目を覚ましたとき、自室に花が飾られていることに気がついた。
誰かが運んできたのだろう。剣のごとくに葉を伸ばした青花、小ぶりな黄花に、楚々と立つ赤花の三種を中心として、主張のないように白の花が散らされている。気の効きすぎた人間もいるものだとは思ったが、思い当たる贈り主はひとりしかいなかった。
鐘の音が響く。伸びきった銀糸を揺らし、ハルミヤは礼拝堂の天井を見上げた。
鈍色の龍と向き合う少女の絵画は、描き直されることもないままで神殿の空を彩っている。龍の頸へ掲げられた掌も、そのときにはもう腐り始めていたのだろうなと、とりとめのないことを考えた。
こつりと床が鳴る。
「どうも、妃殿下」
ハルミヤの額に皺を刻んだのは、変わらず馴れ馴れしい男の声だった。
「……跳鼠」呼んで、ハルミヤは憤懣を露わにする。「神子様、だ。ここではそう呼べと何度も言った」
「似たようなものだよ、少なくとも俺たちにとってみればね。雲の上の人間だ」
ハルミヤの身を覆った白布に、もう象徴的な意味合いは込められていなかった。
神たる命龍が死した後も、神殿はディルカメネスに門を構え続けている。そうせざるを得なかったのだ。縋るべき相手がこの世になく、その恩寵すら失われた世でも、冬に怯える民は心の依りどころを神殿に求めていたのだから。
悪しき神子は龍の力を奪い、もろともに果てた。
それが神殿の伝えた幕引きだった。
新たな神子として据えられたのは、銀龍との盟約を果たしたハルミヤだ。誰にも使えなくなった法術を行使する娘――その幻想は、ハルミヤの背に押し付けられた烙印から民の目を背けさせるには十分なものだったのだ。
「それを私の前で口にする度胸だけは誉めてやる。用件だけ言ってさっさと失せろ」
「こわいこわい……二つ伝言だよ。まずは一つ目、殿下から。部屋に花を贈っておいたとね」
やはり、だ。ハルミヤは呆れて息をつく。
いっそ皮肉な花の選択だった。その切り花を、よりにもよって、今日この日に送りつける肝の太さを持ち合わせているのは彼ぐらいのものだ。
「必要ならまた手配するから言ってくれ、と。気に入らないなら捨ててくれて構わないとのことだよ」
「言われずともそうしている。もっと別のものを用意しておけと伝えろ」
平静を装った言葉に対し、勘ぐるように「へえ」と打たれた相槌が不愉快だった。ハルミヤは腰に手をやって続きを促す。
「もう一つ、これはお付きの女の子からの又聞きだ。ドレスを新調するから、あとで採寸がしたいとさ」
「ああ……」
生返事をする。面倒ではあるが避けられないことだ。
ラケイユの戴冠の日は近い。シャルロットらがせわしなく歩きまわっているのも、それに備えてのことなのだろう。先代の神子の死を経て急ぎ取り行われた婚儀に、主たるハルミヤが急ごしらえの花嫁衣装で出席するほかなかったのを未だに悔いているのだ。
溜め息が出る。耳ざとく聞きとめた跳鼠が、面白がるように眉を揺らした。
「あんたの婚儀からもう一年か。拾われ子がずいぶん御立派になったものだ、なあ、ハルミヤ王太子妃殿下……っと、危ない!」
跳鼠がわざとらしくのけぞったのは、その眼前に氷の粒が飛んだためだった。飛礫を指の一振りで消し去って、ハルミヤはきつく彼を睨みつける。
「口を慎めよ跳鼠。ここは私の場所だ。お前がどんなに都合のいい駒で、どれだけラケイユに優遇されたところで、ここにおいては関係がない。首を飛ばされないうちに逃げ出しておくことだな」
「はは、神子様の仰せのままに」
跳鼠はくるりと身を翻し、慇懃な一礼を最後に去っていく。残されたのはハルミヤと、滞る苛立ちだけだった。
神官はハルミヤを避けて通るため、滅多なことがなければ顔を合わせる機会はない。王家からの伝言を届ける者がぽつりぽつりと訪れるほかには、神子として神殿に立つハルミヤに会いに来る人間はいなかった。
朝早くに王宮を出、夜も更ける頃に帰路に付く毎日の繰り返し。退屈を紛らわせようと本を読もうが、耐えかねて街に出ようが、誰も引き止めはしなかった。
(神子など象徴に過ぎない)
その空座に誰かが座っていることだけが意味を為す。神殿を血の力で配下に置きたい王家にとっても、民からの支持を留め置きたい神殿にとっても、神子の名は依然として望まれ続ける肩書きだった。
危険だと身を案じる者のいないことも理由の一つなのだろう。ハルミヤは小さく鼻を鳴らす。袖口に隠した髪紐で髪をまとめ上げ、法衣の上衣を脱ぎ捨てると、礼拝堂から続く小部屋に置いたままの私服を引き抜いた。
花束からは、思いのほかに澄み切った香りがした。鼻を近付けでもしなければ気付かないほどの薄い芳香は、それが荷物に移ることのないようにとの配慮の表れであったのだろう。
何から何まで気の回る、と思う。そういうところが嫌いなのだ。
足踏み荒く中央街を進むハルミヤに、街の誰も注意を払わない。命龍を失った王都は幾分かその賑わいをなくしていた。
それも当然のこと。大怪我を法術が消し去ってくれた日はもう帰らない。痛みを取り戻して、人々はようやく恐怖を思い出したのだ。
諸外国の力を借りて乗り越えた一度目の冬は、ディルカメネスに大きな傷跡を残していった。けれどもその傷跡は自力で治さねばならないものだった。破れた屋根を作り直し、剥がれた石畳を張り替えて、今再びの春が来る。龍の国もいつかは人の国になるのだろう。
五度目の十字路を左へ、突き当りを三度曲がって左手。
慣れきった道程を歩ききれば、真新しい建造物が顔を出した。
薄く補強用の塗装が施された白壁、均等に並ぶ柱。すっかり改築され、数百年前の輝きを取り戻した修道院が紋を開いている。定期礼拝の時間が終わった今、人気がないと悟ってハルミヤはそこを訪れたのだ。
時折ふらりと現れる王太子妃の奇行に、修道院の主はすでに気が付いているだろう。扉を締め切りカーテンを引くのは、暗黙の了解の表れだった。
「エツィラ」
バルク、クロエ。次々に名を口に出して、ハルミヤは苦い笑みを浮かべた。
彼らの墓はない。自分の腕の中に消えたエツィラはおろか、バルクやクロエの遺体まで、結局どこにも見つけられなかった。せめてもと墓石を立てることも、彼ら罪人には許されなかったのだ。
ハルミヤの手に花束が揺れる。透明な香りは空のようだった。鼻孔へともぐりこみ、腹の底にささやかな痛みを走らせる。けれどもその痛みこそ、ハルミヤが抱えてゆくと誓ったものだった。
「昔は毎日のようにここに来ていたのに、なんだか久しぶりな気がする。怒っているかもしれないな」
心の底で首を振る。縋りついていたのは自分だ。彼らはすでに王都を離れ、蒼穹へと姿を消している。語りかける行為に意味のないことに、ハルミヤとて気が付いてはいた。それでも離れられないのは弱さゆえだ。
エツィラを殺して一年。ちょうど一年だった。
肉を破った感触を、掌はまだ憶えている。
いつかは自分も、彼らと同じ所へ行くのだろう。エツィラのようにとはいかずとも、ハルミヤの体には確かな衰えが滲んでいた。銀龍に縛られた心臓は、ゆるやかに、時間をかけて、朽ち果てていくのだ。自分の命が十年と保たないことは悟られた。
それでも本来の寿命に比べれば、十分すぎるほどの猶予だった。
「生きていく。……私は最後まで、生きていくから」
救われた命を。守られた命を。今度は自分から、望めるように。
花弁をもぎ取ってはばらまいて、修道院の庭にまだらを降らせる。赤、青、黄、白、大きさも厚みもばらばらの花びらが混ざり合っては揺れた。
それをじっと見下ろして、ハルミヤは踵を返す。昼告げの鐘が遠くに響いていた。神子に用事がないとはいえ、あまり帰りが遅くなれば白い目で見られるだろう。歩み出そうとしたところで、しかし雪の香りに呼び止められた。
突風が吹く。銀色線をなびかせて。
花弁は地から巻き上げられ、日の光を透かしては、王都の空を横切っていく。ひらりひらりと瞬きながら、澄み渡る空にまばらな星図を作り出す。
その光に気付く者はいないのだろう。けれど自分は知っている。
――いつか、傍へ。
舞い降りた白の花弁を握りしめて、ハルミヤは空の果てを見つめていた。
(終)