追いかけてくる足音はひとつ。民間人のものと聞き分けることは容易だった。
 思い通りウィゼルに引きつけられてくれたらしいという安心が半分、彼は無事でいるだろうかという不安がもう半分だ。来る日も来る日も部屋に閉じこもっては継力機器との格闘に明け暮れているような少年であるため、今回のような運動をする機会は皆無に等しい。
 ――こんなことなら、ロベルトさんとの稽古に無理にでも引っ張っていくんだった。
 今になって後悔しても後の祭りだ。
 幼い頃に両親を喪って以来、ふたりは彼らの残した遺産だけで暮らしてきた。若いころは優秀な科学者としてユークシアで働いていたという両親の残した財産は膨大で、ふたりが六年制の学校に通い、ウィゼルが個人的に継力の研究に励むだけの費用を差し引いてなお、贅沢をしなければこれからも数年は暮らしていけるというほどだった。
 そうはいっても、寄る辺のなかったふたりをパーセルの住民たちはこぞって心配した。適当な理由をつけては食材や日用品を恵み、何かと世話を焼いたのだ。
 パーセルで私設の塾を経営するロベルト氏による体術の稽古も、そんな親切のうちにあった。ことが起きてからでは遅い、をモットーとする彼の好意を受けて、アネットは週末には足しげく彼の下に通ってきたのだ。
「実戦……初めて、だけど、たぶん」
 大丈夫。
 自分に発破をかけて、心を決めた。
 人気がなく、かつ、ある程度の空間を確保できる場所を探す。建造物の裏庭が目に入るや否や柵を乗り越えて飛び込んだ。横目で確認した限り、どうやらそこは新聞社の敷地であるらしい。
 相手は躊躇する様子もなかった。アネットと同様にひらりと敷地に侵入する。その背格好が女性のものであることに気付いて、アネットは目を丸くした。
 肩にかかる程度の金髪を邪魔にならないように編み込んでいる。動きを邪魔しないような軽装で身を包んでいるためか、風のような雰囲気を纏っており若々しい。それは彼女の青い瞳が快活そうに輝いているせいもあるだろう。「まったく」と呆れたように漏らす声は女性らしい高音であった。
「こんなところに逃げ込んで……不法侵入で怒られちゃうよ。追いかけっこも面倒だし、こちらとしてはそろそろ観念してくれると嬉しいんだけど?」
「何を今さら!」
 まあねと肩をすくめたその女性は、呆れを浮かべていた顔に真剣さを宿した。
「……文書はどこかな。出さないっていうなら、少しこらしめてやらなきゃいけないね」
「最初からそのつもりなんでしょう」
 足を広げ、手を上げて構えた。臨戦態勢を取ったアネットを見て、女性は意外そうに目をしばたかせる。そうかと思えば考え事をするように眉を寄せ、ううんと指を顎元へ添えた。
「まあ、いいか。班長が相手するよりは」
「なにを――、っ」
 予備動作もなく、彼女に距離を詰められる。
 軽やかに掲げられた右足がアネットの横腹を狙う。かろうじて腕で受け切れば、次の一拍には反対の足がみぞおちへと突きだされた。飛び退ってそれをかわし、すぐに一歩を踏み出そうとするも、殴りこんだ右腕には焦りが出た。
 腹を目指した拳に手ごたえはない。いなされた、と思ったときにはもう手首を握られ、軽々と放り投げられていた。体勢を立て直そうとしたアネットだが、地についた両腕を取られ、背後で極められる。
「……っ」
 手慣れている。アネットのように片手間に身に付けたものではなく、日々鍛錬を積み重ねた者の動きだ。
 肩の関節を固めた腕の力は強く、抜け出す道はない。腰に乗り上げた腿は鍛えられた筋肉のためか硬かった。どくんどくんと心臓を脈打たせるアネットとは反対に、その上にのしかかった女性は一連のそれを運動とすら見なしていないのか、息を切らせる様子もない。
「もう一度訊くよ、文書はどこ? やっぱりあなたじゃなくて、あっちの男の子が持ってるのかな」
 答えるものかと口を引き結んでいると、右肩が軋んだ。歯を食いしばって痛みに耐える。
「あなたの連れも今頃は捕まってる。強情でいてもいいことないよ」
「……どうして、文書を狙うの」
「狙う?」女性は訝しげに語尾を上げる。「狙うっていうより、私たちは――」
 そこで言葉が切れた。周囲に何かを見つけたのか、女性があっと声を上げる。
「班長! こっちです、こっちこっち!」
 彼女が空いたままの手を大きく振ったために、アネットの肩は引きつるような痛みを発する。加えて植えこまれた芝生は短く刈り揃えられており、そこに押し付けられた彼女の顔をちくちくと刺した。その芝生を踏んだ足音を聞いたアネットの表情は否が応にも曇っていく。
 ひとり、いや、ふたりだ。足音の主の顔は見えないが、彼女の仲間に違いない。
「ナタリー……人んちの敷地で組み手とはどういうことだ」
 声は柔らかかった。それでも男のものだ。
「この子が悪いんですよ」アネットを組み敷いた女性は答える。「逃げ込まれたんです。私は追いかけて、班長が来るまでこうして捕まえていただけで」
「わかったわかった、それじゃああとは俺が引き受ける。放してやれ」
「え? でも」
「逃げやしないさ、この子もいることだし」
 どさり、と荷物が落ちるような音がする。その振動にアネットはさっと顔を青くした。
 質量を持った、大きな荷物。自分を逃がさないだけの強制力を持つもの。心当たりはひとつしかない。戸惑っていたナタリーが腕をほどくなり、アネットは弾かれたように跳ね起きた。
「ウィズ……っ!」
 眼前にはウィゼルが倒れ、ぴくりとも動かないまま転がっていた。駆け寄ろうとしたところを後ろから羽交い締めにされる。咄嗟に振りほどこうとした動きも、弟の頭に銃口が付きつけられた時点でぴたりと止めざるを得なくなった。
 無造作に彼を放り落としたのも、継力銃を握っているのも、背の高い一人の青年だ。赤毛に近い金髪に緑の目、甘いマスクの優男。だが躊躇いもなく子供を人質に取ってみせた彼の性格が、見かけどおりに穏やかなものであるとはどうしても思えなかった。
 奥歯を噛みしめ、吐き出しかけた罵詈雑言を飲みこんで、アネットはきつく青年を睨みつける。そんな彼女の態度などどこ吹く風で、彼は軽く肩をすくめた。
「さあて、と」
 もう片方の手で、青年はジャケットの胸ポケットから黒い革張りの手帳を取り出す。器用に最後のページを開いて示した。そこに描かれているのは、ユークシアの国花であるナシュバの花をモチーフとした紋章と、数行にわたる文字列。最も強調された一行に目を走らせる。
 ――ユークシア警察。
 その名前に、アネットは自らの目を疑った。
「ユークシア警察特務課所属、レナード・ヘルツ。俺の名前だ」
 一息で言いきった青年が微笑む。
「逃走劇はここまでだ。きみたちが盗んだ文書、こっちに渡してもらおうか」