呼吸を抑え、気取られぬように数える。剣を腰にさした護神兵が四人、彼らの背後に扉。いくら待てどもそれを出入りする人影はない。一帯は静まったまま、水路の水音だけが鼓膜を揺らしていく。
 ハルミヤは彼らの死角となる壁に張り付き、扉の方向を伺う。バルクが腰の剣に手をやった。
「あそこの見張りはほとんど交代しない。朝も夜も張り付いたままだ」
 神殿の構造図を脳裏に思い描き、今しがた歩いてきた道程と写し合わせる。図に描かれていなかったのは彼らの守る扉に違いなかった。
「突破するしかないか」
 周囲を見渡す。眼前の兵のほかには足音も影も見当たらなかった。祝祭の二日目ともなれば神官の大多数が街に出ているのだろう。その日は街中での礼拝が行われる日で、高位の神官たちはこぞって神殿を離れているはずだった。当然護神兵たちも彼らの供につけられている。
 しかしそれも騒ぎを起こすまでのことだ。彼らが声を上げれば、いくらも経たないうちに加勢は現れるに違いない。
(一人ずつ相手にしている時間はない)
 ハルミヤは掌を開閉し、自らの心臓の音に耳を傾ける。
 盟約によって正常に動くようになった心臓は、龍の力の根源といっても過言ではなかった。力はその心臓を通じてハルミヤに伝わり、事象として引き出されることとなる。
「……風を」
 指先の上に風の渦を、掌の中に刃を。当然のように行っていた作業をなぞり直すよう、丁寧に。指の隙間に風が通り抜けるのを確かに感じ取ると、それを端から掴み取っては編み上げる。
 放つ先は護神兵の頭上、龍の翼を模した彫像だ。音もなくそれを砕き割ると、兵たちの頭上から叩きつける。全員が昏倒したことを確認して、ハルミヤはほっと息をついた。
(剣は必要なかったか)
 押さえつけるように剣の柄をなぞり、小さく首を振る。扉に近づいてみれば、鍵がかかっている様子はなかった。警備をつけるにしては簡素なそれに手をかける。唾を呑み、一息に開け放った。
 ふいに、薬の匂いが鼻をつく。
「エツィラか?」
 そう声を放ったのは神官だった。
 ハルミヤは無言でその広間に目を走らせる。手元の紙に何事かを書きつける十数人の神官たち、その間に並ぶ大型の箱の数々。四方の壁には段組みの為された棚が設えられ、その中にもやはり同じ箱が収められている。どの箱も蓋が閉められており、側面には数行の文字が走り書きされていた。
(中になにが)
 よぎった不安は、その箱の大きさのせいだった。どの箱にも丁重な管理がなされていることを鑑みれば、貴重品が入っていてもおかしくはない。
 神官は肩を下ろし、あきれ顔で首を振る。
「今日は呼び出しもかけていないはずだ。報告か」
「……なんだ、ここは」
「エツィラ?」
 ハルミヤの顔色をうかがった神官が次第に目の色を変えていく。まさか、と彼の唇が呟くのを見て、真っ先に動いたのはバルクだった。
「全員動くな!」
 叱咤が響く。彼は後ろ手に扉を閉め、はっと顔を上げた彼らを睥睨した。広間の奥から続く通路に走った神官には、アルヘナが突風を浴びせかける。軽々と吹きとんだ彼を見て、みな一様に動きを止めた。
 呆然としていたのはハルミヤだけだ。神官の横を通り抜け、手近な箱に右手をかける。
「栄暦、五一二年……六年前」
 記された文字をたどれば、暦のほかにも細かな文章が続く。
 ――状態は良好。劣化無し。言語能力に問題有り。法術能力は同等。後日生まれたものに劣るため保管を推奨、管理者の判断に一任。
(法術能力……?)
 悪寒が背筋を駆け上る。箱に触れた指先はわなないた。絶え間なくわめきたてる心臓にはもう一方の手を寄せる。深呼吸の後に蓋を持ち上げた。
 棺のようだ。
 そう感じたのも、間違いではなかったのだろう。
「……っ!」
 ハルミヤの手を離れ、蓋は高い音を立てて転がった。飛び退った少女の前で回転すると、ゆっくりと地面の上に落ち着いていく。
 それに目を向けることもせず、ハルミヤはただ右腕を震わせていた。
「人……?」
 バルクの驚きも耳には入らない。ハルミヤは力なく足を動かして、隣の箱を開く。その中に同様にして眠る少女の姿を目にしてしまえば、もはや瞬きをすることすらできなかった。
「リディ」
 自分は何度も彼女と言葉を交わし、望まずとも顔を流し見てきた。あれから何ヶ月が過ぎたとしても、その面影は脳裏にくっきりと焼きついて離れない。リディ・コンスタン、学院を出ていった少女。友人であることを否定したのは自分だった。
 だからこそありえるはずがなかったのだ。
 同じ顔をした二人の少女が、同じ寝姿で、別の棺の中に横たわっている、などと。
(そんな、馬鹿な、ことが)
 歯は震え、視界が眩む。しかし立ち尽くした体とは裏腹に、頭は次々と記憶を掘り起こしていった。
 リディが姿を消した日、コレットらが彼女の姿を追ったあの日。リディはハルミヤらよりも先に学院へ帰りついていた。一方でラケイユは、同時刻に神殿へと入っていた彼女の姿を目撃している。
 共に起こりえることのないそれらを両立させる条件は一つ。リディという少女が、二人以上存在していることだけだった。
 瞠目したまま彼女を見下ろし、胸元が微かに上下していることに衝撃を受ける。木箱に倒れた少女は、どちらも死んではいない。眠りについているだけだ。おそらくは食事も排泄も行わず、目覚めることもないままで。
「……まさか」
「おい、ハルミヤ」
 制止も聞かず、手当たり次第に箱を開いていく。見知らぬ少女、見覚えのある少年の顔が、二つ三つと並んではハルミヤの手を止めようとする。ついに息が切れた頃、ハルミヤの目は一行の文字列に引き寄せられた。
 栄暦五百十八年。添えられた日付は数ヶ月前のものだ。
 それが“製造日”であることには、もう気付いていた。
 蓋を転がす。小麦色の髪、日に焼けた肌。目蓋の中にははしばみ色の瞳が籠められているのだろう。けれども彼女は深く眠りについたまま、目覚める気配も感じさせなかった。
「クロエ」
 リディに連れ戻されたクロエの寝顔を思い出し、ようやく理解する――あの日帰ってきたクロエは、偽物でしかなかったのだ、と。
 クロエは失踪した日、確かに神殿に捕えられていたのだ。命龍の力によって生み出された似姿だけが戻され、ハルミヤを引きずり出すための生き餌にされたのだろう。彼らのため必要とされるのは従順な傀儡だけだ。人形が作られた以上、本物が生きている必要はない。
(あいつは)
 誰の声も届かぬ場所で、殺されたのだ。
 助けを呼べども、怯えて泣こうとも、もう誰も助けには来ない場所で。
「ふざけるなよ、」
 神官の一人に詰め寄る。自分より頭一つは背の低い少女の瞳に、彼はおののいて後ずさった。
「ひ、必要なことなのだ! 神を守るため、国のために、必要だったから。命龍の奇跡で、ただ」
 一陣の風が彼の頬を裂く。神官は喉奥から悲鳴を漏らし、尻もちをついた。
 そうして生み出された彼ら、彼女らのどれだけが、目を覚ますこともないまま眠りについているのか。仮初めの命を与えられながら、生きることさえ許されなかったのか。
 ハルミヤは首を振る。くり返し、振り払うように。否定するように。捨て去ったものは盲信だった。
「……、んな、ことが、奇跡だなどと……!」
 声は裏返り、喉の奥でかすれた。
 これが神殿のしてきたことだというのか。ディルカメネスの誰もが尊び、信じ抜いた、信仰の辿りつくべき場所だというのか。ならばいっそ。
 いっそ私が。
「嫌な臭いがするな」
 風を閃かせたハルミヤの横に並び、アルヘナが漏らす。高い足音は集中をかき乱していった。部屋を横切っていく彼女に、神官たちが次々と道を譲る。
 足を止めたのは、ひとつの棺の傍らだ。
「ハルミヤ」
 呼ばい、銀龍はその髪を払う。
「私はお前を見つけ出したとき、龍の臭いに引き寄せられたと言った。お前から漂う臭い、龍の痕跡。牙の欠片などからは移りようもない、シルヴァスタの力そのものの臭いだ」
 躊躇なく引かれた足は、箱の横腹を蹴り飛ばした。
 箱は転がり、眠る少女を引きずり出す。止める者もいないままに床に倒れ、なお目を覚ます気配のない娘を。
「…………え」
 ばらまかれた髪は銀。頬に影を落とす睫毛もまた。華奢な体、細い首筋、薄い唇、肌は白く汚れの一つも浮かばない。目蓋に覆われた色に思いを巡らせる必要もなかった。――鏡の中を覗きさえすれば、同じ色の瞳が見つめ返してくるのだから。
「ハルミヤ」
 バルクが呼んだのは、どちらの少女であったのか。
 膝が折れる。脳はついに理解を拒んだ。しかし瞳はいつまでも、もう一人の自分を映し続ける。
(もう一人だって?)
 は、と息がこぼれる。いつ、誰が、もう一人だなどと言ったのだ。
 例えば神官が自分をエツィラと呼んだように、馬上のエツィラが自分を冷然と見下ろしたように。あるいはたった今、転がされたばかりの箱の中身のように。ハルミヤの頭に思い浮かぶのは、想像を裏付ける理由ばかりだった。
 破裂音が響き、背後の扉が開かれる。高らかに叫ばれたのは罪人の名だ。我先にと逃げ出した神官たちを見送りながらも、ハルミヤは口を開閉することしかできなかった。
 作られ得る、よく似た誰か。同じ顔のもう一人。それを命龍の奇跡と呼ぶならば。
(エツィラ)
 お前は本当に、私の妹だったのか。