屋敷に戻ってくるなり、テオは困ったように息をついた。
 持てる力のすべてをもって馬を駆ったのだろう、彼の髪はぼさぼさに乱れてしまっている。シルヴィアも時間を置いて戻ってくるはずだ。クローディアはほっと息をつき、彼にソファを勧めた。テオは素直にそれに従う。
『……それで、いったいどこまでがきみの策略だったんだい』
 滑らかなロマルタの言葉で言って、彼は肩をすくめた。
 同じ会話をゴートルード語でもできるようになればいいけれど、と頭のすみで考えながら、クローディアは首を振る。
『策略だなんて人聞きが悪いわ。後押しをしただけよ』
『その手紙、シルヴィアから受け取ったものだろう。あの子は字が書けないはずだ。だとしたら差出人は彼のほうかな』
 テオとシルヴィアを送り出してからというもの、クローディアは用済みになった封筒を手放すこともできないまま、窓の外を見つめていたのだった。指摘されて、うっすらとほほ笑む。
 宛名も差出人も書かれてはいなかったけれど、見慣れた文字から送り主の予測はついた。彼とは何度も文通を交わしてきたのだ。幼いみぎり、遊び相手を求めて村まで駆け下りていたころのクローディアが、彼の抱えていた紙切れに目を留めて以来。
「葡萄摘みの女の子、ねえ……」
 ひとりごちて、くすくすと笑う。テオが訝しげに眉を上下させた。
 バジルという名を知ったのも、文通を始めてからだった。年齢の割には早熟な子供で、まだおさないころから詩集を読みこなしていたというのだから、十四行詩を編むことも苦ではなかったのだろう。けれどもそれを持ち歩いてしまったのが彼の運の尽きだった。
 ひらりと舞いあがった少年の作品は、文字を知らない人々の暮らす村の中では、誰にも読まれることがないはずだった――クローディアが、ほんの気まぐれで屋敷を出てさえいなければ。
 青くなったり赤くなったりをくり返した少年の顔を思い出して、クローディアはくつくつと笑いをもらす。
『あの子が私を好きになる理由がないのよ。ちいさいころから今の今まで、散々いじめてやったんだから』
『……クローディア』
『そんな顔をしないでちょうだい。すこしつついてやらないと、お互いを見ることさえできない子たちだったのだもの。仕方ないわ』
 シルヴィアが届けた手紙に書かれていたのは、普段通りのそっけない文面だった。
 身の周りで起こった事件、村に暮らすシルヴィアのようすに始まり、自分がスェルタを出ていくこと、幼なじみの今後を頼みこむ内容が続く。運び人は恋文であると思いこんでいたようだったが、はったりもいいところだった。シルヴィアに文字が読めないのをいいことに、うまく言いくるめて運ばせたに違いない。
『それに、ちょっとぐらい意地悪でもいいでしょう。嘘をついた男の子に、相応の嘘を返してやっただけよ』
 シルヴィアを経由することにはなったけれど。胸中で添えて、クローディアはいたずらっぽく目を細めた。
 バジルの想い人がシルヴィアであることに気づいたのはずっとあとのことだった。とはいえ、収穫祭で手と手を取り合った二人を一瞬でも見かけたなら、矛先を悟ることも難しくはない。
『はたから見たら一目瞭然だったのに、自分のことも、相手のことも、よく見えていないのだから。……恋ってそういうものかしら』
 望みをかけてテオを見やるも、彼はぱちりとまばたきをするだけだった。そういう人よねとため息をついて、クローディアは椅子に腰を下ろす。意趣返しがしたい気分になった。
『テオ、賭けをしましょうか。負けた方はひとつ言うことを聞くの。私はもちろん、もう一度外に連れ出してもらうことをお願いするわ』
『……世界一賢い僕の許嫁さんが勝つに決まっているだろうけどね。話だけは聞こうか』
『簡単なことよ、ここに戻ってくるシルヴィアが、私になにを言ってくるのかを当てるの。謝るのはもちろんだから、そのあとに』
 続きを促すテオの瞳に、クローディアはゆるりとまぶたを伏せた。
『私は、文字を教えてほしい、と言うと思うわ。きっとね』
 テオは愉快そうに笑って、ほうらきみの勝ちだと肩をすくめた。
 あわただしい足音が廊下に響く。デボラの叱り声が飛んでもなお、足をゆるめる気配はない。扉の前で足踏みをして、ひと呼吸。クローディアの想像するままの強さで扉が叩かれる。
「失礼いたします、お嬢さま。シルヴィアでございます」
 賭けごとの種にされているとも知らない少女が、おずおずと部屋に足を踏み入れる。
 間もなく果たされる自分の願いごとに、クローディアは胸を躍らせていた。