眠りの縁から浮かび上がる。その感覚を、ついぞ感じたことが無かった。
 目覚めは息苦しさから始まるものだ。寝台の上に転がるうちに乾いた喉は、引きつれて痛む。咳き込みながらコップに手を伸ばし、水を飲み下して初めて、その苦痛から解き放たれるのだ。後に残るのは喉奥に滲む鈍痛と陰鬱な気分だけ。意識を手放すことがないせいで、疲労は日に日に蓄積するばかりだった。
 ゆえに知らなかった。まどろみの甘さ、体を隅から溶かすようなその温もりなど。
 目を開いて、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。頭には霞がかかったようで、現状に疑問を抱く気も起こらない。そのまま再び目を閉じようとしたハルミヤを危ういところで引き戻したのは、鼻先に漂った小麦の香りだった。ぐらり、導かれるようにして上半身を立ち上げる。
 木造の家は、王都のものに比べて窮屈だ。ハルミヤが寝かされていたのは寝台ひとつが置かれるばかりの小部屋で、体にかけられた毛布と壁にかけられたランプを除けば他には何もない。その毛布も薄く毛羽立って、ところどころに埃をまとっていた。家主は裕福ではないのだろうと結論付けて、足を寝台から出す形で座り込んだ。
 そのまま意識を取り落とす前の記憶を探る。浮かぶのは小柄な少女の姿と、ロドルフという男の名だ。おそらくは彼女たちの住む集落へと運び込まれたのだろう。
(……寒くない、な)
 自分のいる場所が王都だということはないだろう。ならば冬季のディルカメネスで、法衣一枚で座っていられるのは異なことだ。
(命龍の守護があるのか)
 推測を巡らせて、その行為に意味がないことに気付く。毛布を簡単に畳み、扉に手をかけた。呼吸を整えてから、探るように、押し開く。
 ハルミヤの緊張は意味を為さなかった。家の大部分を占めているのであろう居間には人気がなく、ただ中央の机の上で、スープがもうもうと湯気を立てているだけだ。並んだ椅子は四つだが、使われた形跡のある椅子はひとつのみ。残りの三つにはわずかに埃が積もっている。
「誰もいないのか」
 低い声で問いかけてみても、返事はない。
 どうやら余所者一人を残して、家主は家を出ているらしい。不用心なことだと一旦呆れはしたが、盗むような価値のあるものが存在するとも思えないのだった。
 念のためにと残っている扉の全てを開いて、家主の外出を再確認する。そうして見て取れたのは小さな家だということ、家の主が一人暮らしであるということ、それから今が昼どきであるということだけだった。最後に外へつながる扉を開けば、眩い日光に眉をひそめることになる。
 集落は農村であるらしい。ざわりと吹き込んだ風は生温く、土の匂いを含んでいた。起伏のある地面には背の低い雑草が草葉を伸ばし、平らにならされただけの道が続いている。顔をめぐらせればいくつかの家がぽつりぽつりと立ち並ぶのが見えた。
「あ!」
 高い声が耳朶を叩いた。目前に広がる畑から、少女が転がるように駆けてくる。
 年頃はハルミヤより三つ四つ下といったところか。一見して溌剌とした印象を与える娘だった。畑仕事を日課としているのか、くるぶしまでのズボンは土にまみれ、ちらほらとほつれが見て取れる。ならば小麦色の髪を編み込んでいるのは、容姿に気を使った結果ではないのだろう。はしばみ色の瞳がハルミヤの頭からつま先までを流し見ていったが、そこに悪意は感じられなかった。
「よかった、気が付いたんだ」
 誰だ、と返しそうになるのをこらえる。初めこそ気が付かなかったが、声はハルミヤを発見した少女そのものだ。雪原では厚い毛皮を巻いていたため、その内側にまで目がいかなかったのだろう。
「空から落ちてきたように見えたけど、きっと見間違いだね。人が空を飛ぶわけないもの。あんな吹雪の中にいたから、疲れて幻覚を見たのかも。……でも、あなたたちを見つけられてよかった! きっと神様があなたを救ってくれたんだよ」
 ころころと畳みかけるので目が回りそうになる。口も挟めずに、思わずまばたきをした。少女はそこでようやく喋り過ぎたことに思い至ったのか、ごめんなさい、と声を上げる。
「目を覚ましてくれたのが嬉しくて。怪我はない? ずいぶん長い間雪原にいたんでしょう、体が冷えていたから心配していたの。凍傷だとか、しもやけだとか」
「いや、何も」
 どれだけ傷を負っていたとしても、眠っている間に全て癒えてしまったのだろう。普段感じていた体調の悪さと引き比べれば、快調が過ぎて違和感を覚えるほどだ。
 しかし少女はそんな事情など知る由もなく、ハルミヤの顔と体とを交互に見やる。
「無理はしていない? 痛いなら遠慮はしなくていいから。ほら、手」
 少女に促されるまま、掌を開いて見せる。続いて甲を。切りそろえられた爪が並ぶばかりの指先を見て、少女はほっと息をついた。ハルミヤが身を引こうとしているのに気付いているのかいないのか、ふと顔を上げて、視線が絡んだ途端ににこりと笑う。
「怪我がないなら安心だね。もうひとりはぴんぴんしていたけど、あなたはずっと起きて来なかったから、このまま目覚めなかったらどうしようと思って」
「もうひとり……それは、銀髪の」
「うん、あなたよりまぶしい色の髪の人。お姉さん?」
「やめてくれ、あいつは」
 そこで口を閉じる。龍、という言葉を出すことは躊躇われた。
 迷った上で「知人だ。ただの」と早口で添える。少女は疑念を抱くことを知らないようで、そう、と頷いた。
「姉妹の割には似ていないものね。友達ならもっと心配するかと思ったのに、そんなそぶりもないし」
「そいつは今どこに」
「ごめんね。元気そうだったから、ちょっとお手伝いをしてもらっちゃった。もう少しで帰ってくるんじゃないかな」
「手伝い?」
「うん、おつかい。家の山羊を、村の端っこまで届けにね。うちには牧場が無いから、使わないときは預けちゃってるの」
 道に迷っているのかな、と少女は首を動かす。騒動の心配はなさそうだと踏んで、ハルミヤは小さく息をついた。目の届かないどこかで、奇天烈な言動をしている可能性までは否定できないが。
 アルヘナが戻ってくるまでは容易に動くこともできない。どうしたものかと考えたところで、穏やかな風がハルミヤの髪をさらっていった。普段は鬱陶しいからと一つに束ね上げているが、眠っている際に解かれてしまっていたのだろう。肩の後ろに払いのけると、少女はまじまじと見上げてきた。
「綺麗な髪。長くて羨ましい」
「切る暇が無かっただけだ。邪魔で仕方がない」
「でも、整えてはいるんでしょう? そうでなきゃ」少女の手が伸び、ハルミヤの髪の束をすくい上げる。身動き一つ取れなかったのは、その動作があまりにも自然だったからだ。「すぐに痛むはずだもの。切るのはもったいないよ」
 少女の言葉は真実だった。ぐうの音も出ず、ハルミヤはそっぽを向く。
 最低限の髪の手入れだけは行っていたのも、法衣を着崩したことが無いのも、からかいや侮蔑の種を端から取り除くためだ。出身が貧しいことを外見から悟られるのが屈辱だったこともある。その一方でエツィラは身だしなみに気を使わない性質であるようで、あちらこちらで髪や法衣を引っかけては渋い顔をして帰ってくることが少なくなかった。
「ねえ。裂けちゃうよ」
「……裂ける?」
「唇。そんなに噛むと痛いでしょう。気がかりなことでもあるの? 髪のこと、褒められるのも嫌?」
 無意識のうちに噛みしめていたのだ。ハルミヤの口元を指して、少女は眉を寄せる。「何でもない」と誤魔化しながら、その言い訳に無理があることもまた心得ていた。やや考えた末に、やわらかい日差しに意識を向ける。
「今は冬だろう。ここは吹雪いていないのか」
「え? ……ああそっか、あなたは村の外から来たんだものね。ここ、命龍の護符が置いてあるの」
「この村に?」
 訝しむハルミヤに、少女がうなずく。
 本来ならば有り得ないことだ。王都の神殿が天候を保つほどの護符を配るのは、国にとって主要な都市と施設のみなのだから。辺鄙な農村が経済の一端を担っているとは考えにくい。二度、三度と周囲をうかがうハルミヤの前で、少女は自慢げに、そしていくらか恥ずかしげに口を開いた。
「この村ね、最初の神子様が滞在したことがあるみたい」
「最初……初代の神子か」
「そう。神殿を作った後、神子様は王都に留まったりしないで、ディルカメネスじゅうを訪ね歩いたんだって。ここには賑やかな王都を嫌った人たちが住んでいて、そんな私たちのご先祖様にも、神子様は優しくしてくださった」
 村が温暖な気候を保っているのもそのためだ。地図に載らないほどの村落であるのだろう、いくら周辺の地理を思い浮かべたところで、その在り処には見当がつかない。あとで詳しく話を聞く必要があるなと心に留めて、とうとう尋ねるべき事が無くなったことに気付く。
 しかし少女の方はちらちらとハルミヤをうかがっては、何事か言いたそうに指先を組み合わせている。無視を決め込むのもはばかられて、仕方なしに「何だ」と声をかけた。
「な、なにって」
「言いたいことがあるなら言ってくれ。目につく」
 少女が目を丸くする。ややあって、気まずそうにはにかんだ。
「同じぐらいの女の子と話すの、初めてだから。ちょっとそわそわしちゃって」
 ――他の家の子供は。
 言いかけて、やめた。ただでさえこぢんまりとした農村に、子供が溢れかえっているとは考えにくい。若者も夏季を見はからって王都や別の町に移り住んでしまうのだろう、遠くを歩いていく人々のほとんどは腰の曲がった老爺だった。
(なら、この娘は)
 周囲に親類の影は無い。並んだ椅子にも使われた形跡が無かった。ひとりで畑を耕し、山羊を抱えて暮らしているのだ。掃除が行き届かなくなるのも当然だろう。
(……誰も、最初からひとりではないだろうが)
 孤児らしい影は感じさせない。さぞかし愛情を受けて育ってきたのだろうとハルミヤは投げやりに考える。
 少女の生い立ちに思いを巡らせていられたのもそこまでだった。アルヘナの長い影が道に下り、大股で二人の元へ歩を進める。緑の瞳は一度だけハルミヤを捉えたが、感慨もないまま、元の通りに逸らされた。急ぐ様子もなく二人に歩み寄ると、少女を見下ろす。
「娘。これをお前に渡せと言われた」
 アルヘナが掲げたのは一本の切り花だ。黄の花弁がたおやかに揺れるのを、少女は苦い顔で見つめていた。貰っちゃったものは仕方が無いね、と渋々受け取って笑う。
「うん、……うん、ええと、ありがとう。そろそろご飯にしようか、あなたも起きたことだしね」
 振り切るようにして足を動かす。少女の表情に影が差したのは、それが初めてのことだった。