勝鬨の声を背に聞きながら、駆ける。
 金切り声じみた断末魔が鳴りわたったとき、無力化された護神兵は散り散りに逃げ出した。剣一つで使命を果たそうとした者たちもじきに捕えられるだろう。残るは幕引きの方法を探るだけだ。その騒ぎの裏に隠れるようにして、ラケイユは王宮を抜け出していた。
 護神兵らの身に何が起こったのか。想像するのは容易い。
 法術はかき消され、護符はその意味を失った。力の源が消えうせたためだ。ディルカメネス全域にまで響いたであろう叫び声を、命龍のものだとするならば納得がいく。
 ならば彼女は剣を取ったのだ。
(ハルミヤ)
 銀龍は国を裏返し得る駒だった。それと盟約を交わしたハルミヤもまた。他に方法はない、逆らえないと知っていて、ラケイユは彼女を王宮に引き込んだ。善良な助力者の皮をかぶりながら、足場なき少女を利用したのだ。
 残された結末は二つ。ハルミヤが死ぬか、エツィラが死ぬか――王家が滅びるか、神殿が滅びるか。ハルミヤを選択へと導いたのもまたラケイユ自身だ。
 法術が失われたことが、まま、彼女の答えだった。王宮の前庭が静まり返ったあの一瞬を、ラケイユはこの上ない怖気とともに迎え入れたのだ。
 望まれていた――そして望んでもいた筋書きだった。命龍は死を迎え、神殿は役割を終えた。国の全権は再び王の掌に委ねられ、ディルカメネスは王国の名を取り戻す。しかし上がった喝采、活気を取り戻す兵たちの歓声を聞いても、ラケイユの体の震えは止まらなかった。

「――――」

 足が鈍ったのは、声が届いたからだった。
 変わりない景色だ。まき散らされた瓦礫、それを埋めて生い茂る草花。かれらは穏やかな空気の中にあって、憂うように葉を揺らす。風は葉をこすりあわせるには弱く、静寂をもって修道院を過去に沈めていた。
 けれども、泣き声だけは。
 声の殺し方を知らない彼女の泣き声だけは、誰の耳にも止まらず、誰の目を引くこともしないまま、蒼空の彼方へと昇っていった。
 小さな背中だ。何度となく見送り、遠目に眺めた背中だった。いつ崩れ落ちても不思議ではなく、また座り込んでしまうことを望んでもいた。ようやく草原の上に折りたたまれた足はあまりにも細く、裸足の足裏には幾重もの切り傷が残っていた。厚い皮膚に覆われたその足は、途方もない数の亡骸を踏んできたのだろう。
 彼女の腕の中には、もう、なにもなかった。
 膝をつく。なにかを抱えていたかのように曲げられた腕ごと、彼女を背から抱きしめた。細い骨格がぴくりと跳ねても、嗚咽は途切れることなく溢れていった。
「ハルミヤ」
 泣き方を知らない少女だった。誰を呼ぶこともできない少女だった。ゆえに響いた嗚咽は、弔いの他には意味を為さなかった。ひとりで泣いて、二度と立ち上がることはないのだろうと思った。
「終わった、終わったんだ。もうきみは走らなくていいんだ」
 何を言ったところで、彼女には届いていないのだろう。
 ラケイユはこぼれ落ちる涙を拭ってやることもせず、その声だけに耳を澄ましていた。
「椅子を用意する。ほかのなによりも高いところに、用意するから」
 星が落ちる。人の手の上に。
 赤い光が瞳を焦がすようで、目を開いてもいられなかった。
「俺の隣に、座ってくれないか」
 少女の腕が解かれた。抱いた名残すら解き放つかのように。途端に一際強い風が吹き抜けて、その胸の中を攫っていく。
 ――おやすみ、エツィラ。
 掠れた声が、空に融けていった。