。