手拍子が鳴りわたる。すがすがしい夏風を、花の香りを、空まで運んでいくかのように。
 村の中央を歩く踊り手の行列は、その先頭に太鼓タンブランたて笛ガルベの奏者をいただいていた。入れ替わり立ち替わりに並びや奏者を変えながら、行列はぐるぐると村を歩く。真っ青な空から注ぐ日差しに、人々は汗の粒を輝かせていた。
「花を頭に飾っているのには、なにか理由があるのかい」
 のんびりとした声で、テオがクローディアに問いかける。
 目立たないようにと麻の服に身を包んでも、令嬢と客人の来訪の噂は村の隅々にまで行き渡ってしまっていたらしい。行く先々で食事や酒を押し付けられ、そのいくつかは断って、ようやくふたりは落ち着いて村の行列を眺めているのだった。
「そういう習慣なのよ。収穫祭の朝から、村の人たちはひとつずつ花冠を編むの。自分にとっていちばん大切な相手に渡すためにね」
「ならシルヴィアも?」
 テオが途切れ途切れに口にしているのは、ゴートルードの言葉だった。一月ほど前には目も当てられなかった彼の言語も、日々の学習によってようやくさまになっている。教師がよかったのね、とクローディアは満足げにほほ笑んだ。
「ええ、昨日の夜には家に帰っていったもの。きっと今年も花冠を作っているはずよ」
「優しい子だから、きっとご両親にでも差し上げるんだろうね」
「そうかしら。あの子ぐらいの娘さんなら、ほかに大切な人ができてもおかしくはないわ」
 テオはきょとんと目を丸くする。心当たりがないとばかりにまばたきをくり返すので、クローディアも吹き出さずにはいられなかった。
「なにも、ご両親ばかりが大切な人だというわけではないでしょう」
「それ以外に誰か」
「ごあいさつね。あなたにとっての私は、花冠を渡すのにふさわしくない相手かしら」
 切り返しがテオの頭のなかで意味をなすまでに、しばらくの間があった。ああ! と手を叩いた青年には一分の照れもない。それどころか子供のように笑って大きく首を振り、感慨深げに息をつくのだった。
「そうか、シルヴィアにも」
「私の鼻が嗅ぎ取った限りではね。けれど」
 唯一気にかかるのは、ここ数日、シルヴィアの顔色が優れなかったことだった。
 クローディアが声をかければ、彼女は笑って用件を伺う。しかしひとりで箒をあやつっているときは、まるで彼女だけが夜に覆われているかのように、思いつめた表情を崩さないのだ。シルヴィアが空元気を通そうとしている以上、クローディアがその理由を尋ねることはできないままだった。
「叶わないお相手なのかしら」
「……クローディア」
 ぽつりとつぶやいたクローディアに、テオが声をかけようとしたときだ。
 子供たちがわっとふたりを取り囲み、いっせいにちいさな花冠をかかげる。お嬢さま、お嬢さま、と口々に呼ばれ、クローディアの頬は自然とゆるむ。ためらわずに膝を折って両手を差し出した彼女に、子供たちの力作がささげられていった。
 それをほほ笑んで見下ろしていたテオにも、数人の子供がふり向く。
「お兄さんもどうぞ」
「……僕も? いいのかい」
「受け取ってください!」
「スェルタに、ようこそ、いらっしゃいましたー」
 鐘を鳴らすような声がひびいていく。彼らは放牧された子羊にも似た、無邪気と興奮のかたまりだ。それからしばらく、体いっぱいの花に飾られたふたりは、互いを見て困ったように笑いあった。

 祭りを彩る音楽は、壁一枚をへだててどこか空回りするように聞こえていた。
 息子ひとりを家に残して、両親はその列に加わっているのだろう。あるいは息子がまだ家に取り残されていることさえ、彼らは気づいていないのかもしれなかった。
 人気の感じられない家に、シルヴィアはそっと上がり込む。変わりない内装に懐かしさを覚えていた。幼いころは毎日のように扉を叩き、少年の名を呼んでいたものだ。居間を抜け、細く急な階段をのぼって、二階へ――足を踏み出すごとに、シルヴィアの頭でささやかな花冠が揺れる。
 村の中でも大きなその家は、一家の主がその知識をもとに積み上げた財産で建てたものだ。都の生まれであったバジルの父親は、資料収集に立ち寄ったスェルタの農村で、村娘と恋に落ちたのだと聞いている。
 辿りついた一室の前、シルヴィアは扉をひかえめに叩く。バジルの名を呼ぶと、不思議そうに返される声があった。すぐに扉が軋んで、少年が顔を出す。
「シルヴィア? 父さんと母さんなら外だよ」
 彼の背後の机には、積み重なった書物と紙の束が乗せられている。シルヴィアはひそかに奥歯を噛んだ。
「ごめんなさい、お勉強の途中に」
「それは構わないけど。なにか用? 手紙のことなら明日の朝には……」
「違うの」
 長引く緊張に、口は重い。助けを求めるように横を向けば、廊下の壁にはひとつの花冠がつり下げられていた。まばらに花が組まれただけのそっけない作りは、その作り主がバジルであることを雄弁に示している。
 バジルはシルヴィアの視線を追って、ああ、と声を上げた。
「言っただろう、渡す相手なんかいないって」
「お嬢さまなら村に」
「大した面識があるわけでもなし、これを贈ったところで迷惑に思われるだけだよ。……シルヴィアこそ、いつまでその頭を飾っておくつもり」
 頭の花冠が、茨の冠に変わったかのようだった。シルヴィアは耐えるように唇を噛んで、そうね、とだけ答える。
 胸の囁きに耳を傾けさえしなければ、収穫祭という一日は、木の葉にくすぐられるようなこそばゆさをシルヴィアに運んできたに違いなかったのだ。しかし今――エリューヌ川によって呼び起こされる記憶までもが、他人のものにすり替えられてしまった今、シルヴィアには知らぬふりでテオにほほ笑みかけることなどできなかった。
 家々の陰から陰へ。背中から背中へ。彼らから距離を取るように渡り歩いて。そうしてシルヴィアが逃げこめる場所は、たったひとつしか残されていなかった。幼なじみなのだから、秘密を共有しているのだから――だから、追い返されることだけはあり得ない、と。高慢が耳打ちするままに扉を開き、彼女はここに立っていた。
「最後の収穫祭なんでしょう。こもっているなんてもったいないわ」
 とぼけたように言うと、バジルは首をかしげる。自分が蛇になったような錯覚を覚えながら、シルヴィアはじっと廊下を睨みつけていた。
「私、今日はひとりなの。ジゼルとは喧嘩別れのままで、そのせいでパメラたちも私たちを遠巻きに見ているみたい。お父さんもお母さんも酔っ払っているし。だから」
 怯えようとする心臓に、黙っていてと願った。
「一緒に踊ってくれないかしら。……あなたのこと、忘れないでいられるように」

 言葉を失ったままのバジルの手を、シルヴィアは問答無用で引いていった。驚きが体温までも奪い去っていったのか、夏の初めだというのに彼のてのひらは冷えており、シルヴィアに自身の緊張を知らしめる。
 家を出るやいなや、祭りの音色はいよいよ耳を叩くようになる。それに至って、バジルははっと表情をこわばらせた。
「なにやってるんだ、シルヴィア!」
「いいから、ついてきて」
「なにがいいって言うんだよ、こんなところを見られたら……!」
 小声で制止を促すものの、バジルはシルヴィアの手を振り払うことも、足を止めることもしないのだ。彼が表立った反抗を示さないであろうことを、シルヴィアもまたよくよく理解していた。勝手を働くだけの自分を、バジルは決して叱らない。叱れないことを知って手を引いたのはシルヴィアだ。
 立ち止まり、ふり返れば、少年は今にも泣きそうな顔でシルヴィアを見ていた。
 空気は酒のようだった。太鼓が心臓を急きたて、笛が頭を狂わせる。村人たちの声は入り混じり、意味を取らない雑音となってシルヴィアの鼓膜を揺るがした。
「シルヴィア――」
 呪いじみた祭りの雰囲気に浮かされているのはバジルも同じだ。そうでなければ、懇願するような声で自分の名を呼ぶはずがない。確信に押され、空いたままの手を繋げば、バジルは大きく体を震わせた。
「……あの人がいる。きみの好きな人が」
 それでも彼は、決してやめろとは言わないのだ。
 胸に爪を立てるかのような痛みは、シルヴィアの耳を真っ赤に火照らせた。握っていただけの手を離し、逃がさないようにと指をからませる。そうしてゆるく首を振った。
「あなたこそ。お嬢さまなら、物見小屋のそばにいらっしゃるわよ」
「だから、僕はいいって――」
「それなら」遮って、シルヴィアは首を振る。「……私もいいもの」
 沈黙。どちらからともなく吐息をこぼした。皮膚がこすれ合うたびに、焼けつくようなしびれが走る。
 自分が持ち出したものが平等を装った不平等であることを、シルヴィアだけが知っていた。心臓はとどまることなく揺れ動き、ちいさな胸のなかで喝采を上げている。ついに罵り声の形を取った自責の念さえ、もはや恍惚を燃え上がらせる油にしかならなかった。
 鼓動を律動に。地面を蹴る。後退さえも足踏みに変えて。
 身を揺らせば、熱も払えるだろうと思った。忘れ去ってしまえるだろうと思った。だというのに、頭は思考の力さえも捨てていこうとする。
「シルヴィア」
「……呼ばないで」
 そんな声で、私の名前を呼ばないで。
 声はバターのように溶けていった。願いのひとつも言葉にならず、代わりにバジルの瞳に縋る。その一瞬、彼の表情はくしゃりと歪み、両手の爪がシルヴィアの手の甲を掻いた。
 唐突に笛の音がやみ、高らかな拍手が響きわたる。行列の最後の一周を前に小休憩が挟まれたのだ。耳元に反響していた音色が消えていくのを待って、シルヴィアはするりと身を離した。
 花の香りがあとを追う。呆けたままのバジルに、シルヴィアは笑んでみせることもできなかった。頭から花冠を取り払うと、健やかな風が汗をさらっていく。
「渡せないわ。……渡せるはずがなかったの」
 自嘲をこめて笑ったところで、乾いた笑声しか響かない。
 子供たちに、村娘たちに、そしてクローディアに寄り添われたテオを遠目に見ても、もうシルヴィアの胸は引きつらなかった。羨むことさえもしなかったのだ。もしも痛みが走るとするならば、それは自分を責める声が耳に響くからに他ならない。
 シルヴィアの抱えた花冠は、もうすっかりしなびてしまっていた。
「あなたにあげる」
 え、とバジルが顔を上げる。
 笑わなければ耐えられない。照れ隠しの衣をかぶりながら、シルヴィアはじっと地面を見つめていた。
「もう渡す相手がいなくなってしまったの。もらってちょうだい。昔みたいに」
 大人のまねごとをして花冠を配り歩いた日、シルヴィアはまだつぼみだった。花冠をささげたこどもたちがころころと笑うのも、バジルが困ったように眉を下げるのも、みな同じに喜んでいるからだと思っていた。
 花冠をささげ持つ。ごまかしに彩られた花々が、ひどく陳腐なものに見えた。
「バジル」
 呼んだ、その瞬間。
 バジルの腕がひるがえった。花冠はシルヴィアの手から叩き落とされる。円を描いていた茎までも断ち切られて、花びらは血しぶきのように宙を舞った。
「……喜ぶとでも」
 地を這うような声、だった。
「喜ぶとでも、思ってるのかよ……!」
 突風が吹く。どこかで悲鳴が上がった。土埃がシルヴィアとバジルのあいだを駆け抜けて、視界をまばらに覆っていく。それが晴れたとき、バジルはきつく歯を食いしばっていた。呼びかけようと口を開いたシルヴィアを、ざり、と地を踏んだ足音が遮る。バジルはそのまま走り去っていった。
 なにごともなかったかのように再開されるたて笛と太鼓の音楽のなか、シルヴィアは呆然と立ち尽くす。ああと思って拾い上げた花冠は、なかばでちぎれ、てのひらの上にぐったりと横たわった。

 その晩。シルヴィアの家の軒先には、二通の手紙が届けられる。
 揃いの封筒には、その宛先を示すように、一輪ずつの花が添えられていた。