声掛けをきっかけに、アルヘナは慎重に身をかがめていく。滑り落ちないようにと背に張り付いたハルミヤを目だけで確認し、狼に似た動きで地を蹴った。十数歩ほどを駆け抜けたところで、後ろ脚をばねにして跳ね上がる。
「……っ」
 重力に従いかけた体躯は、翼の躍動によって急激に持ち上げられる。全身を揺らされる感覚は吐き気を呼んだ。ハルミヤは息を詰めたが、反射で閉じかけた目だけは意地で開いていた。
 何度かの羽ばたきの末に、アルヘナは体勢を縦にしようとする。ハルミヤが慌てて背を殴りつけると、ああ、と気の抜けた声と共に頸が曲げられた。水平にされた首の上へと這いあがって、ようやく呼吸が許される。
 風は強い。大粒の雪が礫のように空中の異物を襲うので、安易に体を立ててもいられなかった。
 ハルミヤは全身に力を込めて、固い頸の付け根へと伏せていた。そうでもしていなければ容易く吹きとばされていただろう。眼下では白一色の起伏が流れ波打ち、その速度を知らしめる。小さな体が落下しないことを見て取って、アルヘナはさらに速度を上げていった。
「王都の場所は、分かるのか」
 切れ切れに問えば、馬鹿にするような声色が返った。
「ここはもともと我らの土地だ。そこに人が入り込んできただけのこと。腫れものの場所など探るまでもない」
「知っていて、向かわなかったのか」
 銀龍の力をもってすれば、人の王国を凪ぎ払うことなど造作もないことだろう。しかし歴史書にそうした騒動の記述はない。ならばアルヘナは、孤独を憂えておきながら、一度として命龍を取りかえそうともしなかったのだ。
 長い沈黙があった。無反応かとハルミヤが諦めようとした頃に、アルヘナは「約束だよ」と吐き捨てる。
「シルヴァスタと、あれが連れた娘との、な。遺言と呼んでもいい。人どもに、どうか危害を及ぼしてくれるなと」
 約束。龍という種には絶対の言葉だった。
 龍は太古より約を重んじる生き物だ。長い生を送る彼らは、生涯自ら結んだ約を違えることはしない。龍が数を減らしていったのもそこに理由がある。かつて本来屈強である龍を蝕んだのは、彼らをして弱いと称される人であった。彼らに情を映し盟約を結んだ龍は、それに縛られて次々と命を失っていったという。
(ただの寝物語だな)
 龍と人の交わりは、千年、あるいは万年も昔のことだ。今となっては子供を戒める類の物語に過ぎない。その真偽のほどを知るのもやはり龍ばかりなのだろう。ハルミヤは逸れた思考を目の前の龍に戻した。
「命龍シルヴァスタは、神子とともにある」
「嘘が通じるとでも思っているのか? 人がそれほど生きられるものか」
「お前の知る神子じゃない。代々受け継がれてきた……そう、肩書きだ」
 口にした途端陳腐に感じられた。首を振って俗な疑念を追い払う。
 先代の神子は死に、新たな神子は未だその座を受け継いでいない。ならばいま現在、神子は存在していないことになる。それを知るのは神殿の上部と学院長、ハルミヤとエツィラのみだろう。このままハルミヤがディルカメネスを離れれば、神子を継ぐのはエツィラであるに違いない。
(誰が、許すものか)
 胸に呟き、下唇を噛みしめた。
 眼下の景色はいつまで経っても色を変えない。龍の翼をもってしても雪原は広大であるのだろう。夏季に用いられる馬車でも、国境沿いまでたどり着くのに五日以上の旅程を要するという。捻じれた転移陣はその国境近くにまでハルミヤを飛ばしたのだ。
 長い飛行が続き、わずかに体が傾く。ん、と先に声を上げたのはアルヘナだった。
「どうした」
「ハルミヤ。私が盟約を交わしたのは、これが初めてのことだ」
 唐突な発言の真意をつかみかねる。その間にも、龍の体は放物線を描いて高度を下げていく。みるみるうちに近付く地面を見やり、落下していると気付いて初めて焦りが出た。
「アルヘナ、何が」
「まったく面倒なことだ。人の器に押し込められるとは」
 一直線に王都を目指していた龍が、そこに至ってぐるりと旋回する。遠心力に負けまいとハルミヤは腕に力を込めた。片目だけで龍の頭を仰ぐ。
「いったい、」
「盟約が私を縛る。この身も、この形のありようも」
「悠長に話している場合か!」
「知らん。……全てはお前が人であるせいだ。結論が知りたいなら聞かせてやる、要するに」
「おい、まさか」
「落ちるぞ」
 ぱちんと弾けるような音がした。それまで指をかけていた鱗が、一瞬にして消え去る。銀の光が露と消えれば、次に感じるのは体の重みだ。縋るあてがなければ、自力で浮かび上がるような真似ができるはずもない。
 ぐんぐんと迫る白色に呼吸が止まる。叩きつけられる、その瞬間に、申し訳程度の浮遊感を覚えた。意識を保っていられたのはそのためだ。
「……う、」
 中途半端な寸止めが命を留めたのは確かだった。しかしいざ地面に伏せってみれば、心臓を直接殴りつけられたかのような衝撃に、指先ひとつ動かすこともできない。目だけを動かして周囲を探ると、やや離れた位置にひとつの人影が倒れていた。
(誰、だ)
 身に纏った法衣は、ハルミヤのものと似て非なるものだ。袖口を彩る複雑な刺繍は、かつてディルカメネスで用いられていた飾り縫いに近い。背はすらりと高く引き締まった印象を与えるが、体つきが女性のものであることは否定できなかった。何よりも目を引くのは、頭から腰までに伸びる、鮮烈なまでの銀色。風になびくその髪が、龍の鱗と同じ光沢を持っていることにようやく気付く。
 アルヘナ、と呼びかけた。――つもりだった。しかし損傷を受けたらしい肺では、声を紡ぐこともかなわない。口を開閉させるのみのハルミヤの視線の先で、その女性がむくりと体を起こした。
 向けられた白皙は鉄面皮だった。不機嫌そうにすら映るそれが彼女の素なのだろう。切れ長の目がハルミヤを捉え、やや細められる。
「生きているな。こうでもしてやらねば死ぬところだったんだ、よくよく感謝するがいい」
(……なに、が、感謝だ)
 地面に激突する寸前で、アルヘナが衝突速度を緩めたのだろう。確かに一命は取り留めたものの、膝や胸元には今も鈍痛がわだかまっている。あちこちの骨にひびが入っているのか、動くことはおろか、喋ることすらままならない。待っていれば治るとはいえ苛立ちは募るばかりだ。
 ハルミヤは視線で非難を訴えるが、アルヘナはけろりとした顔で周囲を眺めている。人間らしい気遣いを龍に求めても無意味なのだろう。
「元の姿に戻れない以上、もう飛ぶことはできん。お前が立ち直るまでは足止めだ。迷惑な話だな」
 自分の責任を棚にあげて、アルヘナは無表情のまま愚痴を吐いている。能天気な龍を見上げ、ハルミヤは盛大に顔をしかめた。お前は盟約を理解しているのか、と言い募ろうとしても、声を発することすらできないのでは。
 体が元に戻ったところで、雪原を越えられなければ待つのは死だけだ。どうする、と自問する。ハルミヤの耳が彼方の声を拾ったのはそのときだった。
「……です、こっち! 何かが落ちて……」
 曇天に声が響く。防寒具のためにくぐもってはいるが、それは少女らしい響きを伴っていた。雪を踏みしめる足音に続いて、眩む視界の狭間に、いくつかの人影を見る。
 先頭を駆けてきたのは毛皮にくるまれた小さな影だった。アルヘナを見るなり、びくりと立ち竦む。
「ひ、ひと!? 人がいます、助けないと……って、え、ふたり!? ろ……ロドルフさん、急いで!」
 毛皮がぱたぱたと走ってきて、倒れたハルミヤの前に膝をつく。そうして、まだハルミヤの意識が残っていることに驚いた様子を見せた。ロドルフさん、ロドルフさん、と、背後に続く青年を呼ぶ。
(王都の人間では、ない、か)
 言葉こそ共用語ではあるが、若干の訛りが見られる。おそらくは近くに集落があるのだろう。
 ともあれ、ひとまずは命の心配をしなくて済んだ。気の緩みは急にハルミヤの目蓋を重くした。そのまま視界を閉ざしてしまえば、すぐに意識が落ちる。
 荒れ狂う風の音も、やがて耳に届かなくなった。