日が経つにつれ、機を見て村の外に出ることが増えた。猛吹雪に逢うことはなくなり、日ごとに晴れる時間が長くなる。膝元までを軽々と追っていた積雪も少しずつ溶けゆき、村の周辺には地面の見える場所が目立つようになった。
 冬季は盛りを過ぎたのだろう。丘陵地帯を迂回する隊商が動き出してもいい頃だ。袂に残していた非常時用の貨幣を掌に乗せて、ハルミヤはほっと息をつく。食費を抑えれば、二人が馬車で王都へ渡るには十分な額だった。
 宿房での生活費は、テオドールから宿房の管理者へ、そしてハルミヤやエツィラといった苦学生へと定期的に与えられる仕組みになっていた。しかしこれといった使い道の思いつかなかった二人は、そのほとんどを食費や学費へと回し、使い道のない分は持て余して貯め込んでいたのだ。
 有り金を法衣の内側に仕舞い込みながら、過去の判断に感謝する。書物にあてていたらと考えるとぞっとした。傍らのアルヘナが無言で手元を覗きこんでくるので、銅貨を一枚だけ取り出して見せてやる。
「刻まれているのは麦か」
「ああ」
 民間に流通する鋳造貨幣だ。銅貨には労働の証である麦の穂、銀貨にはディルカメネス一帯に分布する針葉樹、そして金貨には龍のものを模した翼が刻まれている。現在ハルミヤの手元にあるのは銀貨が一枚、あとの十数枚は銅貨ばかりだ。
 針葉樹がディルカメネスそのもの、暗に王家を示すのに対し、金貨の翼は龍とその元にある神殿を示すとされる。二十倍の価値の差が、そのまま権威の差である――と、説明を加えていたハルミヤに、アルヘナはふんと鼻を鳴らして嘲りを示した。
「何においても龍、龍、龍、か。結構なことだな」
「当然だろう、私たちは命龍のもとで生きているんだ」
 幾度に渡り行ってきた答弁を、今日もまたくり返す。そろそろ億劫になって来たころだった。いくら説明すれどもアルヘナは一笑に付すばかりで、聞き入れようともしない。価値観の違いを覆すのは不可能なのだろうと、半ば諦めながら銅貨をしまい直す。
 壮年の男がすぐ傍まで歩いてきたのはそのときだった。これといってハルミヤに用がある訳でもないのか、同じように雪原を眺めてふむと息をつく。その段になって、自分を見上げる少女の姿に気が付いたようだった。
「何か用か」
「特には……いえ」まじまじと見上げていたのは事実だ。失礼だろうと思い直し「あなたが雪原を見つめているので。何があるのかと気にかかって」と言葉を継ぐ。
「何もあるわきゃないだろう」
 だから平原だ。こともなげに言って、男は再び雪原に目を向ける。
(その解釈はおかしいと思うが)
 雲が出たから雨が降るのだとばかりに言いきられてしまうと、口に出して反論するのもはばかられる。つられるようにして目を動かしたが、彼が見つめる先にあるのは、やはり、視界を覆い尽くす雪だけだった。多少の凹凸が影を落としているばかりで、興味を引くようなものもない。
 言われた通り、彼の行為そのものに意味は無いのだろう。そろそろ切り上げるべきだと判断し、立ち去ろうとする。なあ、と呼び止めたのは男だ。
「あんたら、村の外から来たんだろう」
「? はい」
「どこからだ。港からか」
「王都からですが」
 返答は自然とそっけなくなる。余計なことを付け加えれば、聞いていないと叱りつけられそうな気がしていたからだ。頑固を絵に表したような風体の男は、そうかと呟いて腕を組む。
「こんなこたあ言いたかねえが。俺たちはあんたに、早いとこ出て行ってもらいてえんだ」
 絞り出すような声だった。いくらか予想のついた言葉に、そうですか、と返すのは容易い。
「辺鄙な村だろう。俺たちから見てもそうなんだ、間違いねえ。そんなところに、あんたらみてえな……なんつうんだ、お綺麗な人がいるとよ、ちょいとばかし息苦しくてな」
「ええ」
「港の幌馬車も動き出したって言うじゃねえか。それに乗って、都に帰れないもんか」
「馬車が? 本当ですか」
 ハルミヤは顔を上げる。自分への非難だと話半分に聞いていたことは否めないが、もたらされたのは思いがけない朗報だった。
 男はわずかにおののいた様子を見せたが、間違いないと頷きを返す。
「港の方から荷物が運ばれるようになったからな。じきにうちの織物も都へ出る。新しい神子さんも立ったらしいし、その祝いの品も届けられるはずだ」
 ――新しい、神子。
 強く、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。不審げな目を向けられなければ、立っていることもままならなかっただろう。はっとして男に詰め寄ると、一歩二歩と後ずさられる。構わずに叫んだ。
「っ……名前は」
「な、なんだ、あんた」
「名前はご存じありませんか、その神子の……神子の名前は!?」
 男はハルミヤの有り様を見て、それがただ事でないと感じ取ったらしかった。思案する様子があって、恐る恐る口を開く。
「確か、エツィラ・シヴァイとかいったな」
「……シヴァイ」
 聞かない名だ。俗名を捨てたか、もしくは、貴族の嫡女としての地位を得たか。本人に問いかけない限り確証は持てないが、今はひとつだけ、確かなことがある。
(エツィラが、私の妹でいるのを、やめた、ということ)
 自ら振り払った手が――それでもまだそこに存在し続けたはずの手が、忽然と消え去ったのだ。心臓にぽっかりと空いていた穴にようやく気付かされる。胸に痛みを感じて、ハルミヤは堪えるように両手を握りこんでいた。
 その傍で立ちつくしていた男は、ややあって、居心地悪そうに頭を掻いた。
「あんたの事情は知らんし、聞かねえが。出ていくついでに、ちょっと頼みを聞いちゃくれねえか」
 クロエのことだ。続いた名前に、ハルミヤはようやく意識を傾ける。頭上を仰いでもなお、余所へと向けられた男の顔色は伺い知れなかった。
「一月近く一緒にいたんだ、あいつから聞いているかもしれねえが、……その、なんだ。牧場んとこのせがれの話だ」
「ロドルフさん、ですか」
 男が苦々しげに頷くので、おやと思ってハルミヤは姿勢を正す。村人は全員が全員ロドルフとクロエとの関係に好意的なのだと考えていたが、どうやら例外は存在するらしい。
「クロエの親父さんとは付き合いがあってな。あの子は俺の娘みたいなもんで、昔っからよくうちにも来ていたもんだ。だがシュマンのせがれが表に出るようになってからは、とんと顔を見ねえ。どうも俺の家が牧場の近くにあるからだとしか思えなくなくてな」
 男の推測は正しいのだろう。ここ数日に至っては、ハルミヤやアルヘナが山羊の送迎を担っている始末だ。口を挟まずに頷いていると、男は渋い顔で続ける。
「うちのかみさんはシュマンのせがれがどうだこうだと言うが、クロエがそれを喜んでいるとはどうしても考えられん。だが、あいつんところも独り身だ。無碍にはしにくいだろう」
「ええ」
「そこでだ、あんたが苦じゃなければ……いやそもそも、クロエが望まなきゃ意味がねえが……」
「クロエを連れて行ってほしい、と?」
 男は低く唸った後に、そういうことだ、と首肯する。
 ついて行っちゃおうかな、と、冗談めかした言葉が叶わないことは、クロエ自身が良く理解しているのだろう。彼女にとって、両親の家や畑は形見に等しいものだ。亡き人の死に際に立ち会えなかった無念を、それらを守ろうとすることで晴らそうとしている――まるで、罪を贖うかのように。
 解放を望めども、果たそうとはしない。思い当たる節があって視線を上げれば、アルヘナは興味を余所へとやっていた。ハルミヤはそれ以上の追及を諦め、男に頷いてみせる。
「クロエがそれを望むなら、考えましょう。私には寝食を借りた恩があります」
「すまねえな」
「いえ」
 クロエの意志に頭を巡らせる者の存在に、むしろ安心したぐらいだ。不器用なところのあるらしい男の声に耳を傾けるのも苦ではなかった。彼が無為に嫌悪を隠そうとしないこと、すり寄る気配のないことが理由だろう。
 失礼とだけ告げて、踵を返す。いくらか行ったところでふり返れば、男はやはり雪原を眺め続けていた。彼が村の外へとわざわざ赴いたのは、偶然を装って話を持ちかけるためだったのだろうか。そんな想像に頭を遊ばせながら、ハルミヤは黙々と帰路についた。
 昼前の太陽はやけに刺々しく光を放ち、二つの影を濃く色づけている。常ならば花の香を届けるはずの風も吹きやみ、虫や鳥までもが息をひそめているかのようだった。
 違和感を覚えたのは、畑にクロエの姿が無かったためだ。小休憩を挟むためかとも考えたが、鍬まで綺麗に片付けられているのは不自然が過ぎる。周囲の丘に人影は見えず、墓参りであれば伴うはずの桶も、軒先に残されたままになっている。
 何より、家に近づくにつれて強くなる異臭が、ハルミヤの不安を煽っていた。
「血の臭いがする」
 女性らしからぬ動作で鼻をひくつかせ、アルヘナがぽつりとこぼす。ぎょっとしたハルミヤに向き直り、「人のものではないが」と付け加えた。
「肉の匂いだ。山羊の。あの雌山羊は食用ではないと聞いたはずだが」
 嘘だったのか、と勝手な落胆を見せたアルヘナを残し、ハルミヤは猛然と駆けだした。
 心臓が異様な速度で高鳴っている。危険だ、近付くなと、主に向けて叫び声を上げるかのように。足を震わせながら、それでもハルミヤは、家の裏側に向かわずにはいられなかった。クロエが山羊を繋いでおくための木が一本、ぽつりと立っているだけのその場所に。
 雫が跳ねる。――足元を濡らして、伝った。
 そこには確かに残っている。縄も、木も、山羊も。何ひとつ違えることなく、部品だけは完璧にそこに残されている。ただその組み合わせは、誰の目から見ても明らかなほどにちぐはぐであった。
 幹に縛りつけられるはずの縄は、その太い枝から垂れ下がる。根元をきつく括られた輪は、雌山羊の頭を重々しく吊るしていた。本来そこにあるべき胴体は一刀の元に断ち切られており、骨の覗く断面からはとめどなく血が流れている。
「…………あ、」
 足元に異物を踏んだ。靴越しにおぞましい感触が伝い、喉奥に酸味がこみあげる。
 見るな、見てはいけない。
 鳴りやまぬ警鐘に耳を傾けても、脳はとうに従順さをかなぐり捨てている。ハルミヤはゆるりと目を下に向け、ついに耐えきれなくなって吐き出した。
 吐瀉物に弾かれた血が頬を伝う。濁った視界に、切り開かれた山羊の姿を捉えた。太刀筋には迷いの痕跡もなく、いっそ鮮やかなまでに解体を成し遂げている。
 食卓に運ばれる肉が、どんな経過を経てきたかを知らぬような子供ではない。一連の様子を書物の図から目にしたこともある。それでも知らなかった。生の営み、牧人の責任、もはや単純化された作業であるはずのその行為にすら、純粋な悪意を宿すことが可能であるなどと。体をひねればそれが最期、心の芯からぽきりと折れてしまいそうで、ハルミヤは眼前の惨状から目を逸らすことができないでいた。
「ハルミヤ」
 呼び声は、水面に花弁を散らすかのように。
 ハルミヤはそこに至って初めて、自分が呼吸を行っていなかったことに気が付いた。
「な……、なん、だ」
「見ろ」
 導かれるままに視界を動かしてはっとした。血溜まりの横にはいくつかの足跡が残されている。泥土をえぐった痕跡は、その場で諍いがあったことを声高に示していた。
 大きな靴と、小さな靴。それさえ認識すれば、靴痕の主を想像するまでもない。
 舞い降りた確信がハルミヤの体を鞭打った。口を何度か開閉させて、喉の異物感を無理やりに飲み込む。
「アルヘナ、さっきの男を呼べ。すぐに人を集めてクロエを探すんだ」
 強く、心臓が鼓動を刻んでいる。その一方で、頭は急速に思考を組み立て始めていた。
 余所者の訴えに耳を貸し得るのはあの男ぐらいだろう。従順に駆け出したアルヘナに背を向けるようにして、ハルミヤもまた足を急がせる。走りながら、誰にともなく祈っていた。
(……どうか)
 杞憂を。取り越し苦労を。思い違いを、ただひたすらに希う。――自分の抱いた危惧が、現実に変わることのないようにと。