階段状に積み重なる麦畑は、なだらかに連なる丘陵を切り開いて作られている。開墾が及んだのは遥か昔、神子がこの村に護符を残したという頃のことだろう。人口の少ない集落でありながら、そこに暮らす人々の血は途切れることなく継がれてきたのだ。麦を刈ってはその種を植え、新たな実りを得ようとするように、連綿と、幾代にもわたって。
 閉ざされた土地だ、とハルミヤは思いを馳せる。雪原にぽつりと取り残されている以上、冬になれば当然外界との行き来を断絶される。なまじ護符があるばかりに村人は外へ出ようともせず、殻にこもるようにしてささやかな暮らしを送っている。
(私も同じか)
 その土地に大小の差こそあれ、王都もまた雪原に取り残された人里であることに変わりはない。背の高い壁で自らを覆い、命龍の守護に頼って温和な生活を営んでいる。この村と何が違うというのだろう。ぐらつきかけたハルミヤの思考を、クロエの吐息が引き戻した。
「ここ、静かでしょう。昔はもっと子供がいたんだよ」
 伏せられた目が丘を撫でる。うららかな日差しの下、野の花は風に揺れていた。
「五年ぐらい前に病気が流行ったの。そのときも村は、今みたいな吹雪に覆われてたんだ。都に助けを呼ぶこともできないで、赤ん坊と子供、お年寄りから順に亡くなっていった」
「お前は」
 他人事のように言うので気にかかった。尋ねやれば、クロエは首を振る。
「お兄ちゃんがいるって話をしたでしょう? お兄ちゃんは王都に住んでいて、その年は偶然、あっちで暮らしていたの。おかげで私は病気にかからないで済んだ。……それが幸運だったのか、不運だったのか、分からないけど」
 ハルミヤが眉をひそめると、クロエは膝に顔を埋める。
「家に帰ったら、お父さんもお母さんもいなかった。残っていたのは、家と畑と山羊と、お墓だけ」
 遠方を指した指は震えていた。目を眇めて眺める、その先には、村民の墓が並ぶ墓地がある。
 半月の間、クロエは幾度かふらりと姿を消すことがあった。どこへ行くのかと尋ねたことは無かったが、おそらく墓参りに出向いていたのだろう。帰ってくる頃には普段通りの振る舞いを見せるので、彼女が親を亡くしていることも危うく忘れそうになる。
「家を、守らなくちゃいけないと思ったの。畑も、山羊も。私たちに残されたものを。だからお兄ちゃんにも帰ってくるように頼んだけど、駄目だって。親父とお袋が死んだなら、いっそう王都を離れるわけにはいかなくなったって」
「兄の元で暮らしていたほうがよかったんじゃないのか」
「もし私までいなくなったら、誰がお墓を綺麗にするの? 誰が山羊の世話をして、誰が畑に麦を播くの?」
 矢継ぎ早に問いを発して、クロエは痛みをこらえるように笑う。できっこないんだよ、と、最後にぽつりと呟いた。
「だから私は一人で暮らすことにしたの。村の人は優しいし、食べ物も肥料も十分に分けてくれた。料理の仕方、鍬の振り方、畝の作り方、収穫の期間や畑の休ませ方だって教えてくれたし、分からないようなら手伝ってくれた。……そのぶん、少しだけ、外の人には冷たかった。お兄ちゃんにも」
 個々の暮らしを守り続けた集落ならば、王都の影に怯え、針鼠のように毛を逆立てるのも当然のことだろう。両親を失ったクロエを哀れに思えば思うほど、彼女を身捨てた兄への怨みも募る。
 同情は残酷だ。身内に向けられる悪意が露わにされたかまでは定かではないが、聡いクロエが気付かぬままでいるはずもない。
「お前の兄は、そうまでして何がしたかったんだ」
「……勉強だよ」
 答えて、一段、クロエは声を低くする。「お兄ちゃんは王都で勉強をしていたの。読み書きから始めて、神学、数学、歴史学、いろんなことを勉強してた。神学院に入るために」
「学院に?」
 くり返した途端、ハルミヤの纏う法衣が重みを増したように感ぜられた。
 神学院の門をくぐった生徒に、その栄誉の証として与えられる、藍染めの法衣。生地は厚く織られ、熱を逃しにくいつくりになっている。生徒一人一人の身の丈よりも大きめに作られているのは、学院で成長期を迎える子供たちのことを慮った結果だ。
 左の胸元には龍を表す古代の文様。金糸の刺繍は刻みついて、いくら汚れようとも消えることはない。
「学院を卒業すれば神官になれる。神官になれば、たくさんお金を稼ぐことができる。だからお兄ちゃんは、家に帰ってこなかった。私と自分のために。家を守るために」
 なんだかおかしいね、とクロエは笑う。別の方法を取った兄妹であったが、その目的だけは同じだったのだ。
「ハルが学院の生徒だって聞いたとき、驚いた。ちょっとだけ羨ましかったし、ずるいなって思った。だってお兄ちゃんは、最期まで……王都の端で風邪をこじらせて、そのまま死んでしまうまで、結局学院には入れないままだったもの」
「……死んだのか」
 クロエはひとつ、はっきりとうなずく。続く言葉を吐きだすまでに長い間があった。
「訃報が届いたのも二月後だったの。王都の端にひとり暮らしで、友達もいなかったんだって。遺体もぼろぼろになっていたみたいで、村のお墓に運ぶこともできなかった」
 埃の積もった椅子、使われた形跡が断たれて久しい小部屋。勉学に励んだはずの彼の私物の一切が、家には残っていなかった。王都に住まう兄が死んだところで、クロエの生活は変わらなかったのだろう。それまでどおりに麦を育て、一人分の暮らしを営むだけだ。小さな身の内に、どんな痛みを抱え込んでいようとも。
「どうして立ち合ってあげられなかったんだろうって、いつも考えてる。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、私が知らない間にいなくなったから。一緒にいてあげられなかったから。それが一番の後悔かな。……ねえハル」
 足元をにらみつけていたハルミヤは、導かれるままに顔を上げる。しかしクロエは、しゃんと背筋を伸ばして丘の向こうを見据えていた。
「王都は広くて、一日限りじゃ歩くこともできないんでしょう」
「ああ」
「そんな王都の中に学院があって、大きな門を構えている。なのに、神様に選ばれた人しか、その門をくぐることはできないんだって聞いた」
「そうだな」
 資質を天からの授かりものと呼ぶならば。胸中で付け加えて、ハルミヤは同意する。
「ね、……学院は、どんなところ?」
 聞いてどうする、と、言い返そうとした己を抑える。クロエが目を向けた方角に王都の存在があると気付いてしまえば、口が裂けてもそんなことは言えなかった。
 代わりに脳裏に思い描く。静まり返った廊下と、のどかな中庭。点々と並んだ小窓からは澄みきった光が漏れており、学び舎の静寂を貫くよう。行き交う学徒の背筋は曲がらず、歩幅は広く。生き急ぐように響く靴音は硬質にして怜悧。切磋琢磨を建前とした複数人の授業のもとで行われているのは、互いに互いを踏み台にして卒業を握り取らんとする若人たちの競合と、こぞって家柄を盾に取る子女たちの牽制合戦だ。
「憧れだけで受け入れられる場所でないことは確かだ」
「そうだね。……みんながみんな、神官を目指しているんだもんね」
「門をくぐることが、そのまま将来を保障するわけじゃない。どんな才も、磨かなければ腐っていく。腐れば捨てられる」
 学院に入ることを許された生徒のうち、留まり続けることを許されるのがほんの一握り。卒業を許されるのはさらに限られた数名だけだ。入院を目指す子供が桶で掬い上げた砂粒の数だけ存在するとすれば、神官として神殿に勤めることが叶うのはその一粒か二粒に過ぎない。
 まるで賭博だ。自分の才能と努力に、本来持ち得るはずの時間と有り金を賭ける。その勝者だけが、神の身許に辿りつくことを許されているのだ。
 食らいつく者がいて、ふるい落とされる者がいる。当然のことだとハルミヤは考えていた。――いたわるように、クロエが自分を見つめ返すまでは。
「ハルは、そんなところに帰っていくんだね」
「……っ」
 心臓が跳ねた。
 顔が向けられた、ただそれだけのことだった。しかしクロエの目は、ハルミヤの意識を掴んで離さない。
 憧憬、羨望、憐憫、そして色濃い孤独が、はしばみの瞳へと虹に似た深みを与えている。助けを呼びながら、その奥で、引きずり込んでしまいたいと手をこまねいている。
「ハルが来て初めて、私は淋しかったんだって気付いた。……わかってる、わかってるよ、吹雪が止んで馬車が動くようになれば、ハルはまた、王都へ帰らなくちゃいけない。当たり前だよね、あなたはここに留まるような人じゃないもの」
「……クロエ、」
「それでも願わずにいられないの。あなたが、ずっと、ここにいてくれたらって」
 馬鹿だよね。呟いて、クロエは顔を伏せる。膝を抱いた手はきつく組まれていた。まるで、今にも飛び出しそうになる己を押しとどめているかのように。
 ハルミヤは薄く唇を噛んで、首を振る。その身ぶりが届かないと知って息をついた。
「お前は、兄代わりの庇護者を望んでいるだけだ。それが私である必要はないし、……そもそも私は、お前が言うほどできた人間じゃない。偶然ここに来た私を買いかぶっているだけで」
 くぐもった笑い声を聞いて、ハルミヤは口をつぐむ。隣では顔を隠したクロエが、小刻みに肩を震わせていた。何か文句があるのか、と、不機嫌も露わに尋ねやれば、細腕の隙間からは眉根を下げた表情が覗く。
「ハルはいつも、そうしてきたの?」
「は?」
「自分に向けられた好意、心配、尊敬。信じないで生きてきたの? それとも、学院はどんな人もそんなふうに変えてしまうところなの? それってとっても淋しいし、なにより、私に対して失礼だよ」
 思わず目をしばたかせる。そうした自分をすぐに恥じて、顔を背けた。
 鈴のような笑声はやがて頭上から降るようになり、クロエが立ちあがったことを悟らせる。すぐに、土を払う衣擦れの音が耳に届いた。
「いっそ、ハルについて行っちゃおうかな」
「……お前が?」
 風がひときわ強く駆け抜けて、丘に立つ低木や草葉を揺らしていく。珍しく解かれたままのクロエの髪は日差しを透かし、黄金色に輝いていた。続く「冗談だよ」の声が言い訳めいた響きを伴ったことに、ハルミヤはわずかに眉を寄せる。
「だいじょうぶ」
 クロエが言って、顔を向けた先には、アルヘナの姿が影を落としていた。
「ハルが行ってしまっても、私は今までどおりに暮らしていける。だから平気」
 光が落ちる。温度を宿した光の雫が、こぼれるように降り注ぐ。そんな錯覚を覚えて、ハルミヤは眩しさに目を細める。顔を上げた先では、太陽を背にクロエが微笑んでいた。
 ――だいじょうぶ。
 その言葉は、一体、誰に向けられたものであったのか。見いだせない答えは胸をかき乱す。差し出された手を無意識に取ってしまってから、奥底に触れられたことを知った。小さな手のひらが、しかし草を引き抜くかのように力強く、ひょいとハルミヤを立ち上がらせる。口の端を吊り上げて見せたかと思えば、山羊を連れたアルヘナへと礼を告げていた。
「すぐにご飯を作るからね」
「ああ」
 アルヘナは山羊をクロエに預けると、丘の横にぽつぽつと立つ低木に顔を向ける。どうかしたのと問うたクロエに、「いや」と答えて、ひとつ瞬きをする。
「お前たちの会話を、誰かが聞いていたようだが。気にしていなかったのなら、いい」
 背筋が泡立つ。クロエと共に勢いよくふり返ったが、すでにそこに人影は無かった。
 否応なく思い浮かべられるのはロドルフの顔だ。ここ数日というものクロエの前に姿を現すことは無かったが、単に気付かなかっただけだったとしたら。――彼女の行動を、影から見ていたとしたら。
 クロエが唇を引き結ぶ。所在なさげに移ろった指先は、山羊の頭に触れていた。