規則正しい振動が眠気を振り払う。アネットをおぼろな眠りに落としたのもまた同じ音だった。
 身じろぎをして、しばらくうめいてから目蓋を上げる。ぼやけた視界はやがて、車窓の外に流れる風景をとらえた。眠りにつくまでは緑に囲まれた景色の中を走っていたはずの列車は、すでに石畳と家々のあいだを這うように潜り抜けている。その町並みが目に新しかったので、思わず、わあと声を上げた。
 どうやら随分長く眠っていたらしい。記憶があるのは、確か、太陽がまだ山の端から顔を見せていないころまで。その太陽が今では、空のはるか高いところでさんさんと輝いている。
 列車の到着も近いのだろう。適当な時間に目を覚ました自分を褒めてやりたい気持ちになった。アネットが満足して車窓から首を戻すと、それとは対称的に眉を寄せた少年の顔が視界に飛び込む。
「よく眠れるよね」
 ため息がそれに続く。ぼそり、「能天気」と呟く声を耳に捉えて、アネットはむっと頬を膨らませた。
「退屈なだけ。ただ座って、ぼうっと外を眺めているだけなんて。運転席に座れるわけでもないし」
 列車の仕組みは一年前に本で読んで覚えている。実際に操縦したことはないが、動かして、走らせて、止める程度のことならば自分でもできるだろうと考えていた。しかし案の定、ボックス席の真向かいに座る少年からは心底呆れかえった表情が向けられる。
「……小型飛行機みたいに?」
「そう、小型飛行機みたいに!」
 叫んで手を叩いた。その声が思いのほか人目を引いてしまい、アネットは羞恥にこそこそと身を縮める。
「せ、せっかく一昨日飛ばしかたを覚えたところだったのに。誰かに借りてきてさっと飛んでいけたら、こんなに退屈な時間を過ごさなくたって――」
「市法」
「え?」
「市法25章31条2項」
 アネットは露骨に嫌な顔をした。ふてくされるような沈黙のあと、唇を尖らせて「パーセル市に属する航空機、船舶、その他大型の移動継力機器の市外操縦を禁ずる」と固い声で答える。よくできました、と小馬鹿にするような褒め言葉が返された。
 ふたりの故郷であるパーセル市で取り決められた市法は、市の内と外とを厳格に区別する。大型の物体を持ち込むこと、持ち出すことは公的な事情と許可がない限り禁止。それは小型飛行機といえども例外ではなかった。
「ちゃんとわかってるんだろ、駄目だよ。……そもそも“飛ばし方を覚えた”は“飛ばせる”とは違うんだ、きみの場合」
「わかってるけど」
「けど? けど、なんだよ。昨日ハドソンさんの小型機を墜落させたのは誰なのか、まさかもう忘れたわけじゃないよね」
 ぐちぐちと追い詰められて返答に窮する。思わずついと目を逸らした。「あれは、ハドソンさんの小型機が……その、ちょっと強情な子だったから」
「強情! 言うにこと欠いて強情ね! “最高のフライトを見せてあげる!”とかなんとか抜かした人の台詞とは思えないな」
「……っ、ああもう、わかった、わかったってば。修理を押し付けてごめんなさい、これでいいでしょう。まだ根に持ってるの、ウィズ」
「尻拭いをさせられる身にもなってほしいもんだよ」
 少年、ウィゼルがそっぽを向く。
 隣人であるところのハドソン氏の所有する小型飛行機を興味本位で飛ばした挙句に墜落させたのがアネットであるなら、そのエンジンの核となる継力機器を弟であるウィゼルに修理させたのもまたアネットであった。
 新素材である合金性の飛行機であったこと、低空飛行時の墜落であったことから機体の大破は免れたものの、本来姉の失敗には関係のないはずの弟まで巻き込んで大目玉を食らう羽目になったのだ。ウィゼルが継力機器の扱いに優れていなければ、今頃ふたりはハドソン氏の経営する農園でただ働きをさせられているところだっただろう。
 逃げるように会話を打ち切って、アネットはふたたび車窓の外に目を向けた。
 彼女たちが向かうのはパーセル市に隣接したユークシア王国、その中央区に位置する同名の王都だ。列車はすでに王都のうちを走っており、よくよく目を凝らせば人々の生活の様子が目に入る。そればかりか、町並みのそこかしこは祝い事に備えるように飾り付けられているのだった。
 何故だろうと考えれば、頭に思い当たる節がある。アネットは明るい声で弟の名を呼んだ。
「ユークシアは今年で建国150周年なんだって」
「それで?」
「お祭りがあるの。記念式典。今月が火の月だから、三ヶ月後ね」
「……どこから拾ってくるんだ、そういう情報を」
 よくぞ聞いてくれましたとばかりに、アネットはにっこり笑う。
「お役所の新聞の日刊コラム」
 学校帰りに市の役所に寄って、その日の新聞の朝刊を読み漁ってから家路につく。それがアネットの日課になっていた。牧歌的なパーセル市内が至って平和であるためか、市内に本拠を置く新聞社であるとはいえ、その記事では隣国であるユークシアとヴァルガスの時事問題が取り扱われていることが多い。
 アネットらのような一般市民がパーセルの市外に出るようなことは稀であるが、これもれっきとした社会勉強だ。そのためウィゼルが「またどうでもいい知識ばっかり詰め込んで」と渋い顔をするのには納得がいかなかった。
「私は頭に余裕があるの。ウィズと違って」
 後半を強調すると、どうやらそれはウィゼルの癇に障ったらしい。彼の眉に一本のしわが走った。
「僕は必要と不必要を弁えてるんだ。なんでもかんでも頭に詰め込むアネットと違って」
 うっ、と言葉に詰まるアネットである。
 昔から記憶力だけはよかった。一度見た写真の風景、新聞記事から、意味を為さない数列に至るまで、覚えようとした者なら頭に入らないことはなかった。しかしその特技も役立つかどうかとはまた別の話だ。雑多に詰め込まれただけの情報は、使い道を得ないまま仕舞い込まれてしまっている。
 言うなれば引き出しの違い。小さな棚に効率よく物を収納する弟と、無尽蔵な引き出しに身の周りにあるものを全て放りこんだ姉との差である。使い勝手の良さにおいて優劣をつけるまでもなかった。
「……式典だかなんだか知らないけど、お使いを終わらせたらさっさと帰るよ。それが役目だろ」
「そ、それじゃあ、また三ヶ月後に」
「却下」即答して、ウィゼルはぼそぼそと続ける。「誰がこんなところ。今日だって来たくなかったんだ、本当なら」
「それじゃあついて来なきゃよかったでしょう!?」
 本来“お使い”を任されたのはアネットひとりだった。意気揚々とパーセルを出ようとした彼女についていくと聞かなかったのはウィゼルのほうだ。
「アネット一人だといつ戻ってくるか分からないじゃないか。きみが帰ってくる頃に僕の胃が爛れてたらどうしてくれるんだよ」
 言い返そうとしたアネットを押しとどめたのは、列車の到着を知らせる車内アナウンスだった。無機質な音声が王都ユークシアの交通状況を読み上げるにつれて、瞬間的に燃え上がったアネットの反発心もゆるゆるとしぼんでいく。
「ほら、大事な荷物」
 ウィゼルに促され、膝の上においていたウェストポーチを渋々腰に巻きつける。ぱちんと小気味のいい音が立つのと、列車が慣性に揺れるのとが同時だった。まばらだった乗客が散り散りに客席を立つのに続き、二人も列車を下りる。
 駅のホームへ降り立った途端、都市の活気が目に飛び込んできた。