密約は、シルヴィアとバジルを結び付けるものであるはずだった。それがどんなに手ひどくシルヴィアの胸を苛むものだったとしても。
 家に帰ったあと、自分がどんな顔をしていたのかを確かめることさえ、シルヴィアには恐ろしくてできなかった。バジルの家族の移住を両親に問いただす力もなければ、食事もろくに口に入らない。膝を抱えて過ごした夜は、普段より緩慢に更けていくように感じられた。
 一睡もしないまま迎えた明日。朝日の訪れとともに屋敷に戻ってきたシルヴィアを、デボラは寝起きの渋い顔で出迎えた。
「時間を考えたらどうなの。そう早く来たところで仕事はありませんよ」
「煙突掃除でも、草むしりでも、手を動かしていられるならなんでもいいんです。お給金はいつものままで構いませんから」
「当然です。こんな時間に顔を出したのはあなたの都合なのだから……音を立てる仕事は迷惑になりますから、厨房の手伝いでもしていらっしゃい。ガストンの邪魔にならないように」
 厄介払いをされるように使用人室を追い出され、厨房では料理長にも目を見開かれる。なにか仕事をと言い縋ったシルヴィアに彼は火入れと水くみを命じ、黙々とそれに従う少女を、まるで部屋に入ってきた鳥を見るかのような目で見つめていた。
「ほかに、なにかお手伝いできることはありませんか」
 水の入った桶をガストンに手渡すと、彼はきっぱりと首を振った。
 ここからは料理人の仕事だ。そうはいってもうなだれる少女を追い払うのははばかられたのだろう、ガストンは壁の脇に椅子を用意した。シルヴィアはそこに座らされ、やがて鳴りだすフライパンの油の音に耳をすます。
 しばらくして調理台に並べられた皿は五枚だった。主人のぶん、夫人のぶん、令嬢のぶん、客人のぶん、と指折り数えてシルヴィアは首をひねる。ガストンは余った一枚にパンとチーズ、干し肉を乗せると、シルヴィアの前に差し出した。
「食事も取らんで来たんだろう。食べていけ」
「でも、ガストンさん」
「ケーキやコーヒーに比べれば大したものじゃない」
 それを口にされると弱い。シルヴィアはもごもごと礼を言いつつ皿を受け取った。
 温めなおされたパンの上では、薄切りのチーズがとろりと溶けて、ほのかな香りを漂わせている。ためらいがちに口に含むと塩みと甘みが舌の上に広がった。鼻のなかを通りぬけていく熱に、シルヴィアは思わず目元をゆるませる。
 一口飲み込んでしまえば、もうおさえは効かなかった。あっという間に皿の上を空にしたところで、ガストンがその皿を横から取り上げる。
「お前がけわしい顔をしていると、お嬢さまが心配なさる。あのお客人もだ」
「テオさまも?」
「お前に元気を出させるにはどうしたらいいかと聞いてくる。まるでお嬢さまが二人になったようだ、仕事が進まなくてかなわん」
 パーティーの一件以来、テオとは顔を合わせる機会がなかった。見かけたとしてもうしろ姿、それも遠くに立ち去るのを見送るばかりで、声をかけることもためらわれていたのだ。しかしガストンの言葉を信じるならば、気落ちしていたシルヴィアの姿を、彼もまた見かけていたということになる。
 そのときシルヴィアにこみあげたのは、息が詰まるほどの羞恥だった。
「私、おふたりに心配していただけるほどの人間じゃありません」
 卑屈だと知っていた。けれども止めることができなかった。
 ガストンは息をつき、シルヴィアの頭に手を乗せる。子供を寝かしつけるように二度叩いて、言った。
「お嬢さまもお客人もそうは思っとらん。ふたりを失望させたくないと思うなら、道はふたつだ。洗いざらい吐き出すか、苦しくとも騙しとおしておくか」
「騙しとおして……?」
「自分以外の全員を騙しとおしたら、それは立派な真実だ。誰もお前を疑いはせん」
 口にできないままの秘密が、ちくりとシルヴィアの胸を刺す。
 椅子から腰を下ろしながら、シルヴィアはガストンの言葉を頭にくり返していた。――つらぬき続けた嘘が真に変わるというなら、その嘘は、いつかは自分をも騙してくれるだろうか、と。

 午前中と午後のほとんどを掃除に充てたシルヴィアが、その日はじめてクローディアの顔を見たのは、日も暮れきった夜半のことだった。
 時計はとうに晩餐の時間を告げている。食事の並べられた一室に、クローディアはいつまでも顔を見せなかった。心配する領主の言いつけに従い、シルヴィアは彼女を呼ぶために部屋の扉を叩いたのだ。
「お嬢さま、シルヴィアでございます。晩餐の支度が整いました」
 あら、と、珍しく切羽詰まった声が返ってくる。ぱたぱたと床を踏む音が続き、それから自分で扉を開いたクローディアは、滑らかなブロンドのあちらこちらを絡ませていた。
「もうそんな時間だったかしら。ごめんなさい」
「お嬢さま、御髪に乱れが。どうかなさいましたか?」
「シルヴィアには言っていなかったかしら。……そうね、昨日はお休みしていたのだものね」
 クローディアは意味ありげに自室をふり返る。気恥ずかしそうに一歩を退いて、あれなの、と中央に視線を投げた。導かれるようにしてシルヴィアは顔を上げる。
 心臓がひとつ、大きく脈を打った。
 飾られていたのは、ふんだんに透かし織の為された絹のドレスだ。袖口や裾、襟ぐりには金糸や銀糸の刺繍が為されており、クローディアのまとう空気にも似た、整然としてやわらかな彩りをドレスに添える。肩にかけられたベルベッドのマントは、緑の生地におだやかな光沢を帯びていた。
 シルヴィアの呼吸が止まる。頭を裂くような耳鳴りがした。見間違いようもない、それは、クローディアのためにあつらえられたウェディングドレスだ。
「近く祝言を挙げるの。ひとりで試着をしていたら、時間がかかってしまって。あなたを呼べば良かったのだけれど、忙しそうにしていたものだから」
「……お相手、は」
 答えは分かっていた。聞きたくはなかった。けれども訊かずにはいられなかった。空のままのシルヴィアの指先が、かすかに震える。クローディアの白皙にはちらりと朱がさした。
「テオよ。ここに住んでもらっていたのも、スェルタに慣れてもらうためだったの。あなたにまで黙ってたことは謝るわ、けれどお父さまも私も、まだ大事にはしたくなかったものだから」
 照れ隠しじみたそれも、もうシルヴィアの耳には入ってこなかった。ざらついた舌で心臓を舐めあげられたかのような焦燥感に、体から力が抜けていく。
「シルヴィア。ねえ、シルヴィア?」
「……はい」
 咄嗟に作り上げた表情が、ほほ笑みの形をとれたかどうか。
「祝言は、ひと月と半分はあとのことよ。そのときあなたは祝ってくれるかしら」
 クローディアは指先を組み合わせ、恥ずかしそうに身を縮めた。その、あまりにも娘らしい――ひいては生身の人間じみた佇まいに、シルヴィアはがつんと頭を殴られたような衝撃を受ける。こよりのようなシルヴィアの意識を保ちつづけたのは、ふいに蘇ったガストンの言葉だった。
 嘘をつくなら、騙しとおせと。そうすれば嘘も真実に変わるだろうと。その声が呪いのように頭をめぐり、シルヴィアの唇をこじ開ける。
「もちろん。……もちろんお祝いいたします、お嬢さま。ですから」
 揺らぎそうになる声を、こぶしを握ってふるい立たせた。
 笑え。笑え。そう自分に言い聞かせ、クローディアの瞳の中に少女の姿を探す。
「シルヴィアのお願いです。おふたりの姿を、村のみんなに見せてあげては下さいませんか。そうすれば皆、おふたりをもっと好きになります。祝言も皆に祝われるでしょうから」
 シルヴィアの怯えは、最後までクローディアに伝わることはなかった。彼女は満面の笑みを浮かべ、わかったわとうなずいてみせる。
「一昨日にも同じことを提案してくれたでしょう? お父様にお話してみたら、収穫祭の外出なら許していただけそうなの。あなたのおかげよ、シルヴィア」
 クローディアはそこではたと時計を見て、唇に手を寄せる。
「いけない、お食事の時間だったわね。早くしないと冷めてしまうわ」
 早足で部屋を出ていくクローディアを見送って、シルヴィアはエプロンの胸元を握る。張りつめていた空気からようやく解放されたというのに、夜虫の鳴き声も、風が窓を叩く音も、うまく聞き取ることができなかった。
 体のいい嘘をついた。今度はたしかな自覚をもって。自分以外のすべてをだまし通したとしても、胸は締め付けられるように痛むというのに。
「……卑怯者。あなたは卑怯者だわ」
 クローディアの結婚を知った瞬間、焦ったと同時に安堵していたのだ。秘密が反故にされてしまうことを恐れながら、実らない二つの恋のゆく先に息をついていた。
「卑怯者……!」
 月が冴え冴えと光っている。鋭い切っ先に切りつけられるようで、シルヴィアは顔を背けずにはいられなかった。