は、とアネットの口から間の抜けた声が出た。
 今彼は何を言った。盗んだ? 自分たちが何を盗むというのだ。
 昨晩市長に文書を預かり、今日の朝早くにパーセルを発った。それからまっすぐに議事堂を目指してきただけだ。追われるような覚えも、ましてや文書を盗んだなどと言いがかりをつけられる覚えなどさらさらない。かっとなって叫んだ。
「なっ、何かの間違いです! 私たちは何もしていません!」
「まあそう言うだろうさ」
 レナードと名乗った男は退屈そうに手帳をしまうと、ウィゼルの頭を銃身でこつこつと叩く。
「残念ながらちゃんとした決定事項があるんだ。代表のところへ文書を届けに来るのは、女性が一人だ、とね。代わりにユークシアは護衛を用意し、駅から議事堂までの行動を監視させてもらう。……それが今回はなんだ、乗車記録を何度確かめても子供がふたり? それも距離を離して尾行していた俺の部下に気付いて逃げ出した、だって?」
「追われれば逃げるでしょう!?」
「いいや、先に逃げたのはきみたちのほうだ。気取られるような追跡はしないと誓って言える」
 それでもアネットは確かに足音を聞いたのだ。ウィゼルには聞こえないような微かな音であったとしても、確かに。
 一体、なにが原因でこんなことになったというのか。考え、黙りこんで青年の言葉を反芻する。逃げた追ったの言い合いは堂々巡りになるだけだとしても、彼はもうひとつ、アネット達を泥棒と決めつける理由を語っていたはずだ。
 すなわち、文書を届ける使者として使わされるのは女性が一人だと決められている、ということ。
 顔をしかめて、より過去の記憶を掘り返す。パーセルの市長がアネットに手紙を渡す際、なにを言ったか――。

『危険はないと思うがね。アネット、一人で大丈夫かい?』
『ええ、市長さん。任せて下さい。わたしだけでも平気です』
『そうかい、それじゃあ頼んだよ』

「ああっ」
 アネットは思わず声を上げた。不審げな視線が集まるのを感じながら、まさか、と頭を回す。――もしも市長が、アネットが当然一人で文書を届けに行くものだとばかり思い込んでいたとしたら?
 冷や汗が流れる。思い返せば、ウィゼルがアネットに同行すると言ったのは文書を預かって返ってきた後だ。そもそもアネット自身、自分一人でユークシアに行こうと考えていたのである。諦めようとしない彼に根気負けしてふたりで出発したことを、市長に伝えた記憶はない。
「……て、手違いです」
 早口で言ったアネットに対し、レナードはまたかとげんなりした表情を見せた。
「女性一人だけだなんて、そんな決まりは知らなくて! 市長さん……パーセル市長も、ちゃんと説明して下さらなかったから」
「それが疑わしいんだよ。きみはユークシアとパーセルの関係を何だと思っているんだ」
 痛いところを突かれて言葉に詰まった。もし自分が彼の立場であっても、散々逃げ回ったあげく、捕まった途端に言い訳をし始めた少女の言葉を信じるようなことはしないだろう。パーセル市とユークシア王国との国際関係に関わるとなればなおさらだ。
 パーセル市、正式にはパーセル独立都市。他の国々とは乖離した関係を保ちながら、自ら国と名乗るほどの領土と領民を持たない特殊な領地。それがアネットらの故郷である。そのような立場に置かれているのも、古来よりパーセルをめぐる戦争が続けられてきた歴史を持つからだ。
 ゆえに、牧歌的な性格を持つパーセル市であっても、他国との関係には特に気を遣っている。間違ってもこのような不祥事は起こるはずがなかったのだ。
「逃げようとしたのも、大方、やましいことがあったからだろう。きみの相手はナタリーがしたからよかったものの、こっちの子には警察官五人が怪我を負わされて……」
「四人です、班長。俺は平気です」
 横から声がかかる。レナードと共に現れた青年だ。短い茶髪が小ざっぱりとした印象を与える。袖から見える腕の打撲痕から察するに、ウィゼルにしてやられたうちの一人なのだろう。レナードは数秒ほど彼を見つめて、それから大きく首を振った。
「俺の、大事な、かわいい部下が、……五人も怪我を負わされた。大損害だ。それだけでも十分、きみたちを罰するだけの理由になる」
「それは……その」
 もごもごと口を動かす。
 ウィゼルは言いつけを無視して応戦したのだ。彼が目を覚ましていればひとつやふたつ叱ってやりたいところではあったが、アネット自身も自分の言葉を守らなかった以上、さして大きな顔ができるわけでもない。
 黙り込んだアネットに、レナードはとうとう溜め息をついた。
「言い訳がまだ続くなら署の方で聞く。それは別の部署の役割になるが……ともかくまずは文書だ。どこへやった」
 早く帰らせてくれと言わんばかりの口調だった。
 アネットは沈みかけた頭で必死に考える。文書を渡してしまえば最後だ。あとの言明は、彼の言う通りただの言い訳にされてしまう。とはいえ無理に抵抗したところで結果は目に見えていた。現に、それを選んだウィゼルは既に昏倒させされているのだ。
 なにか。なんでもいい、疑いを晴らすことができなくても、自分の話に信憑性を与えるだけのなにかを思い出せ。アネットは自分に言い聞かせ、覚えている限りの記憶を探り出す。ウィゼルの言葉、市長の言葉、それまでに聞いた人々の言葉を、思い出しては確かめた。
「……歯車は」
 呟いた声に、レナードが首をかしげる。
「歯車は失われ二度と戻らず。鉱石が永久(とわ)を望むのみ」
 レナードと横の青年が一斉に目の色を変えた。顔こそ見えないが、背後のナタリーもまた同様に息を飲む。ごくりとつばを飲み込んで、アネットは再び口を開いた。
「我らユークシア、民の心は王に有り、民の力は大地に有り、民の理想は」
「花に有り」遮って、レナードは首を振った。「……いい、十分だ、熱演ありがとう」
 班長、と不安げな声を漏らしたのはナタリーだった。その戸惑いが体に表れ、ゆるんだ腕からアネットが抜け出す。ウィゼルの傍に膝をついた彼女を止める者はいなかった。ややあって、彼の頭から継力銃が引かれる。
「参ったな、警察法序章とは。そうそう本に載るものでもないだろう。どこで聞いた」
「……警察署の、写真で」
「署の写真? ああ、大会議室か。あそこは部外者立ち入り禁止のはずだが?」
「市長さんが見せて下さったんです。昔ユークシアの軍にいて、そのよしみでって」
 役所の市長室に額縁に入れて飾られていたのは、若い頃の市長と数人の青年たちが映った古い記念写真だった。屋内で撮影された彼らの背景には、警察の紋章とその二文が縫い取られた旗が吊るされていたのだ。
 継力と自国を称賛し、愛することを誓う宣言。それは警察官となった者ならば誰もが頭に刻み込むものであるという。なりゆきを見守るべく黙りこんだアネットの前で、レナードは目を閉じて考えこむ様子を見せた。
「パーセルの市長、ね。ニール君、今の市長は誰だったかな」
「え……ええと、確かロイ・ソディック氏です」
「ソディックねえ」束の間虚空をにらみつけていたレナードが、「ああ、そうか」と小声でつぶやいた。ふんふんと何度かうなずいて、再びアネットに目を戻す。「まあ、もちろん今のがきみたちの身分証明になる訳じゃない。……けど、とりあえず、パーセルの代表殿とそちらの市長殿に確認だけはしてあげようと思う。それまで身柄は預からせてもらうが」
 いいね、という問いかけは命令だった。
 犯罪者として扱われるよりはよっぽどましだ。うなずきを返すと、レナードはにっこりと笑う。継力銃をしまって部下二人を見渡した。
「それじゃあニールくん、子供一人を相手にぼっこぼこにされたきみに、追加任務を与えよう」
「は?」
「今すぐパーセルへ。市長殿に彼女たちの身元の確認をしておいで」
「いっ、今からですか!? 一体帰りがいつになると、」
「命令だ」
 軽い調子で放たれた一言が、ニール青年にはひどく重い一言であったことは想像に難くない。彼はアネットの横を過ぎてとぼとぼと歩き去りながら「辞めようかなあ」と小声で呟いた。その言葉も聞かぬふりで、レナードは再びウィゼルを無造作に抱え上げる。
 ついておいで、という呼びかけに、アネットは無言で従うほかになかった。