積み荷をすべて馬車に乗せ終えたとき、太陽は空高くへと昇ろうとしていた。
 その重みの大半を占めているのが書物や紙の束だ。どれもバジルの父親が生涯をかけて収集してきた資料だった。出立が予定より遅れたのも、彼が荷物の放棄を最後の最後まで渋ったからに違いない。
 しかしようやく荷を整えて、いざ発とうというときになって、馬足は再びたたらを踏むことになった。鼻先に飛び出したジゼルが、兄譲りのひとにらみで馬と御者とを黙らせたのだ。
 顔を見合わせた父と母を見比べて、バジルは渋々馬車を降りた。なんだよと用向きを尋ねる声は平素より一段と低い。ジゼルはずいと彼の前に歩み出ると、その瞳の奥をのぞき込んだ。
「あなた、シルヴィアにお別れは言ったんでしょうね」
 予想のついた詰問だった。バジルはあからさまに眉を寄せる。
「どうだっていいだろ。轢かれたくないならそこをどいてくれる」
「よくないわよ、朝っぱらから辛気臭いあの子の顔を見せられたこっちの身にもなってちょうだい。お嬢さまだっていい迷惑だわ」
 花冠を退けたときの彼女の、凍りついた顔面が脳裏をよぎる。親にでも裏切られたかのようなそれを、バジルは頭から追い払った。
「知らないよ。きみだってシルヴィアと喧嘩をしていたんだろう。性懲りもなく世話を焼いて、保護者にでもなったつもり」
「きみだって! だって、って言ったわね? ええそうよ、シルヴィアの保護者さんが、あの子と仲たがいをしたみたいなんだもの。放っておいたらまたどこかで転んでぴーぴー泣きだすわ、絶対そう!」
「シルヴィアをなんだと思ってるんだよ。もう十五歳だろ」
 呆れた声で言うものの、バジルの舌は鈍かった。
 思い当たる節はある。あちこちで生傷を作っては泣くくせに、命を危険にさらしたときだけは、彼女の声は決して誰にも届かないのだ――十年前の大雨で川が増水したときも、つい数ヶ月前に足を滑らせたときも。
 だからこそシルヴィアは、誰を責めることもしない。彼女をひとりにしたことを糾弾されていたバジルを、熱で顔を真っ赤にしながらかばったように。
 初恋を自覚したとき、自尊心は折られた。まだ十歳にも満たないころのことだった。
 けれどもそれを、他人に暴かれるいわれはない。
「他の誰かが面倒を見るだろう。きみだっていいし、お嬢さまだって、あのお客さまだっていい。村の男が代わりになるかもしれない。……もう幼なじみをやるのも疲れたんだ」
「ずいぶん勝手なことを言うじゃない、それなら私が殴られたぶんは、誰がどう落とし前をつけてくれるっていうのよ」
 理解が追いつかず、しばらくして、シルヴィアが頬を腫らしていた日のことを思い出す。ただ一方的に殴られたものだとばかり考えていたが、どうやら彼女もそれなりの怒りを抱えていたらしい。
「なにをしたんだっていうんだ、いったい」
「私が、あの子の前であなたを馬鹿にしたの。……今になって怒らないでよ、シルヴィアと喧嘩をして、私だって反省したんだから」ジゼルは拗ねたように唇をとがらせて、ふいと顔を背ける。「殴られたことは許していないけれど、私だって同じぐらい、――ちょっと多かったかもしれないけど――殴ったから、もういいわ。それより大事なのは、シルヴィアがなにも言えずにあなたを送り出すだなんて、自分で許せるわけがないってこと」
 言葉を失ったバジルに、ねえ、とジゼルは呼びかける。
「あの子の声は、あなたには届いていなかった?」
 馬蹄の音が聞こえる。いななきは空高くに響いていった。
 屋敷から坂を駆け下りてきた馬が唾液を飛び散らす。彼らに怯えこそすれ、それを止められる村人はいない。栗毛の馬から飛び下りた少女は、しかし、体重を支えきれずにころりと転がった。小石だらけの地面に頭をすりつけて、か細いうめき声を上げる。
 バジルの体は慣れのままに動いていた。

「なにやってるんだよ、もう」
 頭を上げた先に、バジルの顔がある。それが当然のことだと思っていた。
 たとえ別々の相手を選んだとしても、彼を手放すことはないだろうと、心のどこかで信じていた。不安を覚えたのは、それが覆されそうになったからだ。ひとつずつしか選べないことを知ってしまった。
 シルヴィアはバジルの服の裾を握る。体を地面に叩きつけたおかげで、うまく力が入らなかった。
「ごめんなさい……」
 口を開いた先から、声は嗚咽に変わろうとする。必死でこらえようとすればしゃっくりが飛びだした。
「私、嘘をついたの。花冠はあなたに受け取ってもらいたかった。あなたのために編んだのに、それを言うことができなかった。きらわれたくなかったの。……まだ幼なじみでいたくて、変わってしまうことが怖くて」
 自己満足が欲しいだけだった。花冠を手渡したという事実をもって、自分の想いに見切りをつけようとした。綺麗な思い出にしてしまいたかったのだ。どんなに小汚い表情をしているかも気に留めなかった。
 シルヴィアは鼻をすすり、ごしごしと目元をこする。土が頬にこびりつき、顔の擦り傷は血の線を引いた。
「あなたのことが、好きです」
 手紙に伏せられた、宛先のない恋心に、返事をすることができるだろうかと思った。まっすぐな瞳の少年の想いに――震える指先で互いの心を探りながら、決してそれに触れようとしなかったことに気付いた今、このときに。
「ねえバジル、文字を勉強するわ。何年かかっても、あなたに手紙を送りたい。今度こそ私の言葉で。……そうしたら、受け取ってくれる?」
 口を開いていたバジルが、なにごとか言葉を吐き出そうとする。しかし上下するばかりの唇は、ひとつの単語さえ生み出すことはなかった。彼はそれを引き結び、おもむろにシルヴィアの肩に触れる。
 ほんの一瞬。シルヴィアの目尻に、熱が落とされた。
 身を離し、バジルはゆらりと立ち上がる。「待ってる」と告げながら。
「またスェルタに戻ってくる。一人でも仕事ができるようになったら。いつになるかわからないけど、それまで」
「……待ってる。いつまでも」
 約束する、と告げて、シルヴィアは唇を引き結ぶ。バジルは眉尻を下げて笑い、うなずいて馬車へ戻っていった。
 古びたインクのにおいをまとい、風はシルヴィアの赤いリボンを揺らした。からりからりと車輪を回す荷馬車も、やがて地平線の彼方に消えていく。それを最後まで見送りながら、シルヴィアは少年に送る手紙の内容に頭を巡らせていた。


 ――親愛なるあなたへ。
 スェルタより、胸いっぱいの愛をこめて。