剣戟の音が響いている。それを背後に聞きながら、ハルミヤは部屋の中央に座りこんでいた。
 学徒の似姿を作り続けていた神官たちは、部屋に乱入したハルミヤをエツィラと見間違えた。ならば本来、ここに訪れるべき人間はエツィラであったのだ。彼女は彼らにとって見慣れた存在であり、定期的に顔を合わせる相手でもあったということだろう。
 しかしハルミヤは、一度としてこの部屋に踏み入ったことがない。他の誰もがそうであるように、神殿の隠した“奇跡”のことを知らずに過ごしてきた。
 ならばエツィラは。あの片割れはどうだったのか。
 何度となく単位を取り落とし、補習に駆り出されていた妹。彼女がハルミヤと離れて行動した機会は数知れなかった。だがその間に行われていたものは、本当に補習であったのか。
 ――もしもその時間が、彼らのもとに出向くために用いられていたのだとしたら。
「……う」
 今すぐにでも倒れ伏したい衝動に動かされる。ハルミヤは耐えるように強く歯を食いしばった。何を信じ、何を疑うべきか。それまで当然のように踏み固めていたものが、端から崩されていくような心地がした。
 他のなにが自分を騙ろうと、エツィラ自身に騙されることだけはないと思っていた。そう決めつけていたのだ。彼女には、自分に嘘をつくことなどできないと。何故ならあれは妹だった。紛れもなく、自分の片割れであったのだから。
「ハルミヤ!」
 絶句を切り裂いて、バルクの声がこだまする。護神兵の刃を押し返しながら、彼が何事か叫んでいる。しかしハルミヤの膝には力が入らなかった。
 悠然とした靴音が近づき、ハルミヤの背後に立ち止まる。
「ハルミヤ」
 振り返ることもかなわない。
 名を呼ばれた、と思ったときには背を蹴られていた。固い靴先は容赦なく肉をえぐり、ハルミヤを前のめりに押し倒す。驚きに振り返ったハルミヤを、アルヘナは今にも舌打ちをしそうな表情で見下していた。
「お前の命は誰のものだ」
 目を瞠る。ぎらついた緑眼には、軽蔑とともに叱咤の光が籠められていた。
 その先にもうひとり、他人の姿を見る。命をくれと乞うた青年の揺れぬ輝きを。
(……私の、命)
 自分では不要とあしらった命を、別の誰かが捨てるなと言う。くず石が宝玉として見出される。
 再会を誓ってしまえば自暴自棄は許されなかった。今や自分は、自分のためだけの生を歩んでいるわけではない。
 無言を呑んで雑念を払う。肺の中身を吐ききると、冷えた空気をため込んだ。くり返し瞬きをするにつれ、やがて視界は冴えていく。手をつき、立ち上がれば、もう膝が笑うことはなかった。
「バルク、退くぞ!」
 返事を待たずに駆け出した。すぐに金属音がやみ、追いすがる護神兵はアルヘナがひと薙ぎする。
 走りながら思いだす。バルクが制止を呼び掛けたとき、神官たちは奥の通路に向かって逃げ出そうとした。助けを呼ぼうとしたのか、単に逃げ道を求めたのかは定かではないが、退路を断たれたハルミヤが縋る場所はそこだけだった。
 細い通路を抜け、目前の扉を破る。ぽつねんと待つ小部屋を見て、ハルミヤは言葉を失った。
 見覚えのある景色だ。異様なほどに小ざっぱりとした空間、埃のない部屋。白い石段の隙間に掘られた文様。アルヘナの力に呼応してか、描かれた転移陣が穏やかに光を纏っていた。
 袋小路だ。笑いがこぼれ、理解が降った。
 扉を押さえつけたバルクが、ああ、と吐息交じりの声を漏らす。
「……ハルミヤ」
「嫌だ」
「他にないんだ。ここは地下だし、後ろには兵が列を作っている。扉を離したら、あとは押しつぶされるだけだろう」
 ハルミヤは唇を噛みしめる。皮が裂け血が流れ出そうとも、力を緩めることはしなかった。
「戦えばいい。私はもう人を殺したんだ。いくらだって斬れる、戦える」
「無理だって分かっているんだろう、お前らしくもない」
「らしさなんかにこだわっていられるか!」
 バルクの押さえた扉からは、鈍い音が絶え間なく響いてくる。蹴りつけ、剣でも歯が立たないと悟ったならば、法術が用いられるのも時間の問題だろう。
 しかし首を縦に振れば、彼は今度こそ戻ってこなくなる。遮るように否定を続けるハルミヤに、バルクはふと笑みを浮かべてみせた。
「城に行ったとき、王太子殿下と話をしたんだ。すごいな、あの人は」
「やめてくれ」
「なあハルミヤ、見守ってやるつもりで、俺はただ自分の理想を押し付けていたのかもしれない。叶えられなかった夢を、全部お前に投げだしていたのかもしれない」
 バルクが歯を見せる。幼い笑顔には、見返してやれと笑う過去の面影がちらついた。
「俺はずっと、家の言うままに生きてきたんだ。始めは学院を目指すように言われて、才能がないと悟られれば護神兵として駆り出された。そうやって生きることが当然だと思っていた。……自分を振り返ったのは、お前に出会ってからだ」
 生き方を知らない汚い子供が、路地でうずくまって泣いている。誰もが彼女を無視して通り過ぎていく。その光景が、従順な少年を引き止めた。
「初めて抗った。初めて望んだ。お前を通して、俺はようやく自分になれる気がしたんだ」
 バルクはハルミヤの肩を押しのける。間もなく紡ぎだされる祈りの文句に、転移陣が輝きを放った。
「もう失敗しないさ。今度こそちゃんと送ってやる」
 視界が歪むのと、扉が破られるのが同時だった。バルクはその衝撃につんのめるも、すぐに剥き身の剣を構え直して振り返る。
「バルク」
「俺の選択だ。お前のためでも、お前のせいでもない。やっとわかった――誰も自分の答えを、誰かのせいにはできないんだ。だから」
「バルク!」
「せめて、無駄じゃなかったって言ってくれ――!」
 刃が悲鳴を上げる。陣の光を浴びて、刀身が煌めいた。始めに遮断されたのは音、続いて空気。薄れゆく光景の中になだれ込む護神兵たちの姿を見た。やがて視界は白に塗りつぶされ、眩しさに耐えきれず目蓋を閉じる。
 叫び声は、もう届かなかった。

     *

「あなたには、その身を賭してほしい」
 金色の瞳は底冷えを宿して輝く。
 その静けさに呑まれながら、バルクは彼に流れる血に納得を覚えていた。
 少女たちが出ていった後の部屋には、両肩を押さえつけるような重圧が満ちている。しかしバルクの視界の中央で、皇太子たる青年はそれに動じることもなく腰を下ろしていた。居心地の悪さを感じていないのか、それとも、常のことと受け入れてしまっているのか。先ほどまでは穏やかであった表情も、今やバルクを見定めようとするかのような鋭さを帯びていた。
「近い未来、彼女はいずれ神殿に乗り込むことになるでしょう。妹との再会を求める以上は避けられないことだ」
「エツィラと」
 バルクは辛うじて喉を震わせる。ラケイユが頷いた。
「先導が要ります。ハルミヤを神殿の中に忍び込ませ、内部を案内する人間が」
「俺にそれを……神殿を裏切れ、と」
 ええ、とラケイユが肯定を示す。取り繕うつもりもないらしい。バルクは小さく唸った。
「神殿の中を歩いているのは、神官と護神兵ぐらいです。忍び込むと言っても法衣がなければ」
「つてがあります。ハルミヤとの会話の場を与える代わりに、法衣を貸し与えるようにと伝えてある」
「取引、ですか」
「約束ですよ」
 そうした会話があったことも、ハルミヤ自身には隠されているのだろう。バルクは舌を巻く。彼の言う“つて”と同じように、手の中の駒として見られている自覚があった。沈黙にバルクの迷いを見て取ってか、ラケイユは瞳を伏せてみせる。
「彼女の味方は少ない。あなたに頼むほかにないんだ」
 胸を殴られるような衝撃に、バルクは思わず顔をしかめた。
 思い知る――これは王族だ。人の扱い方を、動かし方を知っている。その上で、情を手綱として用いることにためらいがない人間だ。
「卑怯な人だ」
 呟きに、ラケイユは苦笑を見せた。緊張を崩せば幼さがちらつく。しかしひと呼吸の後にはそれを消し去って、再び仮面を張り付けてみせた。
「あなたに委ねる。彼女の生死、望みが果たされるか否か、そのすべてを。代わりに、あなたの命を賭してほしい」
「約束ですか」
「取引ですよ」
 それならとバルクは首裏に手をかけた。
 掌に収まったのは、今まで片時も身から離さなかった護符だった。飾り気のない龍麟を机の上に下ろしラケイユの側に滑らせる。
「あいつはもう俺を信じないでしょうから。それを見せてやればいい」
 失礼します。今日は申し訳ありませんでした。決まりきった挨拶を残して、バルクは席を立つ。重みはいつの間にか消え失せていて、むしろ足元が浮つくような心地さえしていた。
「……変わらず、ご友人でしょう」
 護符を拾い上げながら、独り言のようにラケイユは言う。扉にかけられたバルクの手は、そこに至ってぴたりと動きを止めた。
「ハルミヤ・ディルカを形作ったのは、妹という鏡と、あなたという光だった。……だから彼女は信じ続けるでしょう。そうすることしか知らないんだ」
 裏切られようと、ただ、盲目なまでの信頼を向ける。それが彼女の在り方であると。
 バルクは片手で顔を覆った。指の隙間から薄明かりが漏れるので、きつく目を閉じて暗闇を描く。途端まなうらに浮かび上がったものは、鉄格子の中に転がった少女の姿だった。
「わかっていますよ。ずっと前から」
 天上を仰ぎ見る。ランプの光が目を焼いた。
 かけてやるべきだった言葉も、ようやく見つけ出せた気がした。